あれの補足/責任話

「選択肢を選んだことによる責任がうんたらかんたら~~」みたいな話を嫌ってる人は多いです。いや多いのかは知らんけどある一定数はいます。いやある一定数いるのかは知らないけど某氏とかはそうなんじゃないですかね。まあそういうこと以前に、ボクなんかは「責任とかどうでもいい」と思うわけですが。

なぜかというと、そもそも「責任」というものが幻想だからですね。「責任」なんて物理的に存在しないんです。勝手に思い込んでるか、誰かが要請・要求してくるものとしてしか存在しない。もちろん、物理的に存在しないから無いんだよ、といった話ではなく、いやむしろ逆で、物理的に存在しないものこそ人間にとって存在は強まるのです。物理的に存在してれば、ぶっ壊したり投げ捨てたり簡単にできるけど、幻想として心の中にだけ存在しているものを、物理で殴ったりは出来ないでしょう。だから簡単には壊せない。壊す方法を僕たちは通常習ってないし、慣れてもいません。現実に物質的に存在しているものをどうやって壊すかを僕たちはこれまでの経験から当たり前のように知っていますけど、心の中に幻想的に存在しているものをどうやって壊すかを僕たちは当たり前のように知りません。なかには当たり前のように知っている方もいらっしゃるだろうけど。

それはともかくとして、選択肢と責任ですね。そうですね、責任というのは簡単に放棄できるし履行しなければならない必然も実際はありません。たとえばですね、よく「社会人としての責任」とかいう言葉を耳にするじゃないですか。でもその責任というのは、簡単に放棄できるものなのです。社会人やめれば。基本的に、責任というのは、何かを失うことを認めれば(受け入れれば)簡単に放棄できる。なんかミスをしたら、それを埋め合わせたり謝罪したりしなくちゃならないのが責任ですけど、別にこれは絶対にしなくちゃいけないわけじゃなくて、その後の人間関係とか自分の立場とかそういったものを捨て去るつもりならば、その責任とかいう奴も簡単に捨て去れるわけなのです。ここで「責任放棄だ」と非難を上げる人は、たぶん責任というものをアプリオリなものと思いすぎてるんじゃないかなーと。あんなものは後付でなんか作られたものでしかありません。たとえばですね、かなり極端なこといいますと、人間というのはメシ喰わなきゃ死んじゃいます。これはある意味では「人間にはメシを食べる責任がある」と言い換えることができる。しかしそんな責任は簡単に放棄できるのです。メシを喰わなければいい。死にます。でも、それだけのこと(死ぬだけのこと)でしょ?

 

えーと、ということで、ごめんノリで書きすぎてたわ、選択肢に反抗してゲーム自体を放棄するプレイヤーは「善いもの」ではありませんでした。尊いものとか気高いものとは言えるかもしれませんけど、「善い」ではない。そもそもそういった存在は、あそこで書いてしまったような意味での「プレイヤー」ではないわけです。ゲーム側が要求してくるようなプレイヤーではない。我われ一人一人、という意味ではこっちの方が絶対的に正しく「プレイヤー」なので、うーんぶっちゃけボクが間違えました。そうですね、ゲームが要求してくるようなプレイヤーという意味では、プレイヤーは選択肢の責任を形式上負います(事実上「はい」しか選べない選択肢だとしても)。プレイヤーという立場そのものが、それを負う立場だからです。まあ簡単に言えば、結果論的に俺たちは「その選択の先」を絶対見せられる以上、形式上は俺たちの責任なんじゃねえかという話。選択肢が形式上だから、そこで負う責任も形式上になるのです。しかしたとえば法廷や社会というのは、形式上を実質とか実情と見做したり勘違いしたり意図的に勘違いしますから、形式の一言以上の能力がそこには秘められてたりします。そもそも人間の精神活動において「形式上」というのがめっちゃ重要ですからね、だから「実質」とは本質的に異なりながらもまるで実質のような扱いを受けることは多々ある。それはともかくとして、しかし我われ一人一人という意味でのプレイヤーは、まったくそんなものを負うことはないし理由もないし意味もない。要するに、社会人としての責任は社会人のときにしか存在しない*1ように、プレイヤーとしての責任もプレイヤーであるときしか存在しないわけです。