辻堂さんの純愛ロード

感想書こうと思ったのですが、5時間かけて10回くらい書き直した末に一言も書けなくなったという体たらく状態なのでtwitterの引用で。


かくして「純愛ロード」は完成されたのだ(どーーん!)



いやもうすげえ面白いゲームでして、キャラクターは良いしギャグは最高、テキストは心地良く、様々なキャラクターを組み合わせた各エピソードはもっともっと見たいと思わせるものであり、つまり総じるとやってて面白いしもっと見たいと思う凄く素晴らしい作品、なのですが、なのですが!
素晴らしさや楽しさより死にたさの方が勝ってしまった。(よって死亡=Give up)


各所で言われているように主人公くんが結構難儀。勿論不快に思うか/思わないかは人によりけりなのですが。しかしそもそも設定的にこの主人公くんには不利でもあるんですよね。『つよきす』や『まじこい』が上手だったのは、あの世界において主人公は強い人と最初から知己であったという点/最初から仲間がいたという点で、『辻堂さん』にはそういうのが無いので、むしろタカヒロ世界の「生き難さ」の方が目立ってしまっています。過去に何度も書いてきましたが、タカヒロ世界というのは基本的に超シビアで、顔のないモブキャラですら「この世は弱肉強食」と言ってしまうくらい恐ろしい世界なのです(現実の僕らが生きている世界とだいたい同じように)。超人が出てきたりメカが現れたり超金持ちがいたりしますけど、そういうチート的祝福が与えられているのは設定部分だけで、実際物語の中ではご都合主義的奇跡は殆ど一切起こらない。すごい人だからってほっときゃすごいことが起こるわけではなく、自分たちの力ですごいことを起こしている(導いている)のです。それはたとえば主人公たち一般人も同じで、何かを手に入れたいと思ったら、何かになりたいと思ったら、己の力で目指していくしかない。
で、『辻堂さん』はタカヒロ作品ではありませんが、この辺の「シビアな世界」であるということは基本的に踏襲されています。しかし『つよきす』における対馬ファミリーや『まじこい』における風間ファミリーのような、(僕たちプレイヤーが)この世界と向き合う膜・緩衝材となる仲間たちがいないので、その世界のシビアさがあんまりにも目立っちゃってるのです。『まじこい』で喩えるなら、モブの一般生徒が主人公で、特に仲間もいない状況で、今まで知り合いでも何でもない、ヒロインである百代さんやクリスや揚羽さんと仲良くなろう、みたいな話です。これなんて無理ゲー。勿論仲良くなっていけば、彼女たちが「仲間」になってくれるので、世界のシビアさは緩和されるのですが、そこに至るまでの序盤が高難易度なのは明らかでしょう。そういった点から、主人公くんの情けない感じとか弱いところとかは多少フォローできると思うのです。まあ多少であって、たとえば三会に対する妨害を阻止するために一人江之死魔に突っ込んでいったときの主人公くんが、何も考えてなくて作戦なんて勿論なくてただノープランだったという時点でボクはまったく信頼できなくなってしまって(困難があっても彼なら何とかしてくれる!みたいな意味での「信頼」)、以降ゲームプレイ中、この先の困難を匂わされる度に、「この子解決できるどころか余計な首の突っ込み方してむしろ状況悪化させそうで胃が痛い」と不安な思いをしてしまったのですが。てゆうかゲームプレイ中ずっと不安でもあったんスよ。風間ファミリーや対馬ファミリーのように頼れる仲間はいないし、主人公くんは前述のようにアレだし、てゆうかむしろ主人公の所為で悪化しそうだし! ギャグやテキストは面白いんですけど、しかし同時にずっと不安でもあるという、なんとも恐ろしい(まるでリアル人生のような)ゲームプレイ感触でした。
もう一つ、主人公くんに関しては、たとえば愛ルートにおける「辻堂さんに不良をやめてもらう」みたいなもの。そこだけに限らず、何でみんな不良やってるんだ、何でみんなそんなこと(喧嘩とか湘南制覇とか)に必死なんだと冷めるところ。ここがあまりに好きではない。理由は上記twitter引用に書いてあるように、彼女たちはそれに自分なりに凄く真剣であるのに対し、主人公は決してそうではないから。この辺ねー、ライターさんは分かってて書いてるんですよね。恋奈ルートの最初の方とかで語られていましたけど、「不良」というのも、たとえば音楽に打ち込むとかスポーツにのめり込むとかと本質的には何も変わらないわけです。

冴子「スポーツ、芸術、音楽。全て無意味だわ」
冴子「でもそれを否定したら、人間なんてただ二本足で立つ動物でしょう」
冴子「『無意味』はそのまま人間らしいって意味なのよ。で、その無意味が社会にとって困る方向に向いた子を、社会は『ヤンキー』って呼ぶ」

何かの役に立つわけでもない無意味な行為に打ち込むという意味では、スポーツも芸術も音楽も不良も同じである。言ってしまえば、不良になって全国制覇だーと意気込むのも、よし新作エロゲ買ってきた猛プレイするぞーと意気込むのも、本質的に同じようなものなのです。他人に迷惑がかかるか、社会にとって不都合か、という点は異なるけれど、他は何も違わない。それはスポーツや音楽なんかも同様で、ボール追いかけるのもギター練習するのも、突き詰めれば「無意味である」という点において同じ。けど、だけど、それでも、無意味だろうが何だろうが「俺がそれをやる」と決めた上で打ち込むのであれば、それは本人にとって楽しかったり面白かったり熱中したりすることができる、輝けるものである。その点においては音楽も不良も変わらない(だから文化祭ライブを愛さんは「ツッパリ」と見れたわけです)。
だから「不良をやめろ」というのは、音楽やめろとかゲームやめろと言うのと本質的に変わらないわけです。相手が自らの意思で、あるいは自らの性質で「そうしていること」に対してやめろと言う。別にそのようなこと言うのは、全然良いと思うのですよ。ただ相手が真剣にやってることをやめさせたいのなら、こちらも真剣にそう言うべきなのではないだろうか。たとえばここでは、それが相手の意思を覆させる行為であるにも関わらず、ここでの主人公くんにそんな気迫も覚悟もない。だから個人的には好きではないんです。そして前述したように「ライターさんはそのこと分かってる(はず)」だと思うのですが……にも関わらずこのようにした理由がどうにも分からないっす。結果的にここでは主人公の方が「(大文字の)社会」の表徴をアウトソーシングさせられているかのようであって、にも関わらず最終的に主人公は愛さんのことが好きだってことで端的にぶっちゃけると折れるわけですが、つまりこれは社会と不良との対峙は、大文字同士では反発し合うけど、レッテルや属性に対応するわけではなく、個人としてみれば、好きになることもある(まさにクラスメイトがそうであるように)、ということなのでしょうか。まー今てきとうに書いただけでそんなわけねえと自分でも思うのですが。なんかよく分からないので分かった人教えて下さい。


あと個別ルートがある意味単調という点がちょっとした不満点でしょうか。ちなみに不満点ばっか書いてしまっていますが、ここに書いた不満点以外は「全て良い点」だと思っていただいて支障ありません。いやホントに良いゲームなんですよ。ただ、ただ、俺は死んだ。
で、この点がもしかしたらタカヒロさんとの一番の違いかもしれないですね。ゲームというのはたいてい、のんべんだらりと進むだけに終始するわけではなく、何かしらの目的や目標、到達点や終着点がどことなく分かるように作られています。これは主人公に対する目的・目標・到達点というより、プレイヤーが憶測できるそのゲームの(そのルートの)目的・目標・到達点というものです。たとえば『ドラクエⅢ』だったらまずバラモスを倒す、という最終目標が提示されて、でもいきなりそこまでは進めないから、アリアハンから出るとかコショウを手に入れるとかオーブを集めるといった短期的な目標・目的・到達点がそれぞれ提示されるわけです。そこがゲームプレイ上の一つの指針となっている。同じようなことはエロゲーに対しても言えまして、たとえば『Kanon』でしたら、女の子と仲良くなる、女の子の悩みやトラウマを解決する、その辺がそれぞれ話の流れ上短期目標として上がってくる(プレイヤーに分かるようになっている)わけです。その中でそれぞれ個別に人形探したりとか魔物と戦ったりとかがある。そして最終的には上手く色々と解決して幸せになることが到達点かな、ということがプレイ途中でも読めると思います。それがゲームプレイ上の一つの指針となっているわけです。この先どうするのかの道筋が(勿論正確にはわからないけど)なんとなく薄ぼんやりとは見える。
これは他のエロゲでも大なり小なりそうで、てゆうか萌えゲーとかシナリオゲーとかはこの『Kanon』みたいなプレイ指針が多いですね。短期的には女の子と仲良くなることが目標で、それが達成できたら次の短期目標に女の子の悩みやトラウマが置かれる。そういったものを一つずつ乗り越えていった先に到達点がある。で、『辻堂さん』の個別ルートには、そういったところがかなり欠けてるように思うのです。つまり、目標や目的、最終的にどうする・どうなるのかってのが全然分からない。湘南制覇はヒロインの方の目標としてはあるかもしれないけど主人公の方にはないし、ただイチャイチャするだけが目的というのも考えづらいし、かといって悩みやトラウマというのは殆どその影も見せない(まあ主人公そのものが彼女の悩みになるみたいなマッチポンプはありますが)。大抵のゲームはそういったことを(言葉ではなく出来事で)指し示してくれるわけです。目標や目的というのは作中で言葉で教えてくれるものではなく、「ここでこういう敵が出てこういう結果になった」「ここでこういう展開になった」「ここで彼女の悩みやなんやらが匂わされた」というところから、そうなるのではないかと我われが読み取れるものです。しかし『辻堂さん』の場合はそういうのがあんまり無いんすよね。まるで4コマ漫画やシュガスパみたいに、(多分エピソードを一個二個飛ばしても、エピソードの順番をちょっと組み替えても問題ないような)半ば独立したエピソードが並んでいる。個別ルートがある意味単調だったというのはそういう意味で、要するに「ただの日常」と変わりないものが延々と続いてその先が見えないから、というところです。我那葉とか裏で暗躍していますけど、それが(バトルが)お話において最も重要になるとはハナから考えられないので(この主人公だし)。
で、プレイ指針としての目標目的到達点の話ですが、実は『つよきす』や『まじこい』ですら、普通のエロゲの形式からそこまで外れた形ではないのです。女の子の悩みを解決する、というのが短期的(ないし長期的)な目標として見え隠れしている。以前から何度も書いてきたように、『つよきす』や『まじこい』のヒロインというのは、主人公の助けが無くても大丈夫なくらい強いです。よく主人公と結ばれなきゃ悩みが解決しない・トラウマが解消しない・不幸になる、みたいな話(みたいに想像できちゃう話)があって、まあカノなんとか的問題とかそういう系統のノリですが、そういったところとタカヒロヒロインは大きく異なります。主人公の助けがなくても、一人でも悩みやトラウマはどうにかできる。解決もできるし、折り合い付けることも出来る。けれど、だからといって、決して主人公の助けが必要ではない”というワケではない”のが、タカヒロヒロインなのです。主人公が助けなくても大丈夫だけど、だからといって主人公の助けを必要としていないワケではない。たとえば『まじこい』だったら、百代も一子も京もまゆっち*1もそれぞれ悩みや問題を抱えています。その悩みや問題は、彼女一人でどうにかならないものではない。実際他の子のルート進んだからといって、その(選ばれなかった)子が、悩みや問題をどうにか出来なかったという描写はされていない。むしろ(後日談でもあるまじこいSを見ると特にですが)一人でもどうにか出来ているというように描かれている。でもそれは、一人で大丈夫だから主人公は必要ないという意味ではなく、主人公がいるならいるで、助けになるなら助けになるで、(たとえばそれは友達が友達を助けるのと同じように)あったら嬉しいものなのです。あったらあったで一人の時とはまた違う嬉しい方向に悩みや問題が解決するものなのです。百代や一子や京やまゆっちシナリオがまさにそのまんま、そう語っている。大和がいなければどうしようもならなくなる、なんてことはないけれど、けどそれは大和が必要ではないという意味では断じて無い。
『辻堂さん』はここが最大の違いじゃないかな、みたいにも少し思うのです。彼女たちにとって、楽しく過ごしていく、みたいな意味では大は必要かもしれないけど、悩みや問題という意味ではむしろ大いなくてもいいんじゃね? といったように思えてしまうのです(まあボクは途中で死んだことにより全クリアしていないので、要するに主に愛さんシナリオと恋奈シナリオ途中までの話ですが)。たとえば愛さんシナリオにおいては彼女の悩みや問題といったものはむしろ大によって生み出されるもの”以外に存在していなくて”、要するに悩みや問題という意味ではお前が悩みじゃねーかと。これはボクは非難しているわけじゃなくて、恐らくタカヒロとの差異がそこにあるのかなと思います。悩みや問題を解決して、「前に進む」「強くなる」といったことに重点置いているタカヒロ(主にまじこい)に対して、『辻堂さん』は楽しいこと、「楽しく生きていくこと」に重点置いている。


さて、そんなこんなで、文句や不満点はありつつも「やっぱ面白いなー」と続けていたこのゲームをやめた最大の理由は、この悪夢のような純愛構築システムでした。なるほど、君たちエロゲーマーが純愛をしないならば、システム上で強制的に純愛環境を構築してしまえばいいのだ! オーマイ、エロゲのディストピアがここにあるぞ!
詳しくは上述twitter引用を見てくださいということで。再度書く気力がない。ボクは辻堂さんかなり気に入ったので―――印象批評度100パーセントでお送りしますが、かわしまりのさんといえば、どちらかといえば姉御肌系とか凛々しい系のキャラクターをあてられることが多いですが、しかし単純に「強い」「格好良い」というよりも、どことなくその声には「弱さ」も孕まれていて、それがこういったキャラだと最高に映えることになると思うのです。具体的には、『らぶでれーしょん』のメインヒロインとか、『白光のヴァルーシア』のお姉ちゃんとか、ああいう「一見強いんだけど弱い」「一見弱いんだけど強い」なんてキャラクターに物凄く合う。強さの裏に弱さがある、弱さの奥に強さがある、そういう声をしているし、そういう演技ができるし、だからそういうキャラクターに素晴らしくマッチすると勝手に思ってるのです。これはどちらかではなく、両方です。両立させているからこそ凄い。つまり、「強いんだけど本質的には弱い」「弱いのだけど本質的には強い」、その二つの矛盾した要素を円環的に繋げた一要素として再構築できて、そういったキャラクターに仕立て上げられる。単に「強いんだけど弱い」でもなく、「弱いけれど強い」でもない、「その両方である」キャラクターを作り上げることが出来る。そこが素晴らしくて、一番気に入ってるところです。よくわかんねーよこのクソ印象批評と思った方は、是非『らぶでれーしょん』あたりをプレイして頂けると、なんとなく言ってることご理解してもらえるんじゃないかなとか思います。いや思いたいです。なんか印象批評しか書けないので誰かまともな批評書ける人書いて下さい。
で、辻堂さんというのはその「強いけど弱い」「弱いけど強い」が見事に同居できている人でもあって、だからりのっちさんだとより映えるわけです。個人的には、序盤、江之死魔に追われてラブホに逃げ込んだところで、辻堂さんが(大のことを) (信頼しろ。信頼しろ) とか一人自分に言い聞かせてるところでこの子素敵と思ってしまいました。不安に対してこういう抑え方をする子なんですね。強いんですけど、こう不安になるみたいに弱くて、けどその弱さをこのように自分自身で克服できる強さを持っている。そういった面はそこから先、大と仲良くなればなるほど、付き合えば付き合うほど、いくらでも出てきます。
しかしまあ、上述してあるように、このゲームはその構造上、辻堂さんのことを好きになると、他の子のルートに入った途端プレイヤーが死ぬわけです。いやあ素晴らしい(目ぐるぐるしながら)! 「純愛」とは何か、というのは人によって千差万別でしょうが、とりあえず浮気したり色んな子に目が行ったりしないで一途であること、というのは結構な人の同意が取れるのではないでしょうか。その点からすると、エロゲプレイヤーはいつもいつも純愛無視なわけです。人によっては鋼鉄の意志と鉄壁の性向によってたった1人のヒロインしかプレイしない素晴らしい賢者もいらっしゃるでしょうが、たいていのプレイヤーの場合、ヒロインが5人いれば5人のルートに入って、5人の子と恋愛して恋人になる。ついさっきまでキャラA可愛い言ってたのに、キャラBルートに入った途端Bたんぺろぺろとか言い出す。これでは、全く持って純愛ではない! そこに対してこのゲームは攻撃してきているわけです。ああもう天才じゃねぇの。つまり、これはそう。辻堂さんのことを好きになると、辻堂さんルート以外をプレイするのが物凄く辛くなる。だから、辻堂さんルート以外プレイしたくなくなる。つうか辻堂さんルート以外プレイしたくない。いやもうプレイしない。辻堂さんルートしかプレイしない。これで完成! いっつも色んな女の子にも手を出しちゃうプレイヤーを、たった一人の女の子ルートに留める、「純愛ロード」がこうして完成したのだ!
……いや実際そんな意図で作られているのか知りません。でもボクは勝手にそう思うことにしました。そうとでも思わなきゃやってられない! そして何より、そう思いたい! 辻堂さんと純愛したいのだ!

*1:クリスは忘れた(シナリオを)。