辻堂さんの純愛ロード

感想書こうと思ったのですが、5時間かけて10回くらい書き直した末に一言も書けなくなったという体たらく状態なのでtwitterの引用で。


かくして「純愛ロード」は完成されたのだ(どーーん!)



いやもうすげえ面白いゲームでして、キャラクターは良いしギャグは最高、テキストは心地良く、様々なキャラクターを組み合わせた各エピソードはもっともっと見たいと思わせるものであり、つまり総じるとやってて面白いしもっと見たいと思う凄く素晴らしい作品、なのですが、なのですが!
素晴らしさや楽しさより死にたさの方が勝ってしまった。(よって死亡=Give up)


各所で言われているように主人公くんが結構難儀。勿論不快に思うか/思わないかは人によりけりなのですが。しかしそもそも設定的にこの主人公くんには不利でもあるんですよね。『つよきす』や『まじこい』が上手だったのは、あの世界において主人公は強い人と最初から知己であったという点/最初から仲間がいたという点で、『辻堂さん』にはそういうのが無いので、むしろタカヒロ世界の「生き難さ」の方が目立ってしまっています。過去に何度も書いてきましたが、タカヒロ世界というのは基本的に超シビアで、顔のないモブキャラですら「この世は弱肉強食」と言ってしまうくらい恐ろしい世界なのです(現実の僕らが生きている世界とだいたい同じように)。超人が出てきたりメカが現れたり超金持ちがいたりしますけど、そういうチート的祝福が与えられているのは設定部分だけで、実際物語の中ではご都合主義的奇跡は殆ど一切起こらない。すごい人だからってほっときゃすごいことが起こるわけではなく、自分たちの力ですごいことを起こしている(導いている)のです。それはたとえば主人公たち一般人も同じで、何かを手に入れたいと思ったら、何かになりたいと思ったら、己の力で目指していくしかない。
で、『辻堂さん』はタカヒロ作品ではありませんが、この辺の「シビアな世界」であるということは基本的に踏襲されています。しかし『つよきす』における対馬ファミリーや『まじこい』における風間ファミリーのような、(僕たちプレイヤーが)この世界と向き合う膜・緩衝材となる仲間たちがいないので、その世界のシビアさがあんまりにも目立っちゃってるのです。『まじこい』で喩えるなら、モブの一般生徒が主人公で、特に仲間もいない状況で、今まで知り合いでも何でもない、ヒロインである百代さんやクリスや揚羽さんと仲良くなろう、みたいな話です。これなんて無理ゲー。勿論仲良くなっていけば、彼女たちが「仲間」になってくれるので、世界のシビアさは緩和されるのですが、そこに至るまでの序盤が高難易度なのは明らかでしょう。そういった点から、主人公くんの情けない感じとか弱いところとかは多少フォローできると思うのです。まあ多少であって、たとえば三会に対する妨害を阻止するために一人江之死魔に突っ込んでいったときの主人公くんが、何も考えてなくて作戦なんて勿論なくてただノープランだったという時点でボクはまったく信頼できなくなってしまって(困難があっても彼なら何とかしてくれる!みたいな意味での「信頼」)、以降ゲームプレイ中、この先の困難を匂わされる度に、「この子解決できるどころか余計な首の突っ込み方してむしろ状況悪化させそうで胃が痛い」と不安な思いをしてしまったのですが。てゆうかゲームプレイ中ずっと不安でもあったんスよ。風間ファミリーや対馬ファミリーのように頼れる仲間はいないし、主人公くんは前述のようにアレだし、てゆうかむしろ主人公の所為で悪化しそうだし! ギャグやテキストは面白いんですけど、しかし同時にずっと不安でもあるという、なんとも恐ろしい(まるでリアル人生のような)ゲームプレイ感触でした。
もう一つ、主人公くんに関しては、たとえば愛ルートにおける「辻堂さんに不良をやめてもらう」みたいなもの。そこだけに限らず、何でみんな不良やってるんだ、何でみんなそんなこと(喧嘩とか湘南制覇とか)に必死なんだと冷めるところ。ここがあまりに好きではない。理由は上記twitter引用に書いてあるように、彼女たちはそれに自分なりに凄く真剣であるのに対し、主人公は決してそうではないから。この辺ねー、ライターさんは分かってて書いてるんですよね。恋奈ルートの最初の方とかで語られていましたけど、「不良」というのも、たとえば音楽に打ち込むとかスポーツにのめり込むとかと本質的には何も変わらないわけです。

冴子「スポーツ、芸術、音楽。全て無意味だわ」
冴子「でもそれを否定したら、人間なんてただ二本足で立つ動物でしょう」
冴子「『無意味』はそのまま人間らしいって意味なのよ。で、その無意味が社会にとって困る方向に向いた子を、社会は『ヤンキー』って呼ぶ」

何かの役に立つわけでもない無意味な行為に打ち込むという意味では、スポーツも芸術も音楽も不良も同じである。言ってしまえば、不良になって全国制覇だーと意気込むのも、よし新作エロゲ買ってきた猛プレイするぞーと意気込むのも、本質的に同じようなものなのです。他人に迷惑がかかるか、社会にとって不都合か、という点は異なるけれど、他は何も違わない。それはスポーツや音楽なんかも同様で、ボール追いかけるのもギター練習するのも、突き詰めれば「無意味である」という点において同じ。けど、だけど、それでも、無意味だろうが何だろうが「俺がそれをやる」と決めた上で打ち込むのであれば、それは本人にとって楽しかったり面白かったり熱中したりすることができる、輝けるものである。その点においては音楽も不良も変わらない(だから文化祭ライブを愛さんは「ツッパリ」と見れたわけです)。
だから「不良をやめろ」というのは、音楽やめろとかゲームやめろと言うのと本質的に変わらないわけです。相手が自らの意思で、あるいは自らの性質で「そうしていること」に対してやめろと言う。別にそのようなこと言うのは、全然良いと思うのですよ。ただ相手が真剣にやってることをやめさせたいのなら、こちらも真剣にそう言うべきなのではないだろうか。たとえばここでは、それが相手の意思を覆させる行為であるにも関わらず、ここでの主人公くんにそんな気迫も覚悟もない。だから個人的には好きではないんです。そして前述したように「ライターさんはそのこと分かってる(はず)」だと思うのですが……にも関わらずこのようにした理由がどうにも分からないっす。結果的にここでは主人公の方が「(大文字の)社会」の表徴をアウトソーシングさせられているかのようであって、にも関わらず最終的に主人公は愛さんのことが好きだってことで端的にぶっちゃけると折れるわけですが、つまりこれは社会と不良との対峙は、大文字同士では反発し合うけど、レッテルや属性に対応するわけではなく、個人としてみれば、好きになることもある(まさにクラスメイトがそうであるように)、ということなのでしょうか。まー今てきとうに書いただけでそんなわけねえと自分でも思うのですが。なんかよく分からないので分かった人教えて下さい。


あと個別ルートがある意味単調という点がちょっとした不満点でしょうか。ちなみに不満点ばっか書いてしまっていますが、ここに書いた不満点以外は「全て良い点」だと思っていただいて支障ありません。いやホントに良いゲームなんですよ。ただ、ただ、俺は死んだ。
で、この点がもしかしたらタカヒロさんとの一番の違いかもしれないですね。ゲームというのはたいてい、のんべんだらりと進むだけに終始するわけではなく、何かしらの目的や目標、到達点や終着点がどことなく分かるように作られています。これは主人公に対する目的・目標・到達点というより、プレイヤーが憶測できるそのゲームの(そのルートの)目的・目標・到達点というものです。たとえば『ドラクエⅢ』だったらまずバラモスを倒す、という最終目標が提示されて、でもいきなりそこまでは進めないから、アリアハンから出るとかコショウを手に入れるとかオーブを集めるといった短期的な目標・目的・到達点がそれぞれ提示されるわけです。そこがゲームプレイ上の一つの指針となっている。同じようなことはエロゲーに対しても言えまして、たとえば『Kanon』でしたら、女の子と仲良くなる、女の子の悩みやトラウマを解決する、その辺がそれぞれ話の流れ上短期目標として上がってくる(プレイヤーに分かるようになっている)わけです。その中でそれぞれ個別に人形探したりとか魔物と戦ったりとかがある。そして最終的には上手く色々と解決して幸せになることが到達点かな、ということがプレイ途中でも読めると思います。それがゲームプレイ上の一つの指針となっているわけです。この先どうするのかの道筋が(勿論正確にはわからないけど)なんとなく薄ぼんやりとは見える。
これは他のエロゲでも大なり小なりそうで、てゆうか萌えゲーとかシナリオゲーとかはこの『Kanon』みたいなプレイ指針が多いですね。短期的には女の子と仲良くなることが目標で、それが達成できたら次の短期目標に女の子の悩みやトラウマが置かれる。そういったものを一つずつ乗り越えていった先に到達点がある。で、『辻堂さん』の個別ルートには、そういったところがかなり欠けてるように思うのです。つまり、目標や目的、最終的にどうする・どうなるのかってのが全然分からない。湘南制覇はヒロインの方の目標としてはあるかもしれないけど主人公の方にはないし、ただイチャイチャするだけが目的というのも考えづらいし、かといって悩みやトラウマというのは殆どその影も見せない(まあ主人公そのものが彼女の悩みになるみたいなマッチポンプはありますが)。大抵のゲームはそういったことを(言葉ではなく出来事で)指し示してくれるわけです。目標や目的というのは作中で言葉で教えてくれるものではなく、「ここでこういう敵が出てこういう結果になった」「ここでこういう展開になった」「ここで彼女の悩みやなんやらが匂わされた」というところから、そうなるのではないかと我われが読み取れるものです。しかし『辻堂さん』の場合はそういうのがあんまり無いんすよね。まるで4コマ漫画やシュガスパみたいに、(多分エピソードを一個二個飛ばしても、エピソードの順番をちょっと組み替えても問題ないような)半ば独立したエピソードが並んでいる。個別ルートがある意味単調だったというのはそういう意味で、要するに「ただの日常」と変わりないものが延々と続いてその先が見えないから、というところです。我那葉とか裏で暗躍していますけど、それが(バトルが)お話において最も重要になるとはハナから考えられないので(この主人公だし)。
で、プレイ指針としての目標目的到達点の話ですが、実は『つよきす』や『まじこい』ですら、普通のエロゲの形式からそこまで外れた形ではないのです。女の子の悩みを解決する、というのが短期的(ないし長期的)な目標として見え隠れしている。以前から何度も書いてきたように、『つよきす』や『まじこい』のヒロインというのは、主人公の助けが無くても大丈夫なくらい強いです。よく主人公と結ばれなきゃ悩みが解決しない・トラウマが解消しない・不幸になる、みたいな話(みたいに想像できちゃう話)があって、まあカノなんとか的問題とかそういう系統のノリですが、そういったところとタカヒロヒロインは大きく異なります。主人公の助けがなくても、一人でも悩みやトラウマはどうにかできる。解決もできるし、折り合い付けることも出来る。けれど、だからといって、決して主人公の助けが必要ではない”というワケではない”のが、タカヒロヒロインなのです。主人公が助けなくても大丈夫だけど、だからといって主人公の助けを必要としていないワケではない。たとえば『まじこい』だったら、百代も一子も京もまゆっち*1もそれぞれ悩みや問題を抱えています。その悩みや問題は、彼女一人でどうにかならないものではない。実際他の子のルート進んだからといって、その(選ばれなかった)子が、悩みや問題をどうにか出来なかったという描写はされていない。むしろ(後日談でもあるまじこいSを見ると特にですが)一人でもどうにか出来ているというように描かれている。でもそれは、一人で大丈夫だから主人公は必要ないという意味ではなく、主人公がいるならいるで、助けになるなら助けになるで、(たとえばそれは友達が友達を助けるのと同じように)あったら嬉しいものなのです。あったらあったで一人の時とはまた違う嬉しい方向に悩みや問題が解決するものなのです。百代や一子や京やまゆっちシナリオがまさにそのまんま、そう語っている。大和がいなければどうしようもならなくなる、なんてことはないけれど、けどそれは大和が必要ではないという意味では断じて無い。
『辻堂さん』はここが最大の違いじゃないかな、みたいにも少し思うのです。彼女たちにとって、楽しく過ごしていく、みたいな意味では大は必要かもしれないけど、悩みや問題という意味ではむしろ大いなくてもいいんじゃね? といったように思えてしまうのです(まあボクは途中で死んだことにより全クリアしていないので、要するに主に愛さんシナリオと恋奈シナリオ途中までの話ですが)。たとえば愛さんシナリオにおいては彼女の悩みや問題といったものはむしろ大によって生み出されるもの”以外に存在していなくて”、要するに悩みや問題という意味ではお前が悩みじゃねーかと。これはボクは非難しているわけじゃなくて、恐らくタカヒロとの差異がそこにあるのかなと思います。悩みや問題を解決して、「前に進む」「強くなる」といったことに重点置いているタカヒロ(主にまじこい)に対して、『辻堂さん』は楽しいこと、「楽しく生きていくこと」に重点置いている。


さて、そんなこんなで、文句や不満点はありつつも「やっぱ面白いなー」と続けていたこのゲームをやめた最大の理由は、この悪夢のような純愛構築システムでした。なるほど、君たちエロゲーマーが純愛をしないならば、システム上で強制的に純愛環境を構築してしまえばいいのだ! オーマイ、エロゲのディストピアがここにあるぞ!
詳しくは上述twitter引用を見てくださいということで。再度書く気力がない。ボクは辻堂さんかなり気に入ったので―――印象批評度100パーセントでお送りしますが、かわしまりのさんといえば、どちらかといえば姉御肌系とか凛々しい系のキャラクターをあてられることが多いですが、しかし単純に「強い」「格好良い」というよりも、どことなくその声には「弱さ」も孕まれていて、それがこういったキャラだと最高に映えることになると思うのです。具体的には、『らぶでれーしょん』のメインヒロインとか、『白光のヴァルーシア』のお姉ちゃんとか、ああいう「一見強いんだけど弱い」「一見弱いんだけど強い」なんてキャラクターに物凄く合う。強さの裏に弱さがある、弱さの奥に強さがある、そういう声をしているし、そういう演技ができるし、だからそういうキャラクターに素晴らしくマッチすると勝手に思ってるのです。これはどちらかではなく、両方です。両立させているからこそ凄い。つまり、「強いんだけど本質的には弱い」「弱いのだけど本質的には強い」、その二つの矛盾した要素を円環的に繋げた一要素として再構築できて、そういったキャラクターに仕立て上げられる。単に「強いんだけど弱い」でもなく、「弱いけれど強い」でもない、「その両方である」キャラクターを作り上げることが出来る。そこが素晴らしくて、一番気に入ってるところです。よくわかんねーよこのクソ印象批評と思った方は、是非『らぶでれーしょん』あたりをプレイして頂けると、なんとなく言ってることご理解してもらえるんじゃないかなとか思います。いや思いたいです。なんか印象批評しか書けないので誰かまともな批評書ける人書いて下さい。
で、辻堂さんというのはその「強いけど弱い」「弱いけど強い」が見事に同居できている人でもあって、だからりのっちさんだとより映えるわけです。個人的には、序盤、江之死魔に追われてラブホに逃げ込んだところで、辻堂さんが(大のことを) (信頼しろ。信頼しろ) とか一人自分に言い聞かせてるところでこの子素敵と思ってしまいました。不安に対してこういう抑え方をする子なんですね。強いんですけど、こう不安になるみたいに弱くて、けどその弱さをこのように自分自身で克服できる強さを持っている。そういった面はそこから先、大と仲良くなればなるほど、付き合えば付き合うほど、いくらでも出てきます。
しかしまあ、上述してあるように、このゲームはその構造上、辻堂さんのことを好きになると、他の子のルートに入った途端プレイヤーが死ぬわけです。いやあ素晴らしい(目ぐるぐるしながら)! 「純愛」とは何か、というのは人によって千差万別でしょうが、とりあえず浮気したり色んな子に目が行ったりしないで一途であること、というのは結構な人の同意が取れるのではないでしょうか。その点からすると、エロゲプレイヤーはいつもいつも純愛無視なわけです。人によっては鋼鉄の意志と鉄壁の性向によってたった1人のヒロインしかプレイしない素晴らしい賢者もいらっしゃるでしょうが、たいていのプレイヤーの場合、ヒロインが5人いれば5人のルートに入って、5人の子と恋愛して恋人になる。ついさっきまでキャラA可愛い言ってたのに、キャラBルートに入った途端Bたんぺろぺろとか言い出す。これでは、全く持って純愛ではない! そこに対してこのゲームは攻撃してきているわけです。ああもう天才じゃねぇの。つまり、これはそう。辻堂さんのことを好きになると、辻堂さんルート以外をプレイするのが物凄く辛くなる。だから、辻堂さんルート以外プレイしたくなくなる。つうか辻堂さんルート以外プレイしたくない。いやもうプレイしない。辻堂さんルートしかプレイしない。これで完成! いっつも色んな女の子にも手を出しちゃうプレイヤーを、たった一人の女の子ルートに留める、「純愛ロード」がこうして完成したのだ!
……いや実際そんな意図で作られているのか知りません。でもボクは勝手にそう思うことにしました。そうとでも思わなきゃやってられない! そして何より、そう思いたい! 辻堂さんと純愛したいのだ!

*1:クリスは忘れた(シナリオを)。

偉大なる○○……「古色迷宮輪舞曲」

ネタバレしたらまずい作品ですので、ネタバレは脚注部分に一括してぶち込んであります。まだクリアしていないという方は脚注部分(文章の横にある数字リンク、ないしこの記事の一番下に分かれて書かれている箇所)は見ないように。本文中では開始直後に分かることと物語そのものに殆ど関係ないこと以外はネタバレしていません。

古色迷宮輪舞曲〜HISTOIRE DE DESTIN〜古色迷宮輪舞曲〜HISTOIRE DE DESTIN〜
(2012/07/27)
Windows

商品詳細を見る

シナリオが凄いと評判になった作品でして、確かに凄いです。そして聞き及んでいた通り、確かに「色んなゲームの要素を複合したような」面もありました。ざっと思い当たるだけでも5・6個はタイトルが浮かぶでしょうか。しかしそれらの名前を挙げただけで軽いネタバレになってしまうのでここでは伏せておきます。いや実際、既に「○○に似ている」というのを見てしまった人は頑張って記憶から抹消した方がいいレベルかもしんないっす。とはいえ「パクリ」というわけでは決してありません。確かに何処かで見たような要素かもしれませんが、しかし単純な流用ではなく、それらを(元ネタから)発展させ加工して、しかも幾つかの別作品のネタを融合させることによってさらに進化させて、さらにそこまで重ね合わせたことによってアクロバティックになりかけたそれをちゃんとコントロール出来ているわけですから。元ネタを知っていれば誰でも作れるというわけではないのは明白でしょう。そういった完成度の高さは目を見張るものがあって、つまりこれは是非やってみるべきだと、お勧めしたいものでもあります。

しかし完成度の高さも、お勧め”してみたい”理由も、単にシナリオだけではなく、別のところにも(別のところにこそ)あります。

正直、このゲームの感想を、普通に書いたら、8割は作品に対する不満点を挙げるものになってしまいそうなのです。ノート数ページ分プレイメモを書いてたけど、そのうちの8割がここがダメだよとかここをこうしてくれればとかの注文・不満だし。しかしその不満点すらも、そうである意味をちゃんと持って作られている。そこが素晴らしいのです。ぐうの音もでない、と言ったほうが近いでしょうか。全てが手のひらの上とも言えるでしょう。

たとえば、「言葉を投げかける」という本作独特のシステムがあります。テキストを読み進めていくと言葉を投げかけられるタイミングがあって、そこでどんな言葉を投げかけたか(あるいは投げかけないか)によって、運命量(ヒットポイントみたいなもの)が増減したり、あるいは通常のゲームの分岐と同じような機能をしたりする。このシステム、はっきり言って無茶苦茶に近いです。まず言葉を投げかけられるタイミングになると、テキストが表示される枠の横にちょっとしたマークが表示されます。その時だけ、言葉を投げかけることが出来るのですが、これが軽く理不尽入ってます。一番の問題は、そのマーク自体が、通常時に表示されるテキスト送りマークと殆ど同じ造形をしていまして、つまり非常に気づきにくいということです。

通常時

言葉投げかけ可能時

テキストウインドウ横の右下のちょっとしたマークの変化がそれです。これをいちいち気にかけてプレイしなければならないのです。しかもたった1クリック・2クリックしたら言葉投げタイミングが終わってしまう場合もかなりあります(てゆうか重要な分岐以外はだいたいそう)。要するに、プレイヤーは、地雷原を歩くかのような慎重さで、1クリックごとマークを注意しながらプレイしなきゃならなくなるわけです。
これは非常にやっかいです。難儀です。テンポよくカチカチクリックしてたらやべえ逃しちまったみたいなことはしょっちゅう起きるし、適当に読み飛ばすようにクリックしてても当然逃してしまいますし、かといってのめり込むように集中してテキストを読んでるとマークが視界に入らず逃してしまう(ちなみに『Steins;Gate』のフォーントリガーでも自分は同じようなことかましまくりでした。テキストに集中してれば集中しているほど、こういうテキスト外のモノって意外と目に入らないんですよね)*1、なんてことが頻出する。だからゲームプレイのことだけ考えれば、この「言葉を投げかけられる」タイミングの表示形態と表示時間は、決して良いとは言えない。
ですけど、しかし、そうであるにも関わらずわざわざこんな風にした必然性が、ゲーム開始速攻で語られています。

サキ「その一瞬、自分の行動、輪の中にいる人間の行動、言葉――全てに注視しろ。見逃すな。聞き逃すな」
サキ「人の運命を変える手立ては、一瞬と考える時間に含まれている。言葉であれ、行動であれ……変化を逃してはならない」

運命を変える手立ては一瞬の中にある、だから一瞬を見逃すな、とサキが主人公に語っているのですが、しかしこれは同時にゲームシステム的に私たちプレイヤーに語られていることでもあります。言葉を投げかけるタイミングは一瞬で(1・2クリック程度で)消える、だからそれを見逃すな、と。ちなみに「一瞬」というのはゲーム中で「5〜7秒」と定義されていて、それはまさに、私たちの1クリック・2クリック程度の長さでしょう。

要するに同じような構造にしたわけですね。一瞬も見逃してはならない主人公くんの状況と同じものを、プレイヤーレベルでも再現している。この作品の凄いところは、このように、ありとあらゆるエクスキューズに対し常に既に答え/必然性を用意しているところです。たとえば、先にも書いたように、言葉を投げかけて運命量を変化させるのですが、これがメチャクチャ難易度高い。すっげーぽんぽんと人が死ぬます。チュートリアルでは「言葉を投げかけてキャラと会話のようなものが楽しめます」みたいなこと言ってますが、正解ではない言葉を3回くらいかけたらすぐキャラが死んじゃうので、会話もクソもあったもんではありません*2。いやそのキャラに正解の言葉でも、何故か全然関係ないキャラが死んじゃったりすることも多々あります。有名な「紅茶地獄」などは酷いもので、紅茶の入れ方を間違ったらキャラが死んで、普通に紅茶を入れてもキャラが死んで、正しい紅茶の入れ方をしてもキャラが死んで、わざわざ攻略サイトを見てやってもやっぱりキャラが死んでと、マジで意味分かりません。全員スペすぎです。しかしその苛酷すぎるシステムが、物語に合ってる/物語上そうする必然性がある、というのは言うまでもないでしょう。ほんの些細な「一瞬」の差で、誰もが簡単に死ぬ、そういう狂った運命である、ということがこのように実現されている。しかも誰かが死ぬ度に、その章の最初に強制的に逆戻りされるわけでして、つまり繰り返しのループすら、このように物語上・システム上に、主人公上・プレイヤー上に、同時に・同じ意味で実現されている。

こういうところがこのゲーム、ちょっとシャレにならない領域です。たとえば言葉入力システムというのは、マウスカーソルを画面左端に持っていくと候補のワードが出てきて、そこから何かを選んで入力するというものなのですが、しかしこれはゲームとしては軽く破綻しているレベルです。なにせ初期状態で150くらいワードを持っていて、そこから1個を選ぶというシステムですから、ハナから入力する言葉が決まっていれば話が早いですが、どれを入れたらいいんだろうと考えながらの場合はたまったものじゃありません。150ものワードを見ながら「これかな、これかな」と選んでいくわけですから、労力が半端ないのです。しかも2・3回間違っただけで誰かぽんぽん死んでいくわけですし。さらに、最大250以上の数のワードがあるわけですが、クリアまでに必要なのは大体50個くらいなんじゃないでしょうか。つまり200個くらいは(本編においては)ダミー。しかしそれすらも、わざわざそんな風にする理由は納得できるものが用意されているわけです(以下ネタバレなので脚注)*3

このように、このゲームは本当に隙がなく美しく作られている。たとえば僕の場合は、途中から主人公に感情移入できなくなり(つうか嫌い・ムカつくレベルになって)なんだこりゃやってられっかーという感じだったのですが*4、プレイした人なら言うまでもないので詳細は省きますが、それにすらもちゃんとした説明を付けることが出来る。もちろん感情移入できていたら出来ていたで、それもまた説明できる。どちらにしろ、作り手にとっては想定内で、手のひらの上なわけです。本当に良く出来ています。また自分はキャラクターに全然魅力感じなくて、唯一舞さんだけ可愛いなと思ったのですが、ラストまでやれば誰もが分かると思いますが、それもまた理由が付けられる。いやまあその辺は、あくまで個人的感想でもあるのですが、しかしこんなところまで作りこんでるとかちょっと信じられません。性格も外見も舞さんが一番正統派萌えキャラ造形である理由も、そこで説明されています。

要するに、この作品は本当に隙がないのです。完璧に出来ている。なんだかんだいって結局不満点ばかり書いてしまいましたが、それすらも全て説明が/必然性が付けられている。そこが末恐ろしいくらいであり、どうしてもこの作品を低評価できなくなるくらい偉大で、美しいものだと思いました。いやぶっちゃけるとですね、プレイしてて全然楽しくなかったのですよ。もちろん個人差はありますが、自分は、システムにしろシナリオにしろ苦しい時間の方が圧倒的に長かった。しかしとんでもないことに、そう思ってしまったことの必然性すら説明が可能である*5。マジでありとあらゆる面で隙がない。つまり恐ろしく完成度が高い。まあ言葉入力システムの使い勝手の悪さとかがまさにそうであるように、「そうするのは理に適ってるけどそうしたら楽しくなるかどうか」という点が結構抜けてるんじゃないかってところもあって、そこがどうかと思わなくもない―――てゆうか、これで楽しかったら文句なく100点だったのですが。しかしいずれにせよ、これほどまで綺麗に編みこまれた作品は見たことなく、それだけでもこの作品は「偉大」と言うに相応しい。つまりボク個人の感想を一言でいうと、「偉大なる惜しい作品」です。もうちょっと楽しかったり嬉しかったりあるいは心に響いたり出来ていれば100点だったけど、しかしこれでは80点くらい、けれどただの80点ゲーではなく、精緻な計算の上組み上げられた迷宮のような、このあまりの完成度に、「偉大である」と言わざるを得ない、そのような感じです。
勿論これは、ただの個人の感想(クオリア)であって―――なにせ「楽しいかどうか」という非常に個人的な尺度を最も重要視しているのだから―――、つまりですね、ボクはそう思えませんでしたけど、誰かは、あなたは、「楽しい」と思えるかもしれない。そうしたらきっと100点か、それに近いレベルになるのではないでしょうか。つまり「偉大なる大傑作」になるのかもしれない。「偉大なる○○」の「○○」に何が埋まるかは、人それぞれなのです……勿論、そのこともやっぱりゲーム内で説明されています*6
だからお勧め”してみたい”。あなたの目にはこれがどう見えるのか。それをこそ聞いてみたい、そんな作品です。

*1:ちなみに集中してれば集中しているほどマークが目に入らなくなる、というのは、物語上理に適っています。主人公とプレイヤーは別物なのだから、主人公と同じレベルで物語世界にのめり込んではならない、のめり込んでいては運命を変えることは出来ない、ということ。勿論適当にクリックしててタイミングを逃してしまうというのは、運命を操作するにはあまりにのめり込みが少ないということになります。

*2:しかし「古色迷宮輪舞曲」の説明としては完璧に合っているので、わざとこんな説明書いたのかと疑います。言わば、(舞さん以外は)誰もプレイヤーの声を聞いてくれないからこそ、この説明の通りにいかなかっただけでしかない。

*3:使わなかったワードも、「古色迷宮輪舞曲」の章でようやく使えるわけですが、だからこそそこの章題とゲームタイトルは一緒でもあるわけです。つまり、プレイヤーの声を聞ける=ありとあらゆるワード(……そこでも無反応ワードはあるので、「殆ど」ありとあらゆるワードですが)に意味が生まれる=つまり、物語が欲している言葉ではなくプレイヤーが発している言葉を聴いてくれる唯一のパートであり、つまり唯一、私たちプレイヤーがちゃんとゲームと一対一で向き合えている瞬間である。私たちの色んな言葉を聴いてくれる。本編というのは実は、言葉入力システムがありながらも、実際に入力できる言葉は限られていて、つまり事実上の一本道と変わりありません。もうちょい整理して言うと、私たちは言葉を入力できますが、それを聞いてくれるのは正解の言葉=物語が欲している言葉のみであって、つまり言うなれば、”私たちの言葉なんか聞いてくれてない”のです。ここが非常に良く出来ていまして、実際何を選ぼうが正解は一つしかないし、私たちの言葉を何も聞かないで彼らは決めていくわけじゃないですか。主人公はサキを見つけるために他の皆をぶっ殺してしまうことをプレイヤーに何の断りもなく勝手に決めてしまうし、もういいよ一葉とずっと暮らそうぜ、和奏と一緒に居たほうがいいよ、なんて僕らの願いを物語は受け入れてくれない(いわゆるバッドエンド的なものにしかならない)。つまりですね、月が星の声を聞かないように、行人がサキの声を聞いてないんじゃないかと危惧されたように、主人公は、物語は、僕たちの声を本当は聞いてくれていないわけです。聞いてくれるのは、必要な言葉だけ―――しかもそれは、「私」の言葉を求めてはいない。つまりプレイヤーであれば何でも誰でもいいのです。プレイヤーが必要とする言葉を投げかけることのみが重要であって、そこにはプレイヤーの中の人である「私」が介在する余地が事実上ゼロである。要するに、物語を進めるためにその言葉が必要だからその言葉を受け止めてくれているわけであって、だから他の言葉を入れればキャラクターはぽんぽんと死んでしまうわけであって、つまりプレイヤーというのは(その言葉は……言葉入力システムは)完全に「機能」としてしか存在していないわけです。なまじ言葉入力システムがあるから、なまじ候補の言葉があんなにたくさんあるから、だからこそそういった面が際立っているとも言えます。それを超えて、私たちプレイヤーを”ひとりの人間として”受け止められるのは舞さんだけであって、つまり、舞さんと一対一で向き合えるこの「古色迷宮輪舞曲」の章だけが、私たちの沢山の言葉を聞いてくれて、私たちを人間として扱ってくれて、私たちがゲームに私たち自身として参加できる、唯一の場面である。―――だからこそ、「古色迷宮輪舞曲」という、ゲームタイトルと同じ名を冠するのに相応しいのです。

*4:半ば愚痴になりますが、中盤から「ロスト」辺りらへん。皆を利用して不幸にしたりとか、さらには皆をぶっ殺すとか、ボクはてんで納得してないし、そもそも主人公自身納得しているのかと。自分でぶっ殺しといて後々振り返って「あの地獄」とか言ってるんですもん、あり得ない。『装甲悪鬼村正』の雪車町さんの台詞がマジに身にしみます。   ―――「てめェはくだらねえ半端野郎だ」「てめェは、”嫌々”、やってるじゃあねぇか」「嫌々ながら、やった奴自身が納得もしてねえような理由で、殺されちまった方の身になりやがれ! 馬鹿馬鹿しくてしょうがねえだろうがぁ!」(共通ルートで、景明くんに対して言っていた言葉。英雄だというのならもっと堂々と殺せ、悪鬼だというのならもっと嬉しそうに殺せ、と)―――   酷いことをする前に、「迷ってしまうから」と言って見なかったり聞かなかったり逃げたりする、そういう態度が/覚悟が我慢ならないわけです。人をぶっ殺しておきながら、主人公は乗り気じゃないし、プレイヤーであるボクはそれどころじゃなく嫌々だった。なのに殺さなきゃならないとか何なんだと(そもそも殺す以外の道を何回も試してやっぱダメだそうするしかないと行き着いたならともかく、あっさりその道に入っているのだから余計納得できない)、心底ダメだったのです。こんなの納得できないし、こんなのに感情移入するなんてあり得ない。あり得ないのですが、しかしあの主人公とプレイヤーの分離……元々それらは分離されていたということにより、「感情移入できてないなら出来ていないでそれは正しい」ということが証明されてしまった。もちろん感情移入できていたらそれもまた正しいわけですが。どちらにしろ分離の手続きは行われるわけですからね。どちらにしろ、作り手にとっては想定内で、手のひらの上なわけです。だから本当に、隙なく良く出来ている。

*5:狂った運命であり、”悲劇へようこそ”であり、つまり「23時間59分59秒は辛く苦しくても」「そうではない1秒があれば肯定される」。なにせ(サキ曰く)”そういう物語”なんですから、僕たちプレイヤーが”そういう感情”を抱いたとしても、それは正しい/それでも正解なのです。プレイヤーと物語の構造的相同性が成り立っている。ちなみに「舞プラス」が最後の最後にほんの僅かな時間しかない理由も、そこに求められるかもしれませんね。   ―――サキ「私は……これを幸せだと思う……」「だって……行人に触れることが出来ている」「この一瞬だって、一秒だけでも、私は幸せなんだ」「この運命を一日に変換すれば、23時間59分59秒は、辛く苦しい時間だったかもしれない……」「でも、この1秒に辿り着けただけで、私は幸せだ」―――   最後の1秒だけでも、この主観で遂に行人と触れ合えたことがサキにとって幸せだったように。最後の最後に、全体のチャプターから見ればほんの1秒くらいの長さだけれども、この主観である私たちプレイヤーと舞さんが触れられたこと。それが幸せだったかどうかは個々人のクオリアに委ねられるけれど、それが1日の中に1秒だけ残った時くらいに貴重なものであるのは確か。

*6:舞「私たちとの出来事を通じて、感じてもらえた何かがあれば、きっと、それも<<あなた>>だけのクオリアだよ」(「古色迷宮輪舞曲」で「クオリア」投げかけたら)

『はつゆきさくら』感想

そもそも最初からこうなることだけは分かりきっていて、なにせパッケージ裏に「初雪から桜まで、卒業おめでとう」と書いてあるんだ。中を開けたらなんか原画集みたいな本があってその表紙にも「卒業おめでとう」と書かれている。ゲーム始めたら初っ端のシーンが初雪で、ああなるほどこれは、初雪から始まって桜までで―――つまり卒業で終わるのか、そういった予兆が理解できる。ついでに、プレイ前に「Presto」を既に聞いていたので、そしてその曲の最後が『バイバイ』だったので、もはや明白といっても過言ではなかった。そして自分は『ナツユメナギサ』プレイ済みだったので、こうもお膳立てされれば、その予兆が現実に変わることくらい分かっていたのですが。

つまりそういうことです。このゲームは。ここから先はボクの勝手な感傷を書くので、つまり共感も理解も求めていないどうしょもない方面の文章なので、要するにお読みになっても何の意味もないし何の役にも立たない文章になります。でも書く。そして勿論ネタバレです。



共通ルート終わりくらいまではすっげー楽しいな、最高だなこのゲームと思っていたんスよ。それがまさかあんな悲劇になるとは、予兆はしていたけれど確信はしていなかった。端的に言うと、ボクはこのゲームを少し甘く見ていました。「来るな」とは思っていたけど、「ここまで来る」とは思っていなかったし、こんな早く来るとも思っていなかったので、予想外にダメージを受けてしまったわけです。一息で言うとプレイしてて頭痛くなるわ気持ち悪くなるわ吐き気はするわ、まとめるとすっげー自殺したくなるわという、最高に最悪な気分になりました(勿論ダメなゲームという意味ではなくて、良いのだけど、素晴らしく良いのだけど、だがこれは俺を殺そうとしている、そういう意味)。
固定である桜一周目を終えた後、綾ルートに進んだわけです。というか「chapter」表記を頼るなら、おそらくこれが正当な進め方と言えるでしょう。その綾ルートは、初雪も、綾も、アキラも、それぞれ終えなくてはならない、終わらなくてはならない、それぞれ終えたら必ず何か大切なものを「失う」のだけど終えなくてはならないから終わらせる、そしてその後は失った数ヶ月間は無かったことになる/無かったことにしなくてはならない(たとえば、初雪の綾への気持ちは封印しなくてはならない)という、つまり世に言う「物凄く完全な終わり」であり、ボクは正直ここで「あーはつゆきさくら面白かった」とゲームを終えてしまおうか何度も迷ったほどの完璧なる完結であった。ルートシナリオが終わった後、タイトル画面に戻るのですが、そこで二・三十分ボケーとしていました。このままここで終わらせてしまおうか、それとも、まさか続きをはじめてしまうのか。
なんでここで迷っていたかというと、ここでは単純にボクも終わらせないと進めないからです。綾超かわいいよ綾と超ラブラブしたいよ初雪も綾と一緒なのが一番良いよっていうか一生綾と一緒にいたいよ、―――そんな風に思ってしまったからボクはここでゲーム終わらせてしまうかどうか迷ったのです。もうここで終わりでいい。ここで終わりがいい。これ以上綾のことも初雪と綾のことも綾ルートの出来事も亡くしたくない、そう心から思ったから、ここでゲーム終わらせたくなってしまった。だってこの先に進むということは、”まさに初雪がそうであるように”、これ以前のこと――綾のこと、初雪と綾のこと、綾ルートの出来事――を失うということを認めなくてはならなくなるから。プレイヤーもまた、初雪と同じように、綾のこと、綾への想いのこと、綾と一緒だった時間のことを終わらせて、封印して、仕舞い込んで、失わなくてはこの先に進めない……いや、この先に進むということは、それらを終わらせ、封印し、仕舞い、失うということなのだから。
そしてもう、この時点で予感できるわけです。これは綾シナリオだけではなく、恐らくこの先ほとんど全てのシナリオで、こういう想い/こういう手続きを踏むことになるのだろうと。
そしてその予感は、正しく的中する。
だから本っっっっっっっっっ当にキチガイですよこのゲーム(ないしボクがキチガイである)。『ナツユメナギサ』もそうでしたけど、ここには前日譚しかない。既に終わってしまったこと・あるいは既に終わると定められていることを「本当に終わらせる」こと以外、ここには存在しない。綾だけじゃなくて、あずまにしろ希にしろシロクマにしろ本当にそう。全部失う話。全部亡くす話。全部終わらせる話。あずまのナイトメアだって過去だって、ファントムだって剣道部員だって来栖にだって、シロクマは圧倒的すぎて目も当てられないほど、全部が全部終わらせる=失うという、いわゆる「卒業」のお話。そしてそれは、単に主人公が、物語がだけじゃなくて、僕たちだって幸福も永続もそういったことに対する夢や希望も何にも見られない。すごいですよ。(プレイヤーは)何も手に入れていなくても、失うことができる。その当たり前の事実をこうやって思い知らされました。物語じゃなくて、あくまで感傷の話ですけど(まあ物語でもいいっちゃいいけど)、全部が、前述した綾シナリオの時のように、全部のシナリオが、そういう、何も手に入れていないのに失うという実感。
つまりこれは「卒業」の話で、それは僕たちにとっても変わらないこと。彼ら彼女らが失っていくのと同時に僕たちも失っていって、彼ら彼女らが終わらせるのと同時に僕たちも終わらせる。ということで、まあ2012年にもなってメタ丸出しの読みをするのも恥ずかしいですが、しかしそう読んでしまったので仕方がない。たとえば……ああ本当ベタなメタ読みで恥ずかしいくらいなのですが、たとえば初雪はこの現実世界に馴染めない、居場所がない、向いていないと何度も口にする。それ故にゴーストをやっているというわけではないけど、それ故にゴーストをやれているというわけではある。いわば現実から目をそらし続けて、ソコに無いものを見続けた結果が、ゴーストだ。

初雪「お前みたいに世間に馴染めなくて、逃げて逃げて逃げ続けて、結局どこにも居場所がなくなって、幽霊みたいになっちまった奴を知ってるぞ」
初雪「この世にあるもの、全部から逃げ回ってると、そのうち肉体はこっちにあるのに、肝心の魂は……どこか、別のセカイにいっちまうんだよ」

「生者・死者」という言葉で語られていたことと同じ。「あの子が、生者になるか、死者になるか」「生きることを選ばないのなら……」という桜の言葉に従うのなら、生者というのはそのまんま、「生きることを選ぶということ」。死者というのはそのまんま、「生きることを選ばないということ」。それはつまりゴーストだ。そしてそれらは自分で選べる。初雪自体が何度も口にしていたでしょう。「生者か死者かは俺が決める」と。そこでの文脈は別のものだったけど、しかし中身はおんなじで、つまり、自分が死者か生者かというのは自分で決められるのである。
だからこのゲームは最高に最悪なんですよ。ベタ過ぎて誰もが回避する、深度1にして深度100の難易度ゼロのメタ読み。つまり、その幻想を見続けるという行為がゴーストの条件ならば、それは僕たちにだって当てはまる。ゲームに耽溺し続け、彼女たちを好きでいつづけ、この冬―――ゲーム内期間のほとんどがそうであるように、つまりこのゲームに留まり続けるその行為こそが、ゴーストの条件ではないか。ああ、まるで『ONE』のエッセンスを取り出して、暴力的にそれだけを晒されているようだ。つまり、ここに居続けるという行為は、そのうち肉体は現実にあるのに、肝心の魂は……どこか別の、たとえばモニターの中とか、この冬の町に行ってしまうような。
このゲーム最大の暴力はそれで、そういうことにあまりにも実直であるということ。ベタ過ぎて口にするのも恥ずかしいほどのメタ。一時期流行った現実に帰れネタなんかよっぽど優しく見える。なにせ最初から終わりしかないのですからこのゲームには。ボクはキチガイなことにこのゲームプレイしながらシネシネと都合千回くらい呟いていたのですが、その理由はそこにある。常に全否定されているようなものですから。それを決定付けるのが各ヒロインの扱い方で、シロクマが酷いと話題になっていましたが、つーかこれみんな酷いっスよ。

サクヤ「去れよ、ゴースト」
サクヤ「これは、あの子……桜と彼の物語だ」
サクヤ「彼がゴーストになりきっているのだとしたら、それは……2人が、春に至れなかったということだ」
サクヤ「そうしてあの子に、彼を導くことが出来なかったのなら、誰も彼を連れてはいけない」
サクヤ「それだけのことだよ」

これはラストシナリオでサクヤが綾に語ったことですが、しかし言ってることだけは他のキャラクターの全てのシナリオにも当てはまっています。桜シナリオ以外の全てにおいて初雪はゴースト(という存在)になる。桜シナリオ以外の全てにおいて初雪は春に至れない。桜シナリオ以外の全てにおいて誰も彼を連れてはいけない。だから輪をかけて最悪なんスよこれ。とんでもないレベルでキャラクターを使い捨てている……いやそもそも使ってないし捨ててもいない。正しく言うなら、本当に最初から「終わっている」。あまりにも終わっているので、一見使い捨ててるのかと見間違えるほどに。桜シナリオ以外の全ての道は最初から終わってるということが定められている。決して春には至れないゴースト。しかし桜シナリオでは桜への道が終わってるということが定められている。春に至れて死者ではなく生者になるのだけれど、しかし桜は絶対にそこにはいない、しかし過去には絶対に戻れない、しかし現在には間違っても留まれない、そんな現実=卒業という終わりが確約されている。


こういうことに、純粋なほど実直で、忠実なほど真っ直ぐで、暴力的なほど如実だからこそ、ボクなんかはプレイしながら頭痛くなって吐き気を催してシネシネ連呼していたわけです。これほど嫌がらせみたいなものは他にない。最初から全てが終わっているということは予見されていた。それでいて、初雪が、たとえば立派になりたいとか、たとえば剣道場に住み着いていた時誰かが来てくれることを心のどこかで期待していたこととか、たとえばそれでも卒業を頭の片隅に置き続けてきたこととか、そして何度となくランが「卒業しよう、がんばろう」と囁いてくることとか。全部、全部。最初から終わることを知っていたのに、それでもなお心のどこかでは終わることを望んでいた彼らと、終わらせなければ終われないということを知っていた彼ら。そういうのをずっと見ていたからこそ、僕たちも終わらせなくてはならない。「卒業」しなければならない。なるほどまさに最悪だ。ボクがこんなキチガイみたいな反応を示していた理由はおおよそそんなところです。

ラン「初雪。あなたも私も、生者に戻る時が来たのかもしれない」
ラン「だから……」
ラン「卒業して」

永遠には続かない、ではなく、永遠に続けてはいけない。永遠に続いていないものを永遠に続けようとするからこそ、ゴーストになるのだ。現実には無い何かを見続けようとすれば、魂だけはここから離脱した存在、つまり死者になる。そのような存在に未来はない。それは作中で幾度となく繰り返されたこと。死者は、文字通り、生きていけない。
そうではなく、終わりの、先の、卒業に辿りつかなくてはいけない。もし生者として生きていこうとするならば。永遠の愛は誓えません。この場所を卒業するまでしか誓えません。終わるまでしか誓えません―――いえ、終わる時は必ず来ます。だから、終わる時までしか誓えません。めぐる春夏秋冬、終わる1095日というのはまさにそのこと。全てはめぐっていく―――というのはつまり進んでいくし、そしてどんな日数も終わりを告げる。桜が見続けた日々も、桜と過ごした日々も、桜にとっても初雪にとっても、いや誰にとっても、終わる=卒業するということ。

それは僕たちも変わりなく、本当に予兆どおり、やはり我われもここで彼ら/彼女らにバイバイを告げなければならない。なぜなら既に彼女たちにバイバイを告げられているのだから。全てのシナリオで、その最後に(ないし最後の近辺で)彼女たちがバイバイと別れの言葉を口にしていたのは、勿論これがそれが私たちにとっても終わりで卒業であるからだ。

初雪「俺は、ダメなんだ……どうやっても、こっち側の人間にはなれないんだ……」
初雪「せめて酒でも飲めば、同じところに行けるかもしれないって、思うから」
初雪「……帰りたい」
初雪「こんな世界嫌だ」
ラン「…………」
初雪「嫌なんだ」
ラン「ぐじぐじするなぁ」
ラン「そういうものを、誰だって抱えてがんばってるんだよ」
ラン「どこかにたどり着きたいなら、歯を食いしばって進みなよ」
ラン「安易に、安息の場所が見つかるなんて、思うなぁ」


実に酷いゲームだ。たとえば、こんな言葉が二重の意味になって私たちに返ってくる、そんなおぞましく心地良い酷さ。だがそれももう終わり。正直、何度もこのゲーム終わらせたくないと思ってだらだらプレイしたり、いつまでもぼけーっとしたりしたけれど、そんな時間稼ぎももう終わり、だってゲームが終わってしまったのだから。卒業してしまったのだから。永遠に続かないものを永遠に続けるのではない、永遠に続かないものは終わりの時に卒業を迎えるものなのだ。生者として、現実に生きていくのならば。笑ってしまう、河野初雪がそうしたように、ボクもそうしなければならない。そうせずにはいられない。全てが最高で、みんな大好きで、いつまでもここに留まっていたいと本気で思わせてくれる作品でした。でも卒業してしまったので、もう終わり。私たちは何処か別の場所に、歯を食いしばるなり、そうでもないなりして進んでいくので、だからもう終わりなのだ、『はつゆきさくら』は、ここで。たとえばいつか振り返れる日が来るまで、それこそ自分と、全ての懐かしい彼ら/彼女らに報いられる時まで、ボクがこのゲームに再び手をつけることも、言及することも、思いをはせることも、もうないだろう。これでいつかまで終わりの卒業。バニッシュだ。