はるまで、くるる。 プレイメモ2

OPムービーまで。聞くところによると体験版がここまでらしい。さらに聞くところによると3時間でここまで来るそうなのですが、なんかフツーに5時間くらいかかりました……つまりそれだけ濃厚で、たった一文字すら読み飛ばせないような素晴らしいテキストだったということです。ここまで殆どエロシーンだったけどね!
そう、このゲームおかしいです。そういう基本的な構造の時点でまずちょっとおかしい。ゲーム開始直後からエロシーンがはじまって、そこから5時間(一般的には3時間)ほとんどずーっとエロシーン。プレイ時間のうちのだいたい4分の3はエロシーンだと考えて間違えない。えっと、少なくとも10回はエロシーンあったよね? うん、覚えてる限りでも10回はある。多分実際はそこにプラス数回くらいあるかもしれません。あんまりに多かったのでちゃんと覚えているか自信ない。てゆうか最後の方はさすがに飽きるっていうかだらけてきた。
しかし、それでも、飽きたりだらけたりしたのは最後の方、ちょっとだけなのだ。こういうエロシーンこそ完璧なんですよね。セックスというのは、ただの欲望の発散でもなければ、ただの生殖行為でもなく、心を確かめ合うとか愛を確かめ合うとかそういったものに収まりきらず、コミュニケーションではまだ足りず、何かの儀式や通過儀礼と言うだけでは説明不足で、遊びや楽しみのの一言で纏めるのは乱暴だ。つまりセックスというのはそれら全部なんです。―――ということを完膚なきまで謳い上げている。つまりこの作品のエロシーンは完璧なセックスである。
だからこの作品のエロシーンは完璧なんです。「エロゲにエロは必要」とか言っちゃってる人たちはこーいうエロゲこそさっさとプレイするべきです。このゲームこそ、セックス無かったら何にもならない。エロゲにおけるエロ/セックスという意味では、『夏めろ』とかキチガイ級に凄かったんですけど、この作品はそれを上回るレベルです。簡単に言うと、”人間は何故セックスするのか”、その答えがここにある。


で、ここまでのところの評価ですが、超個人的な評価ですが、2003年10月以降に発売されたエロゲの中でこれが最も優れている。時間を巻き戻してオールタイムで言うならばこれが2番目。今の所そんな感じです。100点満点中99点(SF要素が不安なのでマイナス1点/ここでゲームが終わっていれば勿論100点)。マジで素晴らしい。プレイしながら3分に1回「これ天才だよ」と嘆息しています。てゆうかそんな感じでプレイしているので超疲れます。マジ全然気抜けねーのこのゲーム。
プレイ前に聞こえてきた話(体験版の感想)が「ただのハーレム抜きゲーかと思ったら最後にSFとかループになった!」だったのですが、それどころではありません。てゆうか、その「ハーレム抜きゲー」の部分が超すげえのです。C†CにおいてもそうだけどSFとかループとかは比較的どうでもいい。その中身が、人間が凄い。

で、なので、その辺の話をしてみよう。例の如くメモっぽく。


キャッキャうふふワールド

前回は「うわぉハーレムがはじまったよ」というところまで、でしたね。これがある種の儀式的・手続き的所作であるのは明らかでしょう。そもそもセックスというものにはそういう一面がありまして、そしてそういった一面がここで生きている。つまり、”セックスをした後はセックスをした後の関係になる”という話です。これは色んなエロゲに当てはまり、そして何よりエロの薄い萌えゲ/泣きゲ/純愛ゲにこそ、よく言われる事柄ではないでしょうか。たとえば、「むしろ麻枝准はエロに頼りすぎなのだ」。肉体関係を持つ、などで使われる「肉体関係」という言葉はよく出来ているもので、それはひとつの関係の規定なのです。私たちのコミュニケーションは目の前にいる人間が誰かということをまったく気にせず成立する(気にするのは成立した”後の段階”からだ)、という話は以前いたしましたが、つまりはそういうことと同じ様なものでして。何一つ変わっていなくても、ただひとつ、その関係についている前置詞が変わるだけで、人間同士のありかたそのものも変わってしまうわけです。たとえばボクと貴方は見知らぬ他人ですよね。もしかしたらどっかでちょっとした交流持ったことあるとか、twitterでフォローしているとか、そういうくらいの関係性はあるかもしれません。とはいえ現状ではただそれだけですよね。特にコミュニケーション取ろうとか、ちょっとお喋りしてみませんかとかならない限り、ボクと貴方の関係はそれだけのものでしかない。しかし、たとえば明日、ボクと貴方が生き別れの兄弟だったという事実が判明したら、いきなりそれだけで関係は変わっちゃうわけです。喋ったことのない見ず知らずの他人で、そこから一歩も進んでいない。一言も喋っていませんし、何の接触も取っていません。しかしたとえば実は生き別れた兄弟だったんだよというように関係の前置詞が変われば、もうその時点でボクと貴方の「関係」は変わります。お互い何もしていないのに、お互いの関係が変わってしまう。世に言う「関係の本質」という言葉が指すものは実はそこにある。”相手がどういう人間か”というのは関係に関係ない――っていうか、その”次”に置かれるのです。ボクがどういう人間で、貴方がどういう人間かというのがまるっきり関係なく、今だったら「ブログ書いてる人とそれ読んでる人」っていう関係性が構築されてしまっているように、その人がどういう人かみたいなのは常に後に置かれている。関係というのはその前の部分、前置詞になっている部分、象徴的な位置の部分でまず決まっているわけです。その後に、相性が良いとか好きだ嫌いだというのが出てくる。エロゲにおける(別にエロゲに限らないけど)セックスというのは、その前置詞の部分、規定となっている、象徴的な部分を塗り替えるわけで、だからこそむしろ萌えゲや純愛ゲや泣きゲでこそ重要になっているわけです。たとえばだーまえ先生のような、どう書いても単なる恋愛になってくれないような作者の作品においては、いかにセックスが重要であるかと。たとえば『CLANNAD』の(セックスの存在が示唆されていない)智代とか風子とかのお話を見ていただければ―――いや智代の方は何だかんだいってゴリ押しでなんとかしている(「CLANNADはキスを押してくる!」と当時げいむ乱舞界の人が書いていたけど、あれはセックスを奪われただーまえによる強引な象徴秩序の塗り替えですよね)と言えなくもないので、特に風子の方ですよね。その辺をまがりなりにもセックスがあるKanonやAIRと比べていただければいかに、いかにエロゲにおいてセックスというものが「意味を持っているか」お分かりになるでしょう。
それは勿論、エロゲにおいて”そういった意味合い”だけでなく、物語世界内の彼女たちにとっても、てゆうか現実の僕たちにとっても同じです。ある行為が、私と誰かの関係を規定し、構築し、つまりある行為をする/しないそれだけで、関係というものは変わってくる。ここにおけるハーレムってマジで深刻なほどそうでして、素晴らしいですよ、「現金なものだ」と言ってもいい。なにせ乱交”しただけで”――正しくは、”心から、本気で”乱交しただけで、あんなふうになるのだから。勿論、それは狙って行なわれたものです。
静夏「ええっ。ただみんなでもっと仲良くなりましょう、という取り決めをしただけだわ」
ご本人が仰っておりますが、あの乱交とはつまりそういうものなのです。みんなで仲良くなるために乱交しよう。みんなで仲良くするために乱交しよう!
素晴らしいですよこんなの。裏を返せば、これはめちゃくちゃまともじゃない。だって仲良くするために乱交なんて発想、普通生じないじゃないですか。つまりこれは、普通じゃないんです。追い詰められ、追い込まれ、もうそこしか道がない―――それが最適解に見えてしまったが故の、その選択。静夏、春海と乱交したあと、加わりたい冬音を、一度、 静夏「冬音からは切迫した気持ちが伝わってこないのよね」 と断りますが、それがまさに彼女の裏に隠れているものです。じゃああんたがたはどんだけ切迫していたんだ、ということ。なんとかするため(みんなを「殺し」たりしないため)にはもう乱交しかない、というところまで切迫していたわけです。そして本当に乱交をしてしまう。これはある意味、まさに静夏らしいとも言えます。自分でも言っていた、意気地がないとか臆病とか、あの辺。

静夏「平気よ。あんなのどうってことないわ。当初の予定では10回くらい連続で絶頂に達して、乳首の1つや2つは失う覚悟だったんだから」
一季「覚悟しすぎだろ! 春海がどんなに追い詰められていたとしても、そこまでのことはしねーよ!」
静夏「他人の気持ちなんかわからないわ」
一季「そうかもしんねーけど、乳首をもぎ取るほどじゃないってことくらいわかるよ」
静夏「まあ、春海がどうのこうのじゃなくて、私は……。そのくらいの覚悟をしておかないと、あんな提案はできない、意気地なしだった、というだけのことだわ」
……こういうときに意気地なしって言葉は適切なんだろうか? むしろ意気地ありすぎって感じだが……。

よくある話ですが、思い切ったことをするには思い切った覚悟がないと出来ない、ということです。それは思い切った覚悟ができる程度には意気地があるけど、思い切った覚悟がなきゃできない程度に意気地なしと言えなくもない。たとえば、これがダメだったら死のう、みたいに思えば(思い切れば)、僕ら大抵のことなら何でもできます。ダメだったら死のうと思って好きな子に告白とか、ハズれたら死のうと思ってギャンブルに有り金全部注ぎ込むとか。1か0か。全てをベットする気概を持てれば何でも出来る。でも、もっと強い強度で勇気や意気地を持ち合わせている人は、”そういった覚悟すらいらない”と思うのです。別に何も張らずに好きな子に告白するし、別に生死も賭けずに自分の全てを投げ打つことが出来るのではないだろうか。つまり僕たちは、失敗したときに帰ってくる痛み/失うものを直視しちゃうととても耐えられないから、全てを無くしちゃうような、消し去るような賭け金を前置詞に置かなきゃとてもじゃないけど出来ないんだけど、もっと勇気や意気地の強度が強い人は、そんなものが無くても済む―――つまり、失敗したときに帰ってくる痛みや、失うものを直視できるのではないだろうか。逆に言えば、全てを失うわけでもないのに(そうとは限らないのに)全てを失う覚悟をしなければ出来ないということは、それはそれで意気地がないということである。そんなことされないと分かっているけどそんなことされるかもと考えておかなければ、つまり最悪のリスクを考えておかなければ、目の前にある現実的なリスクに立ち向かえない。最初に厳しいこと言っておいて後でそれをちょっと緩和させるという詐欺師の常套手段(ハンターハンター30巻参照)とある種似たような感じではあるかもしれません。現実はそこまで酷いことになるハズはない、けど、最悪の想像を先にしておけば、現実に挑むときに心は楽でしょう?
そういったことに関してはもっと違う部分で彼女は為しえてるとも言える。

どうしようもなく大好きだわ、一季。
あの男は……。本当の所、私をどんな風に思っているんだろう?
そんなの永遠に考え続けても答えが見つからない気がして、私は軽く、絶望した。

一季に(彼の気持ちに)対して自分は自信を持てない”という確信を抱いてる”、だからこその、ある種次善策としてのハーレムであると、だから私は臆病であると彼女は語っているわけですが……そう、最初からバレバレでしたが、ハーレムは恐らく最善の策ではありません(てゆうかゲーム開始の時点で出てくるのだから、当たり前だけど多分そうだろう、つかむしろそうであって欲しい(最初が一番良くて、以後永遠それに勝てないなんて悲しすぎる))。
だけどそうした。いや、だからそうした。その道しか見えなかったのか、あるいはその道が一番楽に/自然に見えたのか。定かではありませんが、最善ではなくてもこれを選ばざるを得なかった/選んでしまった、なぜならそういった=それだけの意気地なさと臆病さを兼ね備えていたから……もちろんそれが出来るくらいには意気地があって臆病ではなかったのだけれど、彼女が自分で「意気地ない」「臆病」と言っているのだから、彼女の基準・理想においてこれでは意気地ない・臆病なのでしょう。それが、彼女における「切迫」というものです。

秋桜「……ッ! そっ、そんなのおかしいぞ!」
静夏「そうね、おかしいかもしれないわ。だけどキスをすると相手のことを今までよりも好きになれるわ。ここで暮らしていくにはそれはとても大事なことだわ」
春海「春休みが終わるまで、私たちはここで暮らしていくしかないわけだから~。もっともっと仲良くなることはとてもいい事だよ~」

今さら気づきましたがこれめちゃくちゃボク好みですね。だからこんなに自分の中での評価高いのか! 「これしか道がないからこれをする」の「これ」が、意味分からないレベルの突拍子もないことなんだけど、でもそれしかないのだから、実際に「それ」をしてしまい、そして、「それなりには」上手くいっている。
この乱交=ハーレム、理念的には(理想的には……象徴的には……)冬音が説明していたようなことです。

秋桜「ボクが聞きたいのは……。えっと、その。静夏が言っているのは(編注:乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドのこと)、みんながみんなの特別になろうということだよね?」
冬音「はい。それで間違えないと思います」
秋桜「そんなことってできるのか? だってみんなが特別ってことは、誰も特別じゃないってことと同じじゃないか?」
(中略)
冬音「そんな家族がこの世にどれだけあるのか知りませんが、互いを特別に想う仲良し家族を想像するのはそう難しいことではありませんよね? 静夏さんの理想はそれなんだと思います」
秋桜「……家族か。でも、結婚している関係を除けば、家族同士でエッチなことはしないだろ?」
冬音「はい、そうです。エッチなことをするのは家族の中で血のつながらない2人ですね」
秋桜「……あっ」
冬音「そういうことなんだと思います。血がつながらないから、互いを特別だと確認しあうために、体を使うんじゃありませんか?」

仮想家族化を促すような、象徴的契約です。つまり、関係が変わるということ。それは、家族のようになるということ。但し書きとして、「エッチする」家族、ということになりますね。てゆうか、”エッチしてるから”家族、といった方が正しい。エッチで繋がる間柄、じゃないです、エッチがあったから繋がる間柄です。


しかしこれ、こういう前提を整理して振り返れば当たり前ですが、結構な歪さを孕んでますよね。てゆうか後半の方は、ヤバくね? もうちょっと続いたら誰か何かどっかぶっ壊れるんじゃね? とビクビクしながらプレイしていました。当たり前ですが無理が生じてくるわけです。たとえば、最も顕著なのが、「心が開かれれば開かれるほど心が開かれない」ということ。彼・彼女たちの言動には、ある意味本音じゃないというか、その本音は”(乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドという)儀式的結びつきにより為された”という注釈がどうしても必要となるような感じなのです。たとえば春海の……この時点じゃ作中でネタ明かしされていないのでよく分かりませんが、ナイフとか、殺したくなっちゃう性(?)とか、なんかそういう、俗に黒いとかそう言われるような性質ですね、そういったものは言えなくなる。いやむしろ、他のありとあらゆることを言っているからこそ、”そういったものだけが言えなくなる”。みんなで乱交して、みんなでキスして、みんなでエッチして。セックスすることを「ひとつになる」と言いますが、その意味ではまさにみんなでひとつになっているわけですが、それ故に、「ひとつになれないところ」がより際立つのです。これは面白いっていうか、こういうの大好きです(てゆうかこのゲーム本当ボクの趣味に適い過ぎてるな)。「近づけば近づくほど遠ざかる」みたいな、一昔前のJPOPの歌詞で超ありそうな言葉ですけど、そういうのが実践されている。後半になっても、”いまだに”、「実は~~」みたいな「打ち明けること」が彼女達にはまだまだあるように、ひとつになればひとつになるほど、まだひとつになっていないところが浮き上がってくるのです。そう、言い換えるならば、人に近づけば近づくほど他者性が見えてくる、そんな感じで。そんな感じなのです。そもそも他者性というのはその原理上近づけば近づくほど「在る」ものなのですから(たとえば、「よく知っている人がふと見せる自分が知らない一面」、他者性というのはそういうモノである)。ひとつになったはずなのにひとつになれない、ひとつになればなるほどひとつになれない、そういったある種の疎外のようなものが、この乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドには孕まれていて、それが徐々に花開いていて、だからこそすげー不穏で、それが最高なのです*1
あとこういう言い方はアレですけど、人間常識上見地からの関係性における違和感、みたいな、いやこうやって言葉にするとホント頭悪い感丸見えなんですけど、しかしそういうなんとも言えない違和感が存在する。先の話の裏表かもといえばそうかもしれませんが、たとえば彼女たちは何でも話している。性癖とか、本来隠しているもの―――つまり本音を話している。なのに(”ゆえに”)無理している感とか本音じゃない感が拭えないわけです。だって人間は(彼女たちは)普通そういうの隠すのだから、話すということそのものが無理があるんじゃないか。たとえば人間の、会話のプロトコル上の問題として。あるいは、言葉として、会話として、発音として、コミュニケーションとして、口に出来る言語になっている時点で、もうそれは本音とは言えないんじゃないだろうか。「強度」というのは分割不可能性を指す言葉なんですけど、そういう意味でその言葉には強度が「足りない」。本音というものを言葉にしてしまった時点で、もうそれは純粋な本音じゃない、削ぎ落とされ分割されたものなんじゃないだろうか。―――えーとつまり、そういった、本音で話す故に本音ではない、みたいなある種の疎外が感じられるのです。ここに不穏が、あるいは、乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドの愛すべき限界がある。
たとえば、「このゲームがここで終わりじゃない理由をあげろ」と言われたら、ボクはそのくらいしか思いつきません。ぶっちゃけここまでで完璧でしたからね。しかし彼らにとっては、まだ完璧ではない。

……ああいうことがあって、みんなは互いを特別だって想い合える、優しい関係になったみたいだけど……。
……俺だけ微妙に蚊帳の外のような気が。

で、もうひとつ、それが儀式的だった故に参入できない、というのが主人公くんです。俺だけ蚊帳の外、加われてない感、といったことは作中で何度も何度も言及されていましたが、それはひとえに、彼がキャッキャうふふワールドの住人ではなかったから。何故なら、キャッキャうふふワールドの原理を身につけていなかったから。しかしそれらも学習して、ようやく彼は”本当に”参入できることになる。春休み最後の日(最後の前の日?)に。なぜみんなが一季のやりたいことだけを聞かなかったのか、そして何故この時になってようやく聞いたか(思い出したか)の理由は、つまりそういうことでしょう。その時まで、キャッキャうふふワールドにいなかった。そしてその時になって、はじめて、一季はキャッキャうふふワールドに、加わった。

トキメキやさしさ塾:補講

優しさのお話。このゲームがここでエンディングだったら、ボクは、「この作品は優しさの御話だ」って書いてしまったかもしれません。
最初の、教室で最初の乱交=ハーレムをしたあと、家に帰って静夏と行なったエッチシーン。

一季「……優しいって難しいな」
静夏「一季はバカだわ」
あっさりと断言された。
一季「なんでだよ」
いや、まあ……間違いなくバカではあるんだろうけどさ。せめて今、そう思った理由を教えて欲しい。
静夏「優しい気持ちですれば……。私に優しさが伝わりさえすれば、激しくてもゆっくりでも、優しいことに変わりはないわ」
静夏に教えられてばかりだな。
春海にも言ってたな。気持ちを伝えるために、こういうことをするんだって。
だったら、俺も……そうしないといけないんだった。
優しい行動じゃなくて、優しい気持ちで、しないといけないんだった。
でも……。
優しいってなんだ?
静夏「うふふ、顔を見ればわかるわ。今度は一季が余計なこと考えてるわね。優しいなんて簡単なことだわ」
一季「……簡単?」
静夏「そうよ、優しいっていうのは……。あまり教えすぎない方がいいかしら」
一季「はあっ?」
静夏「あんまり教えると、自分で学ぼうという気がなくなってしまうもの」
一季「おまえは学校の先生かよ。どうせ、俺は人の気持ちを考えるのが苦手だよ」
静夏「すねないで……。一季にも優しさはあるわよ? ないなんて思っていないわ。少し理解できていないだけよ。だから私の体で、みんなの体で少しずつ理解していけばいいわ」
一季「体で?」
静夏「そうよ。だってセックスって、残酷で、気持ちよくて、切なくて、……だけど、とっても優しい行為だわ。だから、一季もいつかちゃんと理解できるわよ」

のちに、 「俺ってそんな恥ずかしい名前の塾に入ってたの?!」 と一季は驚く(てゆうかツッコむ)のですが、今見返すとこの時点で既に入ってたんですよね。この、優しさを教える感じとか、(私たちの体で)理解していけばいいとか、おまえは先生か、とか。そうですトキやさ塾の先生だったのです、だから先生みたいなこと言ってたのです。


「だってセックスって、残酷で、気持ちよくて、切なくて、……だけど、とっても優しい行為だわ。」

このゲームにおけるセックスって本当にこの言葉が当てはまるんですよね。何よりも強く取り返しの付かないザ・リアルの残酷さと、何よりも強く楽しく嬉しい快楽と、体を重ねれば重ねるほど、心をひとつにすればひとつにするほど、より「遠ざかっていく/ひとつじゃなくなっていく」切なさと、そして、優しさ。だからこんな、作品の殆どがエロでしかない体験版部分ですら、こんなにも素晴らしいのです。このゲームのセックスは、本当に、そうなのだから。


さて、「優しさ」。先に結論から言えば、それは静夏が最後に言っている……最後の最後に、一季が一人で自ら手に入れた後に、教えている。
「だって優しさって人のためにすることだわ。だから、もう一季は優しさが何か理解したということだわ。……おめでとう。トキメキやさしさ塾、卒業だわ」
「優しさって人のためにすること」。もうちょい細かく言うと、たとえば、「人の気持ちが分かる」とか、「相手のことを自分のことのように考える」といった言葉がありますよね。それは優しさとイコールではありませんが――場合によっては全然違った考えですが――基本的には結構似ている。これは自分がその相手だったら、とか、自分を相手に置き換えて、とか、そういうのとは全然異なります。単純に言えば、完全に自分と相手を同じ位置にする。同じ価値にする。つまり、「ひとつになる」ということです。

どうしてこんなに胸が苦しいんだろう?
……苦しむ必要なんかないはずなのに。
犯されて感じているのか? とか軽口を叩いてやってっもいいはずなのに……。
そんなこと絶対に言えそうもない。
犯すのも、壊すのも、平気なはずなのに。
しかも、こんなのは、春海のときと一緒で、ごっこ遊びみたいなものだ。
心を……。
軋ませる必要なんか……。
静夏「くっ、あっ……ンンッ! ひっ、あああっ!」
春海の時と一緒なんかじゃない!
静夏「やっ! んぅぅぅっ! っく、あっ、ンンッ!」
だって、静夏は本当に痛がってる。痛みに必死で耐えている。
痛いのは本当だ!
静夏が痛いのに、それなのに興奮しちゃうなんて……。
そんなので、自分がどういう人間か確認するなんて!
認めない!
壊れてることは認めるけど……。
だけど、こんな自分、認めない!
おかしいだろ、そんなの!
こんな自分は見たくない!
こんな自分は認めたくない!
静夏は……痛いんだ!
静夏の気持ちが……痛いんだ!
そんなの俺が耐えられない!
体がいくら痛くても平気だけど!
心が痛いのは……やだ。
静夏が痛いのは、やだ。

このあと一季は泣いて、そして静夏に「優しさ」を手に入れたと認められるわけですが、ここで一番大事なのはこの最後の一文だと思うのです。「心が痛いのは……やだ。静夏が痛いのは、やだ」。つまりですね、「心が痛い(のはやだ)」というのと、「静夏が痛い(のはやだ)」というのが、ここでは、ここにおいては、この時をもってして、完全に繋がっている。この二つが同列に並んでいる。等価値になっている。つまり、ひとつになっている。
だから、この過程を経たから、ようやく、一季はちゃんとした意味で「乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールド」に加わることが出来た(=遂に要望を聞いてもらえた)のです。俺だけのけ者、という疎外感は恐らくもうないのではないだろうか。ここにおいて本当の意味でひとつになれたのだ。それが優しさ。たとえば、最初のエッチのときのやりとりでは、

静夏「……優しいって一季から遠い言葉ね」
一季「そんなことないだろ」
静夏「あるわ。春海が私をいじめたとき、冬音がとめてたじゃない。あの時、一季も一緒にとめてくれるかと想ったわ」
一季「とめた方が逆に静夏が可哀想だと思ったんだって。静夏の心を汲み取って続けたんだよ」
静夏「うん、それはわかるわ。だけど私のこと可哀想だと思ったなら、とめるはずだわ」
一季「いや、だから、静夏のことを考えてとめなかったんだって」
静夏「さっきも言ったけど、それはわかるわ。ただ一季ってそういう冷たい性格の人、というだけのことよ」
一季「冷たい性格だとは思わないけどな」
本当の事をいうと、そう思うけど……。
静夏「どうかしら? 理性の部分でとめない方がいいとわかっていても感情でとめちゃうものじゃないかしら? 理性が勝つのは冷たい人だわ」

こんなことを言っていました。これが最後の「レイプの痛みを・可哀想さを理性を通り越した部分で受け入れてその行為をやめる」一季の姿と対比的だというのは言わずもがなでしょう。てゆうかこの頃の一季なら静夏が痛がっても普通に犯し続けていたかもしれません(……しれませんっていうか、十中八九そうしたでしょう)。静夏が望んだことなのだから、ここで止めない方がいいんじゃないか、と。しかしやめた。それはやめた。今度はやめた。理性に対して感情が勝った。熱く考えないと凄く冷酷な判断を下してしまう人間が、今回はこの前みたいに「熱く考えろ!」と自分に言い聞かす自己暗示”無しでも”熱く考えて、そしてやめた。―――それこそが一季が、このトキやさ塾……つまりみんなとのセックス、みんなと繰り返した残酷で、気持ちよくて、切なくて、そして優しい行為の中で手に入れたもの。それが、「優しさ」。


最初のエッチ時のラスト

静夏「そっ。だったらいいわ。ほらタオルで拭いてあげるわ。終わったら私を拭いてね」
にっこり笑って静夏は言った。
そして、俺の頭を、優しく、撫でた。
これじゃ、いったいどっちが癒しに来たんだかわかんないな。
静夏「んっ。一季の撫で方ってくすぐったいわ」
次はもっともっと優しくしよう。静夏の頭を撫で返しながら、俺はそんなことを考えていた。


最後のエッチ時のラスト

一季「無理させて悪かったな」
静夏「それは私の台詞だわ。それに……一季に無理させられるのは嫌いじゃないもの」
一季「俺もだよ」
そう言って頭を撫でると、
静夏「一季は優しいわね」
そういって静夏はくすぐったそうに微笑んだ。


優しく撫でられたからそれを真似するかのように撫で返した(けど「くすぐったい」とは言われても、決して「優しい」とは言われなかった)入塾当初から、頭を撫でたその行動から/撫で方から/手の平から、優しさが確かに伝わった卒業時。
つまりは、そういうこと。



正直もうここでエンディング終了でも全然いいくらいなんですけど(いや実際、現時点で普通のエロゲ感想の倍、かなり良かった作品なので気合入れて書いたエロゲ感想と同じくらい書いてる) 、しかしまだまだ続く。ここからどうなるか、不安もすげーですけど、楽しみもすげーです。しかしプレイ時間の倍くらい感想書いてる時間の方が長いw 最終的に感想全部まとめると10万文字オーバーの大台もありえそうで、いやもうどうしろとって感じです(しかし書かないと気が狂ってしまうほど、このゲームは素晴らしいのだ)

*1:猫撫の式子さんシナリオが最高なのと同じような理由です。だからにゃんこ撫で好きな人はこれも好むんじゃないかなーとか勝手に思う。