『恋チョコ』と『ef』の強制オート演出の素晴らしさ

http://kahouha2jigen.blog.fc2.com/blog-entry-730.html(「エロゲ業界は全作品にフローチャート実装するべき。後、強制オート演出はマジでやめて」)


エロゲでたまにある強制オート進行。こいつが持つ罪深さにご立腹な方も多いでしょう。「俺の読みたいように読ませろ」「読み終わる前に次の画面に行っちゃう」「画面(テキスト)遷移が遅すぎてウザイ」といった基本的なところから、「こう読め、と指示されてる感じがして萎える」「ここが感動ポイントですよ、ここが重要ポイントですよ、みたいなのがあからさまに透けて見えてなんかやる気なくなる」といった*1、プレイヤーの気持ちに関わるところまで。強制オート進行がもたらすマイナス点は結構あります。
強制オートというのは、単に演出の一言で片付けるにはあまりにもプレイヤーに対し読ませ方を強要していて、それ故欠点もかなり目立ってしまうのではないでしょうか。勿論、たとえば『WHITE ALBUM2』のように演出として上手く働いてる(※個人的な感想)と思うモノもあるのですが、演出として逆に上手くいってない・過剰になってるものもあると思うのです。そんな中、そういう次元を超えて、強制オート演出が意味あるものになっている作品もあります。つまり、いわゆる只の演出―――ここを強調させたい・ここを印象付けたい・こういう風に読ませたいといった只の演出として機能しているのではなく(以上に)、強制オートであるということそのものが意味を持っている・むしろここは強制オートじゃなくてはいけないというモノ。そういう作品も中にはあるわけです。そこで例として挙げられそうなのが、『恋と選挙とチョコレート』と『ef』。


以下、『恋チョコ』と『ef』の多少ネタバレになります。


恋と選挙とチョコレート』の強制オートは、リンク先にも書いてありますが、作品のど真ん中でブッこんできます。千里という主人公と幼なじみのヒロインがいて、彼女は主人公のことがずっと好きでした。しかし(当たり前ですが)、その想いは千里以外のヒロインルートに進んだ場合破れることになります。千里以外のヒロインに進んだ場合、彼女は事実上フラれるわけですね。この作品はそこで強制オート進行がはじまります。フラれた千里が「私はフラれちゃった悲しい」みたいなことを強制オートで延々と垂れ流すわけです。
で、この演出に対して肯定的な意見というのはあまり見かけませんでした。当時作品スレや月別スレに入り浸ってましたが、そちらでは殆ど見かけず、むしろ「ウザイ」「いらね」といった否定的な意見が非常に多かった。てゆうか普通に千里自体がウザイという意見がかなり多かったのですが(2chの意見はあくまで一意見ですが)。基本的には、「フラれた千里かわいそうー」となるよりも、むしろ、演出とテキストとそれまでの描写で、言葉悪いですが「フラれた私は可哀想なのよアピール」みたいに見えてしまうことが不味かったんじゃないかなーと。
そんなわけで、感動や深みを与えるという意味では、この演出はあまり機能していなかったと思うのです。その一番の理由は(上に挙げた以外に)、なんといっても「全てのルートでこれをやる」というところが致命的だったでしょう。千里以外のヒロインルート、つまり他の4人のルートでも、毎回千里は勝手にフラれて勝手に強制オート演出をします。もちろん内容は毎回同じようなこと(私はフラれた)です。つまり、毎回同じ様なものを見なくちゃならなくなる。しかもクリック連打で読み飛ばせない強制オート進行。なにより致命的だったのはこの部分で、毎回同じようなものを強制的に見せられれば、よっぽどの千里好きでもない限りウゼえと思いますよね。しかもその内容自体も、そこまで優れたものでもない*2。つまりそれは、演出としては決して成功しているとは言いがたかったワケです。
しかし、だからこそこの強制オート進行は、演出とは違う次元で意味を持つ。演出として事実上失効しているからこそ、残ったのはこの千里さんの執念、千里さんの自意識の大きさです。要するに、この演出が(逆説的に)示したものは、千里さんの無双っぷりなんじゃないか?  普段は普通にゲームは進行するのに、千里がフラれたところだけは強制オートで進行する。これはつまり千里さんは、ゲームの進行制御というメタ部分まで侵してしまっているということです。千里の執念メタまで届く。この人は物語の外にまで手が届いてしまっている。千里に関しては、それだけの想いをこれだけの強度で表に現すことが出来ている、ということがこの強制オート演出によって何よりも表現されているわけです。スレで「千里無双」なる言葉を何度か見かけましたが、マジでそう。『恋チョコ』の中で千里さんただ一人、その影響力は物語の中だけじゃなく、物語の外まで及んでいるのです。


『ef』の強制オート進行は……すっげーネタバレなのであまり細かくは書きませんが、現在の優子と火村の邂逅が全て強制オート進行になっています。テキストも表示されないし、バックログも見れません。しかも、他のゲームの強制オートのように、ほんの僅かの時間(作品全体を通して2〜3分、せいぜい数分)ではなく、かなりの時間(正しくは覚えていませんが、プレイ時間にして少なくとも30分以上はあったかと)が、その強制オート進行に当てられています。
これは純粋にプレイする限りにおいて正直迷惑じみていますし、プレイメモを取ろうとした場合なんかはかなり厄介です。なにせ文字が表示されないし、ログも表示されないのだから、キャラクターの会話=声を聞き逃したら本当にそれまで。確認したければ、もう一度セーブポイントからやり直すしかない。しかも強制オートでどんどん進んでしまいますから、少しの聞き逃しが大きな致命傷となったりします。ちょっと10秒くらいボケーとして話聞いてなかったら、「あれ、今なんの話?」と置いてけぼりになりかねない。それでいてそんな強制オートシーンが作品中で30分以上あるわけです。
だから実際、厄介ではある。しかもここを強調させる・感動させるみたいな演出効果はあまり機能していないわけです(なにせ作品全体の数パーセントがこれで、しかも途中まではプレイヤーにとってある種「分からない」会話でもあるわけですから)。
しかしそこにも意味はある。むしろこの強制オートは絶対に必要だったと思うのです。なぜなら、この邂逅自体が、現実のような夢のような、嘘のような本当のような、そういう存在だからです。物語中の立ち位置として、というより、火村夕にとって、というべきかもしれませんが。だからここでは、強制オート(さらに付け加えると「テキストが存在しない/バックログなし」)という形式を取ることによって、その存在の重さを守らなければならなかった。つまり、自動に流れる進行は時間をコントロールできないという時の重みであり、テキストに残らない会話は物質も記憶も言葉も永遠には残らないというセカイの法則である。だから強制オートでテキストが存在しなくてバックログが無いという形式を取っているのではないかと思うのです。普通の形式なら、普通に存在している。しかしこの邂逅は普通には存在していない。というか、”普通じゃないから存在している”。普通の世界のように、「ここにあって残るもの」としては確実にありえない二人の邂逅だからこそ、「強制的に流されて残らないもの」として作られたんじゃないだろうか。だから強制オート(流されて)で、テキストが表示されず(確かなものとして存在せず)、ログも見れない(後には残らない)。
ここにあるのは、そういった、単に演出としての強制オートではなく、それ以上の意味を持った強制オートだと思うのです。

*1:たとえば、スレにもあった『真・恋姫無双』呉ルートの某シーン……いや個人的には魏ルートのラストの方が印象的なんですけど、あそこは非常に良い感じであるにも関わらず、強制オート演出によって制作者の「さあ泣け!ここで感動しろ!」みたいな意図が伝わってきて(本当にそんな意図があるかどうか分かんないけど、まるでそういう意図があるかのように思えてしまって)逆に萎えてしまったのです。もちろん個人差があって、僕の場合はそうだという話ですけど。

*2:せめて「毎回フラれた千里さんを見るんだけど、最後に千里さんを攻略して彼女のこの繰り返された怨念が報われた」みたいな形で終わらせられれば少しはマシかなと思うのですけど、このゲームは初回攻略が千里で固定されています。プレイヤーにとってはもう既に終わった(=クリア済み)子のグダグダを強制的に見せられるのであって、つまりこのグダグダから未来が伸びていないことを既に知っているので、余計にだるくなります。いやこれが、既にクリア済み=終わった=別れた女の未練に強制的に付き合わされるということをイメージして作られているのであればもはや天才と呼べるレベルなのですけど。