『恋チョコ』と『ef』の強制オート演出の素晴らしさ

http://kahouha2jigen.blog.fc2.com/blog-entry-730.html(「エロゲ業界は全作品にフローチャート実装するべき。後、強制オート演出はマジでやめて」)


エロゲでたまにある強制オート進行。こいつが持つ罪深さにご立腹な方も多いでしょう。「俺の読みたいように読ませろ」「読み終わる前に次の画面に行っちゃう」「画面(テキスト)遷移が遅すぎてウザイ」といった基本的なところから、「こう読め、と指示されてる感じがして萎える」「ここが感動ポイントですよ、ここが重要ポイントですよ、みたいなのがあからさまに透けて見えてなんかやる気なくなる」といった*1、プレイヤーの気持ちに関わるところまで。強制オート進行がもたらすマイナス点は結構あります。
強制オートというのは、単に演出の一言で片付けるにはあまりにもプレイヤーに対し読ませ方を強要していて、それ故欠点もかなり目立ってしまうのではないでしょうか。勿論、たとえば『WHITE ALBUM2』のように演出として上手く働いてる(※個人的な感想)と思うモノもあるのですが、演出として逆に上手くいってない・過剰になってるものもあると思うのです。そんな中、そういう次元を超えて、強制オート演出が意味あるものになっている作品もあります。つまり、いわゆる只の演出―――ここを強調させたい・ここを印象付けたい・こういう風に読ませたいといった只の演出として機能しているのではなく(以上に)、強制オートであるということそのものが意味を持っている・むしろここは強制オートじゃなくてはいけないというモノ。そういう作品も中にはあるわけです。そこで例として挙げられそうなのが、『恋と選挙とチョコレート』と『ef』。


以下、『恋チョコ』と『ef』の多少ネタバレになります。


恋と選挙とチョコレート』の強制オートは、リンク先にも書いてありますが、作品のど真ん中でブッこんできます。千里という主人公と幼なじみのヒロインがいて、彼女は主人公のことがずっと好きでした。しかし(当たり前ですが)、その想いは千里以外のヒロインルートに進んだ場合破れることになります。千里以外のヒロインに進んだ場合、彼女は事実上フラれるわけですね。この作品はそこで強制オート進行がはじまります。フラれた千里が「私はフラれちゃった悲しい」みたいなことを強制オートで延々と垂れ流すわけです。
で、この演出に対して肯定的な意見というのはあまり見かけませんでした。当時作品スレや月別スレに入り浸ってましたが、そちらでは殆ど見かけず、むしろ「ウザイ」「いらね」といった否定的な意見が非常に多かった。てゆうか普通に千里自体がウザイという意見がかなり多かったのですが(2chの意見はあくまで一意見ですが)。基本的には、「フラれた千里かわいそうー」となるよりも、むしろ、演出とテキストとそれまでの描写で、言葉悪いですが「フラれた私は可哀想なのよアピール」みたいに見えてしまうことが不味かったんじゃないかなーと。
そんなわけで、感動や深みを与えるという意味では、この演出はあまり機能していなかったと思うのです。その一番の理由は(上に挙げた以外に)、なんといっても「全てのルートでこれをやる」というところが致命的だったでしょう。千里以外のヒロインルート、つまり他の4人のルートでも、毎回千里は勝手にフラれて勝手に強制オート演出をします。もちろん内容は毎回同じようなこと(私はフラれた)です。つまり、毎回同じ様なものを見なくちゃならなくなる。しかもクリック連打で読み飛ばせない強制オート進行。なにより致命的だったのはこの部分で、毎回同じようなものを強制的に見せられれば、よっぽどの千里好きでもない限りウゼえと思いますよね。しかもその内容自体も、そこまで優れたものでもない*2。つまりそれは、演出としては決して成功しているとは言いがたかったワケです。
しかし、だからこそこの強制オート進行は、演出とは違う次元で意味を持つ。演出として事実上失効しているからこそ、残ったのはこの千里さんの執念、千里さんの自意識の大きさです。要するに、この演出が(逆説的に)示したものは、千里さんの無双っぷりなんじゃないか?  普段は普通にゲームは進行するのに、千里がフラれたところだけは強制オートで進行する。これはつまり千里さんは、ゲームの進行制御というメタ部分まで侵してしまっているということです。千里の執念メタまで届く。この人は物語の外にまで手が届いてしまっている。千里に関しては、それだけの想いをこれだけの強度で表に現すことが出来ている、ということがこの強制オート演出によって何よりも表現されているわけです。スレで「千里無双」なる言葉を何度か見かけましたが、マジでそう。『恋チョコ』の中で千里さんただ一人、その影響力は物語の中だけじゃなく、物語の外まで及んでいるのです。


『ef』の強制オート進行は……すっげーネタバレなのであまり細かくは書きませんが、現在の優子と火村の邂逅が全て強制オート進行になっています。テキストも表示されないし、バックログも見れません。しかも、他のゲームの強制オートのように、ほんの僅かの時間(作品全体を通して2〜3分、せいぜい数分)ではなく、かなりの時間(正しくは覚えていませんが、プレイ時間にして少なくとも30分以上はあったかと)が、その強制オート進行に当てられています。
これは純粋にプレイする限りにおいて正直迷惑じみていますし、プレイメモを取ろうとした場合なんかはかなり厄介です。なにせ文字が表示されないし、ログも表示されないのだから、キャラクターの会話=声を聞き逃したら本当にそれまで。確認したければ、もう一度セーブポイントからやり直すしかない。しかも強制オートでどんどん進んでしまいますから、少しの聞き逃しが大きな致命傷となったりします。ちょっと10秒くらいボケーとして話聞いてなかったら、「あれ、今なんの話?」と置いてけぼりになりかねない。それでいてそんな強制オートシーンが作品中で30分以上あるわけです。
だから実際、厄介ではある。しかもここを強調させる・感動させるみたいな演出効果はあまり機能していないわけです(なにせ作品全体の数パーセントがこれで、しかも途中まではプレイヤーにとってある種「分からない」会話でもあるわけですから)。
しかしそこにも意味はある。むしろこの強制オートは絶対に必要だったと思うのです。なぜなら、この邂逅自体が、現実のような夢のような、嘘のような本当のような、そういう存在だからです。物語中の立ち位置として、というより、火村夕にとって、というべきかもしれませんが。だからここでは、強制オート(さらに付け加えると「テキストが存在しない/バックログなし」)という形式を取ることによって、その存在の重さを守らなければならなかった。つまり、自動に流れる進行は時間をコントロールできないという時の重みであり、テキストに残らない会話は物質も記憶も言葉も永遠には残らないというセカイの法則である。だから強制オートでテキストが存在しなくてバックログが無いという形式を取っているのではないかと思うのです。普通の形式なら、普通に存在している。しかしこの邂逅は普通には存在していない。というか、”普通じゃないから存在している”。普通の世界のように、「ここにあって残るもの」としては確実にありえない二人の邂逅だからこそ、「強制的に流されて残らないもの」として作られたんじゃないだろうか。だから強制オート(流されて)で、テキストが表示されず(確かなものとして存在せず)、ログも見れない(後には残らない)。
ここにあるのは、そういった、単に演出としての強制オートではなく、それ以上の意味を持った強制オートだと思うのです。

*1:たとえば、スレにもあった『真・恋姫無双』呉ルートの某シーン……いや個人的には魏ルートのラストの方が印象的なんですけど、あそこは非常に良い感じであるにも関わらず、強制オート演出によって制作者の「さあ泣け!ここで感動しろ!」みたいな意図が伝わってきて(本当にそんな意図があるかどうか分かんないけど、まるでそういう意図があるかのように思えてしまって)逆に萎えてしまったのです。もちろん個人差があって、僕の場合はそうだという話ですけど。

*2:せめて「毎回フラれた千里さんを見るんだけど、最後に千里さんを攻略して彼女のこの繰り返された怨念が報われた」みたいな形で終わらせられれば少しはマシかなと思うのですけど、このゲームは初回攻略が千里で固定されています。プレイヤーにとってはもう既に終わった(=クリア済み)子のグダグダを強制的に見せられるのであって、つまりこのグダグダから未来が伸びていないことを既に知っているので、余計にだるくなります。いやこれが、既にクリア済み=終わった=別れた女の未練に強制的に付き合わされるということをイメージして作られているのであればもはや天才と呼べるレベルなのですけど。

エロゲ感想いろいろ

個別記事にするほどの文量にならなかったものをまとめて。

俺たちに翼はない Prelude(2008、Navel

本来ならこれをプレイした半年後に本編発売であって、「それって死ぬよね?」というのが率直な感想。すっげー面白かったです。こんな面白いのに本編は半年も先だなんて、正気を保っていられなくね? 最初から追っていた方は、本当お疲れ様です(そもそもの製作発表が2005年あたりでしたっけ。マジ乙です)。
それぞれプレイ時間2時間ほどの本編体験版2つ(鷲介編と隼人編)と、プレイ時間にすると2~3時間ほどの本編には入っていないショートエピソード4つと、Navelのマスコットキャラによるなんかちょっとしたトーク少し。本編プレイ済みの方は、定価で買うならさすがに眉をしかめかねませんが、中古安値ならば充分元は取れる内容ではないでしょうか。全部、素晴らしく面白かったです。特にショートエピソードが、本編には存在しない、「それぞれのヒロインキャラクター視点」から綴られているというのがポイント高い。明日香さんのモノローグはこんななのかとか、山科さんはあんな感じなのかとか、店長視点だとマジこの人精神病んでんじゃねえのってくらいぶっ壊れてるところとか、なかなかに興味深い内容。鷲介視点だと狩男の下ネタもやんわりと受け止められますが、狩男視点だと深刻にヤバイです。真性すぎて。この人、気を遣ってとか場を盛り上げるためとかで多少キャラを作って下ネタ連発してるのかなーと思ったら全然そんなことないマジ真性だったぜ! てゆうか思考回路がおかしい! 人間じゃない!

ちなみに、俺つばの主人公が「誰なのか」というのは、このプレリュードを起動してすぐのところで語られています。

(俺つばの主人公は誰なの~って話になって)
「あ、そうか、そうだね。ハイじゃあお待たせしました。主人公の画像がこちら、ドン!」
(画面真っ暗になる)
「――ハイこの、いまブラックアウトした画面に映ってる、イケメンのお兄さんですね」

そう、本編プレイした人にはある種常識ですが、モニターの前のおまえらみんなたちが主人公だったということです。

メルクリア(2010、Hearts)

THE フツー。なんか普通でした。

いきなりあなたに恋している(2011、枕)

結構面白かったのですが、ボクは圧倒的にホラーが出来ません。ホラーが出てきたら大抵ギブアップです。ここでいうホラーというのは本格的なものじゃなくて、小学生レベルのちゃちいもの、そんなんでもボクはアウトです。マジムリ。『Fate/hollow』の冒頭にちょっとした怪談があるじゃないですか、あれでもうゲームを投げるかどうかの瀬戸際まで追い詰められました。ということで『いき恋』、驚異的なまでのキャラクターの二面性とか面白かったのですが(ツンデレとかそういう意味ではなく(だけではなく)、他人からどう見られているか/本当はどうか、他人にどう見られるように作っているか/本当はどうか、みたいな意味での二面性。それを全キャラに備えて、しかもそのことをゲーム開始超序盤に解説するという風呂敷の広げ方までしている。ここからどう突っ込んでいくのかがインタレスティング)、あと単純にテキストも面白いし、絵も良い感じだし。しかしホラーだ。いやほんのちょっとなんすけど(プレイ時間にして多分30分くらい)、しかしホラーが入ってるぅ!
ということでギブアップ。ウチのPCだと重かったというのもあります。内容自体は良い感じなので、そのうち再チャレンジするかも。

魔法少女Twin☆kle(2005、feng

fengがまだよく分からないメーカーだった頃のゲームですね。つまんねーとか言うほど酷くはないけど、特にオススメできるわけでもない。てゆうか何で買ったのか自分でもよくわからない(積みゲーが多いと、いつ・どこで・何で買ったのか分からないゲームが増えてきます)。
通常ルートと凌辱ルートがあったりするのですが、その凌辱ルート側はちょっと燃えます。敵キャラとか別のキャラにヒロインが凌辱されるんじゃなくて、主人公がやります。疑心暗鬼になったり不安に押し潰されたりと色々と精神的に追い詰められた主人公がヒロインを凌辱することによって精神の安寧を取り戻そうとするルートです。ちょっと何言ってんのかよく分かんないですが、事実なのでしょうがない。ざっくばらんに例を挙げると、ヒロインと恋人同士になった → 彼女がこのまま魔法少女として戦い続けると怪我とかしちゃうかも → 不安でしょうがない → そうだ、彼女をレ○プしちゃえば、もう魔法少女になる気もなくなるんじゃないか! みたいな感じです。こうやって文章に起こすとちょっと可哀相な人みたいですが、実際はもうちょっとちゃんと、”そんな思考回路になるだけ主人公の精神が追い詰められている”ことが分かるような描写になっています。まあ描写がそうであるだけで、決して共感できるとは限らないのですが―――その程度でこんなに不安に押し潰されちゃうの? みたいな感じはある。しかしそれは逆に、それだけ主人公が「弱い」ということ、その弱さから逃げるためにこんな「暴力」を振るってしまうということ、つまりこれは、こんだけ主人公が「異常」だということに証明に他ならないわけです。そこが良かったです。そこが好きなとこ。

あまつみそらに!(2010、クロシェット

スズノネセブンはよく出来てるなぁと思ったのですが終わり。

こんそめ(2010、silver bullet)

世間一般(この場合エロスケのことを指す)で言われているとおり、日野旦先生とそれ以外のライターとの差が激しい……てゆうか普通に相性が悪かったんじゃね? という感じがします。
「生きるって、呪いみたいなものだよね」。るい智において「呪い」をどういうものとして定義しているかというと、決して能力の代償的に存在するドクロのあの呪いのことだけではありません。ちょっと今プレイ時のメモやキャプが見つからないので全部記憶で書いちゃいますが、たとえば性格のことを「呪い」と言ってたりもしてますよね。自分はこういう性格だ、だからこういうふうな言動をしてしまう。それはまさに「呪い」ではないか。○○をしてしまう、○○をしたくなってしまう。自分の随意と関係なしに、勝手にそうなってしまうのだ。言うなれば呪いのように。えーと他に確か、事業を失敗したんだっけ、借金で首が回らなくなったんだっけ、あるいはその両方だっけ、とにかくそんな感じの茜子さんの親御さんの状況にも「呪い」を指摘していましたよね。そういう状況に陥るといわば袋小路みたいに道が閉ざされてしまって誰も助けてはくれないというこの社会のあたりまえ。そういったものも「呪い」だと。
つまり、ここでいう(日野でいう)「呪い」というのは、なんか悪いことが起こるように祈祷師があれやこれやする系の意味で「呪い」ではなく(そういう要素もあるけれど、しかしそれよりも)、ドラクエで装備したら「呪われてしまった」といって外せなくなる、捨てられなくなる、というのがありましたけど、あれと同じようなものです。何かしらの制約。何かしらの決まり。縛り付けて、逃れられないもの。それが呪いです。だから、「生きるって、呪いみたいなものだよね」の後にこう続くのです。「報われない、救われない、叶わない、望まない、助けられない、助け合えない、わかりあえない、嬉しくない、悲しくない、本当がない、明日の事なんてわからない……。それってまったくの呪い。100%の純粋培養、これっぽっちの嘘もなく、最初から最後まで逃げ道のない、ないない尽くしの呪いだよ」。―――つまり、制約、決まり、法則、構造……そういったありとあらゆる「逃れられないもの=既に決まっているもの」、それが「呪い」なわけです。

で、ここから話は分かれます。ここから世界は分裂します。いやここより前からなのかもしれませんが、ボクが未プレイなのでご勘弁ください(ついでに『桜吹雪』なんかも未プレイなので大変アレなのですが)。要するに、一つの作品で「呪い」全ての話は出来なくて、なのでそれぞれの作品で、少しずつ分節化して、そのちっちゃくなった個別の呪いをやっつけているのです。『るい智』であればいわずもがな、能力、血、つまり個人的な”運命としての”呪いです。そいつをやっつけてる。『コミュ』はトラウマ、過去、つまり”自分自身”という性格や意思そのものの呪いですね。それを殺している。では『こんそめ』はというと、そこに家族や血縁、つまり”出自としての”呪いが当てはまっている。『こんそめ』において断頭台に上がっている呪いはそいつです。『こんそめ』はそいつをジェノサイドしようとしている。
…………のだと思います。と、ここで急に歯切れが悪くならざるを得ないのが『こんそめ』の欠点でして、なにせヒロイン5人なのに日野っちが書いてるのが1人分だけらしいのです(あと共通ルート)、そりゃヘンテコな齟齬りが生じかねません。そして実際に生じてしまってます。その辺が世間一般の評価が言い表しているところなのではないかと。あくまで喩えですが、「ヒロインは家族や出自に問題あるからー」って発注受ければ、日野っちはお得意のある種ねちっこい呪いをお書きになられるでしょうけど、普通のライターは変に家族観や感動系ファミリー系方向に流れてもおかしくないんじゃないか、みたいな想像は容易くできると思いますけど、誤解を承知で言えばそんな感じです。いや別にホームドラマ系ではないですけど、でもなんだろう、こういった家族の使い方は絶対に日野さんのそれではないし、”そもそも呪いでもない”、みたいな、決定的な齟齬がそこに見え隠れするわけです。たとえば「家族間のトラブル=家族の問題」みたいなものを俎上に上げてはいけないわけです。それは呪いではなくただの問題でしかない。だから普通にぱぱぱっと解決できます。それだと、そういったものが生じる機構=呪いはやっつけられていませんしね。

ああ、ちなみに、だからここで例に挙げた3作品は「同盟」「利害の一致」みたいな感じで最初つるむわけです。たとえば『こんそめ』では、RPGっぽくパラメーターupとかアイテムgetとかありますけど、あれは実際の意味を何も持たない形式的なものでしかありませんよね。ある意味それと同じように(つーかだからこそ「形式だけ」のRPGぽさを挿入しても違和感がないのだけれど)、ここでいう友情も形式的なものからはじまります。その辺は『るい智』にしろ『コミュ』にしろ似たようなものですね。友達というわけではない。まあその中の少数の個々人は別として、全員が全員と友達として繋がっているわけではない。外から見れば・形式上は友達のようであるけれど、それは形式上でしかない。『&』も、あれはあれで実は形式的な友人度合いが結構強いですよね。始まりの段階においては、”たまたま二つの月を見たときに一緒にいたメンバーだから”以上でも以下でもないわけです。そもそもずっと会ってないし、連絡も取ってないし、名前も顔もおぼろげなメンバーがいたりするし、「けどそれでも今でも友達だ」なんてことは思っていなかったわけです(※麗さんは除く)。だから、たとえば「クラスメイトだった」と同じ様な意味で「二つの月を見た冒険のメンバー」という形式的な繋がり合わせしかここでは持っていない。そこからどうなるかは別の話ですが、最初はそう。こういう形式性というのは、「逃れられない決まり=呪い」からは少し離れたレイヤーに位置します。形式だから直接の実効性は持たないわけです。たとえばマルクスの物神化が例に挙げられるように、これが数万人以上の規模だったら話は別ですけど、数人規模だったらその形式を破棄するのはそう難しくない。故にこれは呪いに囚われてない。「友達だから、友達だから……」というよくありがちな「友達という呪いに囚われたストーリー」からは遠く離れたところに余裕にポジショニングできるわけです。

で、えーとなんでしたっけ。『こんそめ』の一枚絵CGは殆どがなぜかパンチラしているのですげーやる気が削がれるという話でしたっけ。いわゆる空気パンチラ?とかいう言葉があるらしいですけど、多分それです。女の子が出てくるCGはだいたい全部無駄にパンチラしています。まるで呪いのように。絶対パンチラするという呪いがあるわけです。で、これが非常にやる気削がれるので止めて欲しいなーと。パンチラCGってそもそも恣意性と紙一重じゃないですか。普通、女の子はパンツを見せていません。ということは、パンチラというのは、風やら動きやらでスカートがめくれてパンツが見えるか、椅子で足を組んだり高いところにいたりとパンツが見えるような体勢・位置ゆえにパンツが見えるか、下方向から見上げる向きのアングルで絵を描くことによってパンツが見えるか、そういったところしかないわけです。でもそれって恣意性と紙一重なんですよね。だって現実世界の日常生活でそういう場面ってまず滅多にないじゃないですか。パンチラなんて皆さん見ますか? ボクは別に見たくないですけど、しかし見たことはほぼ全くありません。自然の摂理として起こりづらいものになっている。だからエロゲにおいては、無理矢理風を吹かせたり、無理矢理女の子に変な・無防備な体勢取らせたり、なぜか下から覗き込むようなアングル取ったりして、そのように「恣意的にして」、はじめてパンチラが生まれるわけです。なにせ現実じゃパンチラなんてありませんからね。ボクは別に見たいわけじゃありませんが、現実世界ではパンチラなんて多分見たことがありません。つまり、何が言いたいのかというと、現実ではパンチラはまず滅多やたらに起こらないのです。なのにエロゲCGでは日常茶飯事にパンチラが起こっている!(てゆうか本作においては殆ど全てがパンチラである!) これはおかしいです。これを「自然現象だから」といって納得することは出来ません。これはただの偶然では済ませられません。これを「ただの偶然だろ」で済ませちゃう人は、「なんか物音がする」「気のせいだろ?ちょっと見てくるよ」「ギャーッ!!」といった感じにホラー映画で速攻やられちゃう犠牲者Aと同じ思考回路です。ちょっと考えれば分かるはずです、むしろこれは偶然ではなく、神の見えざる手だと……。エロゲにおける(ここでいう)神とは何か。それはもちろん作者のことです。キャラクターがパンチラするか否かなんて、作者のさじ加減ひとつなのです。つまり超自然現象であるパンチラがこれほど頻発する理由とは、神=作者がパンチラを起こしている=描いているからである、ということです。
だから空気パンチラは嫌いなんです。パンチラなんて現実に見たこと無いのに(重ね重ね言うけど、別に見たいわけじゃ以下略)、フィクションの中に溢れんばかりに用意するこの恣意性、これがあまりに全面に出ていて嫌になってくる。ということで空気パンチラ撲滅原理主義者としては、マジどうにかして下さいほんと頼みますよ、って感じでした。
つまり纏めると、『こんそめ』は空気パンチラが無ければ良かったのになーという話でした。

「ゆゆ式」4巻

よ・ん・だ。

ある種の会話やコミュニケーションというのは、だいたい皮膚感覚としては明確なルールの中で競い合うゲームのようなものなのですが、しかしもう2巻終了時で「極めちゃってるよこの子たちー」と思ったんですよね。この子たちは、「彼女たちの(会話とかコミュニケーション)」というゲームを極めちゃってる。喩えるならテレビゲームの、それも同一メンバーでやる対戦や協力プレイなんかを凄く極めてるのと同じような話でして、たとえばいつも同一メンバーでモンハンをやってて、あるいはウイイレをやってて、そういう意味において極めてる、といった場合。それと同じようなことが『ゆゆ式』の会話においてもあります……ありました(どっちだかよくワカンネ)。
同じメンバーでやるのを極めると、基本的にミスは出ないし間違えないし、普通にやれば最短最効率最大成果になるわけです。いつも同じメンバーでモンハンやってれば、このタイミングで自分が攻撃すれば誰々さんの援護になるみたいなことが画面見て無くても分かるし、いつも同じメンバーでウイイレやってれば、相手がどういう風に攻めてくるか分かるからこう対処すると相手がああいった対応をするからこういう風に動くと相手もそうなって……みたいなことが全部分かる。ここにおいては、”このかみ合わせ”という点でミスはない。敵に負けるとか操作ミスをするとかそういう意味ではなく、相手の意図や行動の予測を誤るといったミスは基本的に起きなくなる。少なくとも、たとえばウイイレでいうなら、ここに来たらアイツは絶対にバックパスするか右サイドにパス出す、みたいに、2択3択程度までには相手の意図や行動が読めて、その時点までは絶対にミスらない。たとえば僕はですね、昔スーファミであった『エキサイトステージ96』ってゲームを、友達と何故か2006年くらいまで延々と対戦し続けてましてね……まあここまで書けば何言いたいのか分かると思うので割愛しますが、その点において相手の意図や行動、それを読み間違えるというミスは基本的に起こらなくなるわけです。そのことをもってここでは「極める」としています。
や、『ゆゆ式』の場合は、単純に前述のような「意図や行動を読める」という意味だけでの「極める」ではないのですが……まあなんだろう、僕は縁のヒトがよくわからないのでよく分からないのですが。たとえばゆずこのヒトは、第1巻のページを一枚めくると速攻出てくる、 (唯ちゃん来たらどんな反応してやろうかなー)(まず大爆笑して一発どつかれてー……) が示しているように、常に適当にモノ喋ってるわけではないです。自分がどんな反応・言動をするか、相手がそれを受けてどんな反応・言動をするかというのを、常に……かどうかは知らんけど考えてるわけです。「実は頭良い設定」というのがここで生きてきます。適当に思い付きを喋るだけでなく、考えて喋る能力があるという裏付けが設定に置いてある。実際彼女の言動はほとんど全部が「ちゃんと考えて喋ってる」というのが見て取れますよね。こういうツッコミ・こういうリアクションを相手(主に唯)に望んでいる、というのが透けて見えるくらいに見て取れる。まあ実際唯ちゃんのヒトが次のコマでまさにそれに応えるかのようなツッコミ・リアクションを見せるから余計にそう思えるのですが。そこで縁さんのヒトは大抵笑う、たまにノってくるという感じなのですが、なんかよく分かんない。天然系コワイ!ムテキすぎてコワイ! しかし4巻67ページの2コマ目、みんなが海を見て「おー!」となっているのに、海を見ないでゆずこと唯の方を見るというところに縁のその……なんか色々なものが現われてんじゃねーかなー。(よくわかんないので投げた)
えーと、いずれにせよ、この3人には、「この3人で行なう会話・コミュニケーションという競技を極めている」みたいな表現は可能なんじゃないでしょうか、てゆうかこの表現が一番しっくり来ると思うのですが。
で、『ゆゆ式』の彼女たちは、彼女たち3人でやる限りにおいての会話を極めちゃってるので間違えない。ミスがない。たとえば印象的なのが、えーと確か3巻くらいで(そのうち全部読み直してちゃんとしか感想とか書きたい場合もあります)死ぬってなんだろうとか生きるってなんだろうみたいな話が出だして、ちょっと空気変になっちゃって、にも関わらずもう一回その話持ち出して、でもやはりまた空気が変になって、「やっぱこの話ないわー」みたいな感じで纏まるヤツの、この「その話をもう一回持ち出す」というところ。ここではわざと自分からもう一回ミスを踏んでるわけです。空気が変になるという、ミスというかプチミスですが、それをわざと自分からもう一度踏みに行っている。なんか普通にやっててもミスが出ないから敢えて自分からミスを振ってみたよ? と思えるような遊び方なんです。これは大抵の会話やコミュニケーションの場においてはなかなか出てきません。こういう「遊び」が余裕で出来るくらい極まってるわけです。
しかしそれは逆に言うと、読者である我われにある種のつまんなさを与えかねない。いやごめん実際「1巻最高!」「2巻サイコー!」「3巻微妙」だったんですけど。なぜかというと彼女たちは極めているからで、普通にやってると普通に彼女たちの最短効率最大戦果が上げられちゃうからです。なんの危険もない代わりに、なんの驚きもない。たとえばモンハンとかウイイレとかも極めちゃえば、やってることは超高度なんですけど、本人たちあるいはそれをいつも見ている人たちにとっては、危険もなくいつもと同じ、ある種ルーチンワーク化、というか自動的なものになってしまう恐れがある。そんなものを個人的には3巻に見てしまいましてね。だからこの先どうするのかなーと思っていたのです。彼女たち「3人」は極めてしまった。ならば外部と接続するのか。たとえば、いつも同じ人同士で対戦していれば、それ自体は高度な争いでもいつも同じような感じになるから飽きてしまう(=極めてしまう)。だからこそ外部と接触するのか。岡野たち3人の会話は、ゆずこたち3人の会話とはまったく異なるプロトコルを持っているわけです。だから、ゆずこにしろ唯にしろ(縁さんのヒトはよく分かんないので知りませんが)、たとえばもしあの3人の中に自分が独りだけ混じって遊ぶとかなれば、なにかしら唯・ゆずこ・縁の3人のときとは自分を変える必要が生じてくるわけです。あ、いや、上手くやるならば、ですけどね。そしてそれは実際に今までそれっぽく証明されていますけど(たとえば外で会う野々原さんはまともなのにどうして学校の(唯たちといる)野々原さんはアレなのかといういいんちょーの疑問そのものとか)、人間同士の会話というのはその中で、そのグループ数だけの、(決して明文化されない)規則や決まりごとや上手なやり方といったプロトコルがあるわけです。会話における最適な距離感や自分はどういったキャラをそこで演じるのがベストなのか、といった点もそう。それぞれにそれぞれの決まりごと・法則がある。会話するグループそれぞれで、ひとつひとつ別のルールがある競技となっているのです。
だから(自分たちのグループを)極めた先に他グループと絡み合う、というのは至極真っ当な判断で、そうだからこそ3巻で岡野っちたちと絡み出したと思うのですが(=勝手にそう思ってるのですが)、しかしこれにあんま未来がないことはおかあさん先生が証明しています。あっという間に……というほど早くはないけど、とりあえず(作品内で描かれる限りでは)何回かの接触で、もう、この3人と会話する時のおかあさん先生の居やすいポジションを見つけ出している。だから岡野っちたちと絡んでも、多分そうそうにこっちも極められるだろう、だから第4巻どうするのかなー、極めた彼女たちは何処いくのかなー、というのが第3巻まで読んだ感想。

で、4巻ですが、「マジ4巻最高!」、素晴らしかったです。極めるというのはですね、”ほっとけば自動的に最短最効率”になる、ということなのです。たとえばサッカーゲームとか極めれば、最短最効率でゴールを目指せますよね、てゆうかほっとけば自動的にそうなりますよね。それは対戦相手がいても同じで、最短最効率の守備と最短最効率の得点を、ほっとけば勝手に実現させている。どちらかというと第3巻はその傾向が強かったと思うのですが、それは最も理に適ってるのですが、しかし理に適っているというだけでしかない。美しいとか楽しいは、必ずしもそこにあるとは限らなくて、だから”ほっといて自動的に最短最効率”では、その点においてはよろしくないのです。サッカーゲームでいえば、特に必要ないけどダイレクトプレイとか、ゴール前でドフリーなのにパス出すとかした方が、最短でもなく最効率でもないけれど、見た目上は美しかったり楽しかったりするわけです。つまりそういうことで、『ゆゆ式』4巻はこの極めたという行き止まりを、美しさや楽しさで打開した。いやぁこれは驚きですよ。僕が書いてる内容がこれほどまでに印象論なのも驚きですが。やらんでいいことをやりまくっている。こうした方が美しかったり楽しかったりするというだけで、そうしている。ほっとくとゆずこたちはもっと完璧にやりすぎちゃうから、敢えて手を加えているわけです、とか言えるんじゃないでしょうか(妄言がすぎるけど)。極めた先には、極めたなりの遊び方、極めたなりの質の追求があるわけです。なんかそんな感じ。