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「ゆゆ式」4巻

よ・ん・だ。

ある種の会話やコミュニケーションというのは、だいたい皮膚感覚としては明確なルールの中で競い合うゲームのようなものなのですが、しかしもう2巻終了時で「極めちゃってるよこの子たちー」と思ったんですよね。この子たちは、「彼女たちの(会話とかコミュニケーション)」というゲームを極めちゃってる。喩えるならテレビゲームの、それも同一メンバーでやる対戦や協力プレイなんかを凄く極めてるのと同じような話でして、たとえばいつも同一メンバーでモンハンをやってて、あるいはウイイレをやってて、そういう意味において極めてる、といった場合。それと同じようなことが『ゆゆ式』の会話においてもあります……ありました(どっちだかよくワカンネ)。
同じメンバーでやるのを極めると、基本的にミスは出ないし間違えないし、普通にやれば最短最効率最大成果になるわけです。いつも同じメンバーでモンハンやってれば、このタイミングで自分が攻撃すれば誰々さんの援護になるみたいなことが画面見て無くても分かるし、いつも同じメンバーでウイイレやってれば、相手がどういう風に攻めてくるか分かるからこう対処すると相手がああいった対応をするからこういう風に動くと相手もそうなって……みたいなことが全部分かる。ここにおいては、”このかみ合わせ”という点でミスはない。敵に負けるとか操作ミスをするとかそういう意味ではなく、相手の意図や行動の予測を誤るといったミスは基本的に起きなくなる。少なくとも、たとえばウイイレでいうなら、ここに来たらアイツは絶対にバックパスするか右サイドにパス出す、みたいに、2択3択程度までには相手の意図や行動が読めて、その時点までは絶対にミスらない。たとえば僕はですね、昔スーファミであった『エキサイトステージ96』ってゲームを、友達と何故か2006年くらいまで延々と対戦し続けてましてね……まあここまで書けば何言いたいのか分かると思うので割愛しますが、その点において相手の意図や行動、それを読み間違えるというミスは基本的に起こらなくなるわけです。そのことをもってここでは「極める」としています。
や、『ゆゆ式』の場合は、単純に前述のような「意図や行動を読める」という意味だけでの「極める」ではないのですが……まあなんだろう、僕は縁のヒトがよくわからないのでよく分からないのですが。たとえばゆずこのヒトは、第1巻のページを一枚めくると速攻出てくる、 (唯ちゃん来たらどんな反応してやろうかなー)(まず大爆笑して一発どつかれてー……) が示しているように、常に適当にモノ喋ってるわけではないです。自分がどんな反応・言動をするか、相手がそれを受けてどんな反応・言動をするかというのを、常に……かどうかは知らんけど考えてるわけです。「実は頭良い設定」というのがここで生きてきます。適当に思い付きを喋るだけでなく、考えて喋る能力があるという裏付けが設定に置いてある。実際彼女の言動はほとんど全部が「ちゃんと考えて喋ってる」というのが見て取れますよね。こういうツッコミ・こういうリアクションを相手(主に唯)に望んでいる、というのが透けて見えるくらいに見て取れる。まあ実際唯ちゃんのヒトが次のコマでまさにそれに応えるかのようなツッコミ・リアクションを見せるから余計にそう思えるのですが。そこで縁さんのヒトは大抵笑う、たまにノってくるという感じなのですが、なんかよく分かんない。天然系コワイ!ムテキすぎてコワイ! しかし4巻67ページの2コマ目、みんなが海を見て「おー!」となっているのに、海を見ないでゆずこと唯の方を見るというところに縁のその……なんか色々なものが現われてんじゃねーかなー。(よくわかんないので投げた)
えーと、いずれにせよ、この3人には、「この3人で行なう会話・コミュニケーションという競技を極めている」みたいな表現は可能なんじゃないでしょうか、てゆうかこの表現が一番しっくり来ると思うのですが。
で、『ゆゆ式』の彼女たちは、彼女たち3人でやる限りにおいての会話を極めちゃってるので間違えない。ミスがない。たとえば印象的なのが、えーと確か3巻くらいで(そのうち全部読み直してちゃんとしか感想とか書きたい場合もあります)死ぬってなんだろうとか生きるってなんだろうみたいな話が出だして、ちょっと空気変になっちゃって、にも関わらずもう一回その話持ち出して、でもやはりまた空気が変になって、「やっぱこの話ないわー」みたいな感じで纏まるヤツの、この「その話をもう一回持ち出す」というところ。ここではわざと自分からもう一回ミスを踏んでるわけです。空気が変になるという、ミスというかプチミスですが、それをわざと自分からもう一度踏みに行っている。なんか普通にやっててもミスが出ないから敢えて自分からミスを振ってみたよ? と思えるような遊び方なんです。これは大抵の会話やコミュニケーションの場においてはなかなか出てきません。こういう「遊び」が余裕で出来るくらい極まってるわけです。
しかしそれは逆に言うと、読者である我われにある種のつまんなさを与えかねない。いやごめん実際「1巻最高!」「2巻サイコー!」「3巻微妙」だったんですけど。なぜかというと彼女たちは極めているからで、普通にやってると普通に彼女たちの最短効率最大戦果が上げられちゃうからです。なんの危険もない代わりに、なんの驚きもない。たとえばモンハンとかウイイレとかも極めちゃえば、やってることは超高度なんですけど、本人たちあるいはそれをいつも見ている人たちにとっては、危険もなくいつもと同じ、ある種ルーチンワーク化、というか自動的なものになってしまう恐れがある。そんなものを個人的には3巻に見てしまいましてね。だからこの先どうするのかなーと思っていたのです。彼女たち「3人」は極めてしまった。ならば外部と接続するのか。たとえば、いつも同じ人同士で対戦していれば、それ自体は高度な争いでもいつも同じような感じになるから飽きてしまう(=極めてしまう)。だからこそ外部と接触するのか。岡野たち3人の会話は、ゆずこたち3人の会話とはまったく異なるプロトコルを持っているわけです。だから、ゆずこにしろ唯にしろ(縁さんのヒトはよく分かんないので知りませんが)、たとえばもしあの3人の中に自分が独りだけ混じって遊ぶとかなれば、なにかしら唯・ゆずこ・縁の3人のときとは自分を変える必要が生じてくるわけです。あ、いや、上手くやるならば、ですけどね。そしてそれは実際に今までそれっぽく証明されていますけど(たとえば外で会う野々原さんはまともなのにどうして学校の(唯たちといる)野々原さんはアレなのかといういいんちょーの疑問そのものとか)、人間同士の会話というのはその中で、そのグループ数だけの、(決して明文化されない)規則や決まりごとや上手なやり方といったプロトコルがあるわけです。会話における最適な距離感や自分はどういったキャラをそこで演じるのがベストなのか、といった点もそう。それぞれにそれぞれの決まりごと・法則がある。会話するグループそれぞれで、ひとつひとつ別のルールがある競技となっているのです。
だから(自分たちのグループを)極めた先に他グループと絡み合う、というのは至極真っ当な判断で、そうだからこそ3巻で岡野っちたちと絡み出したと思うのですが(=勝手にそう思ってるのですが)、しかしこれにあんま未来がないことはおかあさん先生が証明しています。あっという間に……というほど早くはないけど、とりあえず(作品内で描かれる限りでは)何回かの接触で、もう、この3人と会話する時のおかあさん先生の居やすいポジションを見つけ出している。だから岡野っちたちと絡んでも、多分そうそうにこっちも極められるだろう、だから第4巻どうするのかなー、極めた彼女たちは何処いくのかなー、というのが第3巻まで読んだ感想。

で、4巻ですが、「マジ4巻最高!」、素晴らしかったです。極めるというのはですね、”ほっとけば自動的に最短最効率”になる、ということなのです。たとえばサッカーゲームとか極めれば、最短最効率でゴールを目指せますよね、てゆうかほっとけば自動的にそうなりますよね。それは対戦相手がいても同じで、最短最効率の守備と最短最効率の得点を、ほっとけば勝手に実現させている。どちらかというと第3巻はその傾向が強かったと思うのですが、それは最も理に適ってるのですが、しかし理に適っているというだけでしかない。美しいとか楽しいは、必ずしもそこにあるとは限らなくて、だから”ほっといて自動的に最短最効率”では、その点においてはよろしくないのです。サッカーゲームでいえば、特に必要ないけどダイレクトプレイとか、ゴール前でドフリーなのにパス出すとかした方が、最短でもなく最効率でもないけれど、見た目上は美しかったり楽しかったりするわけです。つまりそういうことで、『ゆゆ式』4巻はこの極めたという行き止まりを、美しさや楽しさで打開した。いやぁこれは驚きですよ。僕が書いてる内容がこれほどまでに印象論なのも驚きですが。やらんでいいことをやりまくっている。こうした方が美しかったり楽しかったりするというだけで、そうしている。ほっとくとゆずこたちはもっと完璧にやりすぎちゃうから、敢えて手を加えているわけです、とか言えるんじゃないでしょうか(妄言がすぎるけど)。極めた先には、極めたなりの遊び方、極めたなりの質の追求があるわけです。なんかそんな感じ。