『革命機ヴァルヴレイヴ』は最高に面白い超傑作アニメ!

ヴァルヴレイヴが! 最高に!! 面白い!!!


正直3話までは「なんかフツー」くらいに思ってたんですけどね、4話から! ヤバイ!! 超絶傑作すぎる!!!
これほどアニメに嵌ったのはいつ振りだろう。これほどアニメを面白がれたのはいつ以来だろう。ちょっともうそんなこと思ってしまうくらい本当にめちゃくちゃ面白いです。
一応言っておきますが、世間でよく言われているネタアニメとしてではなく、ガチで、です。ガチで超面白い。最高に面白い。ということで、超面白かった第4話と、そこからさらに面白くなった第5話を中心に、ヴァルヴレイヴ最高に面白いんだよといった話をします。一人でもヴァルヴレイヴァーが増えることを願って……!




まず素晴らしいと思ったのは4話のショーコさんストリップシーンでして、これはショーコさんが「フィガロさんたち先に帰っちゃうって!」「えー、ないない。証拠見せろよ」と言われて何を思ったか脱ぎ出すシーンなのですが、これが素晴らしい。ショーコさんは自分の発言が真実であると証明する手段を持っていません。通信を傍受してた引きこもりさんのことを話せば通じるだろうけど(なにせあの人会長の妹なのだし)、そのことは秘密です。それを除くと、裏付けになるような情報は何も持っていない。かといって「私の発言は絶対正しい」「私を信じて!」で信じてもらえるほど信用得てるわけでもないし、お金をちらつかせたり暴力をちらつかせたりで取引をしようにもそういうの持ってないから出来ない。つまり、何も持ってないのです。ここで自分の言葉を相手に信じさせるようなモノを、何も持っていない。
ショーコさんは、何も持っていない。でも、何も持っていない人間でも、唯一持っているモノがあります。自分の身体です。
だからショーコさんは自分の身体を使うのです。自分の身体しか、使えるものも賭けられるものもないから……だから自分の身体を使うし、自分の身体を賭けるのです。ここで「脱ぎ出す」というのはそういった行為です。何も捧げられるモノがないから、自分の身体を捧げるのです。それはサキさんが言うように「意味わかんない」ことではあるのだけど、でも自分の想い・意思を通すために出来る手段は、ここではそれしかない。そしてそれは「ゴリ押し」でしかないけれど、実際通るわけです。



その直後の校歌斉唱シーンも最高に素晴らしかった。これは兵士達をなんとかこの場で足止めしよう・釘付けにしようという陽動作戦でして、その為に生徒達が校歌を歌うのですけど、これもショーコさんの脱ぎ脱ぎと一緒なのです。「兵士たちをこの場に留めておきたい」という目的がある。しかし学生たちは武器を持ってるわけでも腕っぷしが強いわけでもない。戦って兵士達を抑えることは出来ない。かといって金を出してどうこう出来るわけもないし、他に何か取引材料があるわけでもない。あるいは何処かで事件とか不審火とか起こして、そっちに誘導するという手もありますが、しかしこれはフィガロさんたちが本当に学生を見捨てて逃げるのか、それともショーコの言ってることが間違いで本当は自分らもちゃんと連れてってくれるのか定かではない場面ですから、兵士達と下手にいさかいを起こすわけにはいかないのです。もしフィガロさんたちがシロだと判明したら、学生らはこの後彼らのお世話になるわけですからね。
だから、今、このタイミングで出来ることは、これしかない。何も持っていない彼らでも唯一持っている自分の身体を使って、怪しまれず疎まれずそれでいて足止めできる最良の手段は、お礼という体で歌を歌う、それしかない。だから、それをやるのです。


この二つが特に素晴らしいのは、その後の「独立」の話と繋がってるところ。
「みんな! もう誰かにすがるのはやめよう! 何かに頼るんじゃなくて、自分の足で立つの! 独立するの!」
「すがらず、頼らず、自分の足で立つ」とはどういうことかというと、今自分が持ってるモノでなんとかするしかないということです。誰も助けてくれないし何も助けにならない。私は総理の娘なんだから信じて、なんて言えない(元々言わないですけど)。自分達だけ先に逃げるというアルスの人間に置いてかないでお願い連れてってと懇願することも出来ない。何にもすがらず、頼らず、自分の足で立つ。つまり他に何も持ってない(他のものに頼らない・すがらない)人間が、自分だけで、どうやって自身の証言を信用してもらうかといったら、もう自分の肉体利用するくらいしかなくて。武器も金も権力も、何も持っていない学生が、どうやって兵士達を足止めするかというと、傍から見ればどんなに滑稽でも、どんなにピエロでも、もう歌を歌ってなんとか時間稼ぐしかない。
つまりこの二つのシーンには、既に独立の精神が内包されていたわけです。だからこそ素晴らしい、てゆうか、だからこそこのシーンを入れる必要がある。独立宣言したから独立するのではなく、それ以前に独立の精神を既に宿しているわけですね(特にショーコさんが)。そしてそれらは当然、辛さや厳しさを纏っている。誰も助けてくれないし何にもすがれないわけですからね、自分の身一つでなんとかするしかない、それは信じてもらうために脱ぐしかないショーコさんとか、足止めするために茶番を演じなければならない生徒達みたいに、スマートじゃないし滑稽だ。でも、やる。それが出来る。可能である。


一見、これらはなんかアホみたいな行為に見えます。てゆうか僕だって最初爆笑しましたからね! 何脱ぎだしてんのwww 何故歌うwww という感じで。しかし、よくよく考えたら、こういうことを彼女たちが行う理由は分かるし、このシーンが作品に必要だという理由も分かる。

『ヴァルヴレイヴ』というアニメは説明不足だったり敢えて説明しなかったりという箇所が非常に多いです。たとえばあのロボット「ヴァルヴレイヴ」に関しても全然説明ありませんよね。動力源は何なのかとか、性能とか兵装とか操縦方法とか全然説明されない。でも逆に説明されていないから、なんかいきなり見たことのない新兵器持ってても、前回のダメージが回復していても、ハルトくんが何故か乗りこなせていても「説明されていないんだからそういうことなんだろう」と保留付きで納得出来る。ここの「保留」をどう埋めるか、というのが『革命機ヴァルヴレイヴ』を楽しめるかどうかの最大のポイントなんじゃないか、と自分は思います。つまり、僕の場合は、操縦においてはパイロットは実質媒介にすぎないとかあるいは意思をほぼダイレクトに反映させる操作体系を実装しているんじゃないかとか、ダメージは自己修復機能があるんじゃないかとか、格納庫あたりに兵器が置いてあってそれを見つけてそのつど使ってるんじゃないかとか、自分で勝手にその「説明されていないところ」を想像して補っています。そうやってこの「説明されない」を埋めている。上に挙げたショーコさんストリップとか校歌斉唱なんかもそうです。こうやって解釈して説明されていない部分を埋めています。たとえば第4話でエルエルフが「ドルシアに包囲されている」と言った時に皆が素直にそれを信じたのは、極限状態の緊張&アルスの逃走が真実だったことからの切迫感&それらから、何もかもネガティブに考えてしまう思考になっているとか、「ヴァルヴレイヴを人質に使う」というショーコの案にみんながあっという間に賛成して「いけるぜ!」「その手があったか!」とか言い出したのは、もうどうすればいいか分からないような状況において誰かが「それっぽい案」を出してくれたので不安から逃れるため敢えてその案の中身を大して精査しないで「よい案なんじゃないか?」と信じ込もうとする心理なんじゃないか、とか。
こういうのが『ヴァルヴレイヴ』視聴のポイントで、「いかに行間を勝手に読むか」「いかに説明されていない箇所を勝手に埋めるか」というのが『ヴァルヴレイヴ』を楽しむ上で重要なんじゃないかと思うのです。この全体的に説明不足のアニメにおいては。
そこにはロボットの方のヴァルヴレイヴの性能のように、作中で語られないから妄想丸出しでかなり無理矢理補わなくちゃならないものもあるし、あるいはストリップや校歌、第5話におけるライブ配信のように理由を直接的には語ってくれないんだけど、そこまでの描写から推測できるものもある。そこを上手い具合に補って全力でこのアニメを楽しむ存在……それが、ヴァルヴレイヴァーなのです!


たとえば第5話で、ショーコさんがいきなり「ジングルベル〜」とか言い出す場面がありますけど、これも理由が埋められる。
まずはじめに「この女いきなり気でも狂ったのか歌いだしたぞ」と思ってしまうかもしれませんが、これは彼女なりに頑張って気合入れて考えての行動で、素ではありません。

この「スカートの裾を掴む」という行為ですね。


ショーコさん、第4話のストリップのところ(上の画像の箇所)とか、フィガロさんたちが先に逃げちゃうどうしようってところとか、ハルト呼び止めて独立宣言する前とかに、毎回「スカートの裾を掴んで」いるのです。気合を入れて、頑張ろうってときに、不安や恐れを閉じ込めるように、ぎゅっとスカートを掴んでいる。それだけでここの彼女が「素」の行動ではなく、わざわざ気合を入れて、頑張ろうと誓って、目の前の暗闇を飛び越えるような行動であったことは確かです。そもそも歌いだす前の、超小声での「1、2、3、はい」という掛け声が、自分自身に踏ん切りを付けさせるための精一杯の勇気に聞こえてならない。
では何故それが「歌いましょう!」になるのか。これは『ヴァルヴレイヴ』における独立とか革命の話にも密接に関わってきます。
まだ途中なのでなんとも言えないところですけど、多分どちらかといえば佐々木中の革命の話(切りとれ、その祈る手を)で考えた方が近いと思われます(勿論正確には異なりますけど)。政権が変わることが革命と言えるだろうか? 自分達が支配者になりかわることを革命と言うだろうか? 言えないでしょう。それは指導者・支配者が代わったというだけであり、革命ではない。武力を持って既存の権力を倒すことが革命であろうか。たとえばエルエルフがそうしようと画策するように、巨大な帝国を武力でもって覆したらそれが革命となるのだろうか? なるかもしれないし、ならないかもしれない。ただ倒しただけでは支配者が入れ替わるだけでしかないし、血を流したらその時点で革命が失敗するというわけではない。問題は、その精神性である。たとえばありとあらゆる武力による革命も、「どうして武力を用いたか」という部分には、根幹となる、あるいは起源となる精神があった筈です。圧政に耐えかねてとか、国がダメになっていくのを憂いてとか。そういうはじまりの部分。精神。革命を革命たらしめるテクスト。そこの部分です。
「みんな! もう誰かにすがるのはやめよう! 何かに頼るんじゃなくて、自分の足で立つの! 独立するの!」
彼女たちの独立が「何か」と言えば、この言葉通りで、誰にもすがらず、何にも頼らず、自分の足で立つことです。はっきりいって、国家としての大局的な考えもこの先の見通しも何も無いです。どういう国にするかとか、この後どうするかとか、何もない(いや語られてないだけでちょっとはあるかもしれないけれど)。それよりこの言葉が先に立っている。この革命の精神、テクストはこれです。私たちはこういう国を作りたくて独立しますでも私たちはこういう社会にしたくて独立しますでもなくて、それこそ子供が親から離れて一人で立つのと一緒で、自分の力だけで生きていく、そういう意味での独立である。言い換えると、それしかない。だからエルエルフのドルシア倒すとか企みはこの独立/革命とはマジ関係ないのです。武力を使う必要もないから、ヴァルヴレイヴは人質になるのです。ただただ自分達だけで生きていくというのが、この革命のはじまりなのだから。
そして、この言葉に対してモブが、「楽しそう!」というぶっちゃけ頭悪そうな反応してたのですが、しかしそうなのです、そういう姿勢なのです、それがこの革命なのです。

象徴的なのは第5話のこのシーン、

独立して咎める大人がいなくなって自由を謳歌、「一度運転してみたかった」と言ってショベルカーを乗り回す。でも調子こいてたら水道管傷つけちゃって水がドバーって溢れてきた。これは失敗です。独立して自由にやったからこその失敗。

しかしショーコさんはその水の中に突っ込むのです! このシーンが何度見ても素晴らしい。
自由にやれば失敗もします。通常じゃないようなでかいミスも犯します。「誰にもすがらず、何にも頼らず、自らの足で立つ、独立する」というのは、誰も助けてくれないし、ツケは全部自分で払うということです。今までは大人が助けてくれたかもしれないけど、これからはそうではない。失態の責任は全部自分たちに回ってくる。「独立」を選んだ彼女たちには、そんな困難がこの先幾度も待ち受けているでしょう。だからどうした! ピンチを遊びに、苦労も楽しいものに革命しちゃえ! そういう精神がここにはある。こんなことしたって苦労が消えるわけでも問題がなくなるわけでもないんですけど、しかしそれに対する「見方」だけは簡単に変えることが出来るのです。ショベルカーをぶつけちゃって水溢れてヤベーと見るか、わー水だ気持ちいいーと楽しんじゃうか。そういう「見方」の革命はこのように身一つで可能なのです。
だから「楽しそう!」というモブの反応は正しい。ショーコさんがこのように「楽しいもの」に革命しているのだから。最初はショーコさん一人だけが水の中に突っ込んでいただけなのに、楽しそうな彼女を見て周りの生徒たちもみんな入ってきてみんな一緒に楽しむ、これこそがまさにショーコさんのやってることです。



だからあそこで「歌」を出したのも、彼女にとっては苦肉ながら最善の行為である。この状況は変わらないわけです。電気が復旧するのも、次の瞬間かもしれないし、だいぶ先かもしれないし、もしかしたらずっとダメかもしれない。だからってここで争っていても何にもなりませんよね。それにショーコさんはここの一連のやり取りを見れば分かるように、副会長たちが反対意見を持ってるからといって切り捨てたり袂を別ちたいわけではありません。サキさんが「バカじゃないの。人の意見に乗っかったくせに、自己責任でしょ」と返していましたけど、てゆうか大抵の人ならこういう言葉返すと思うのですけど、しかしショーコさんはどうやったら副会長たちを切り捨てたり突き放したりしないで説得し導けるかを探している。全てが終わって「しらけましたわ!」と副会長が立ち去った後、一人残念そうな悔いが残るような表情をしていることからも、そう。
だから、なんとかするために、歌なのです。ぶっちゃけ歌ったところで電気が回復するわけでも独立がみんな上手くいくわけでもありませんが、体と心だけは変わる。
「歌ったら、体もあったまるし、心もあったかくなるんじゃないかと」
何も変わらないけど、心の持ちようだけは変わりますよね。不安な気持ちが副会長たちにああいった行動を取らせている面もあるのだから、歌って不安を払拭できればなおの事良い。歌ったところで状況は変わらないけど、心だけは変えることが出来る。暗くて寒いからって、「暗い、寒い」って、怖くて不安だからって、「怖い、嫌だ」って喚くだけ? それとも、暗さも寒さも何も変わらないけど、現実世界は何も変わらないけど、歌って、心持だけでも変えてみせる?


あのライブシーンもそういうものである。


歌ったところで、現実世界は何も変わらない。学園はところどころ壊れてるし、この先どうなるかも不安定だし、死んでしまったクラスメイトもいるし、明日どうなるのかも分からない。でも生きてるし、この先も人生は続いていくわけです。戦争しようが学校壊れようが孤立しようが友達死のうが人生は続く。そこで、嘆いてばかりいる? それとも、歌って、体をあっためて、心もあったかくなる? 壊れた学校見て悔やむだけか、ここから新しく始めるか。友達の遺影見て悲しむだけか、それとも一緒に歌って踊ってみるか。こんなことしたって、現実は何も変わらないけど、せめて見方だけは、心だけは、革命できる。
これはそういうことです。ネットに配信して画面の向こう側に届けたいのはこういう思い。誰も助けてくれない孤立したジオールの生き残りたちに、誰の助けも拒んだ独立した学生たちが送るのは、誰も助けてくれないから、誰にもすがれないから、だからこそ、自分一人でも生きていける、誰かの助け以上を手に入れられる、そういうこと。「人生楽しんでこう」というこの曲の歌詞通り。悲しい時だからって、ただただ悲しいと嘆き続けなきゃいけないわけではない。歌えば心も体もあったまる。そんなことしたところで現実は何も変わらないけれど、しかし心だけは変えられる。誰の助けもなく、誰にすがらなくても。



だから『ヴァルヴレイヴ』は最高に面白くて超絶に傑作なのです。希望に満ち溢れている。なんという素晴らしいテーマとお話……!
もちろん、これらは勝手な解釈なので――てゆうか前述したように勝手に解釈してナンボのアニメなので当然そうなのですが――作り手側の意図とは異なる解釈なのかもしれませんが、しかし俺にはそう見えたし俺の心はそのように革命された。だから最高だ、最高に面白い。

たとえば、上にも書いた、ショベルカーぶつけちゃって水ドバーを「どう捉えるか」で意味が全く変わるように、たとえば、暗闇の中で争ってた副会長も明るくなったらスカートめくり上がってる状態だという滑稽な姿に気づいて戦意を喪失したように、このアニメも視聴者の見方次第で変わる、暗闇の奥を探るだけで意味が一変する作品です。考えれば考えるほど味が出るし、そう出来るように細かく丁寧に作られている箇所が多い(もちろん全然説明不足すぎてわけわかんねえ箇所も多いですが)。だから、考えれば考えるほど、読めば読むほど、僕にはここまで書いてきたもののように見えましたけど、他の人には他の何かに見えることでしょう。一人でも多くの人が、自分の「見方」でこの作品を楽しめるよう、そう願っています。