『Fate/hollow ataraxia』について

ボクの『Fate/hollow ataraxia』感想*1奈須きのこが認めてくれた*2ので(ガイキチの発想)、ここにさらっとまとめて書いてみる。

てゆうかその前に、これ、(既にホロウを一度クリア済みの方は)再プレイすればこんなの読むまでもなく全て分かると思うので、是非再プレイして下さい。そして奈須きのこ「再プレイするプレイヤーのために作った仕掛け」に驚愕して欲しい(※注:自分が再プレイの時に気付いたってだけであり、実際そう作られてるかは分かりません――むしろ初回で気づくもの、と奈須さんは思われてたかもしれない)。なので皆さん、ブラウザをそっと閉じて押入れからホロウ取り出して(あるいはエロゲ屋に駆け込んでホロウゲットして)再プレイした方が良いです。むしろして下さいって感じ。これ気づいたときは「奈須きのこ天才じゃん!」って思っちゃったもん。



さて、『Fate/hollow』の感想でよく耳にするのが、「この繰り返しにアンリは飽きて、プレイヤーも飽きた。だからやめる、終わらせる。それは並びに、いつまでも永遠の四日間=ゲームに留まっていないで、バゼットが、アンリがそうであるように、現実に帰れということである」―――とかまあ、なんかそんな感じのこと。結構有名なエロゲ感想レビュアーさんなどもこういったこと書かれていて、ボクも当初はそういった解釈を持っていたのですが、しかし真相も真実も異なっていました。奈須さんがそうじゃないよと仰ってるし、そもそもゲームのテキストにそれと正反対のことが書かれているわけです。

まずは「アンリは飽きてない」ということから。アンリはこの繰り返される四日間に飽きていないのです。「飽きた。つまんねえ」というのは言わば強がり(のポーズ)みたいなものなのです。ヒントは3箇所。彼がそういったことを口にした時、3回だけ、否定される場面があります。

拳を握り締めて叫ぶ。
私は裏切られたことより、その気持ちを知りたかった。
なのに、ソレは、
「飽きた。つまんねえ」
あっさりと。
こんな時まで、見事なまでに自分の気持ちを消したのだ。
       (夜の聖杯戦争6)

まずはバゼットにより、「飽きた。つまんねえ」というその言葉が、アンリ自身の気持ちではないと否定され、

「……ねえ。今でも本当に、この願いを終わらせたい?」
「あったりまえだ。もう何億回繰り返したと思ってやがる。いいかげん、飽き飽きでお先真っ暗だよ」
「嘘つき」
       (夜の聖杯戦争6)

次はカレンにより、その言葉を「嘘つき」と否定され、

楽しみは充分すぎるほど出揃っていた。
新しい出来事は必要ない。
たった一種類の四日間でも、永遠に繰り返すという契約を守っていける。
なのにどうして、オレはしなくてもいい事をし続けたのか。
被った人格の影響だけではあるまい。
多分、飽きたのだ。理由はそれでいい。飽きたから終わらせたくなっただけ。そうとでもしなければ。
何もかも、放り出したくなってしまう。
       (スパイラル・ラダー)

しまいには自分自身で否定していた。「飽きた」というのは本心ではない。そうではなく、「そうとでもしなければ。何もかも、放り出したくなってしまう」=「飽きたから」とでも思わなければ、こんなことはやってられない。こんなことというのは、「終わらせる」ということですね。彼自身が言っているように、たった一種類の四日間でも、それを永遠に繰り返せる。恐らく理論上、いつまでもこの四日間を飽きずに遊び続けられる。しかしそれだと先がないから、続かないから、だから先へと続かせるために、終わらせるために、本当はそう思ってなくても「飽きた」と言い聞かせ、わざわざ終わらせようとしている。
奈須きのこの素晴らしいところは、これ、一回プレイしただけではかなり気づきづらい、しかし二回プレイすればだいぶ気づきやすくなる、という点です。アンリが「実は飽きてない」と分かるテキストが、作品通して(見落としてなければ恐らく)僅か3箇所だけ、こんな風に示唆されているだけなのです。ただでさえ思わせぶりで意味ありげな(てゆうか実際意味がある)テキストだらけの中で、さらっと3回だけ、直接的ではなく迂遠に示唆するように示されている「アンリの嘘の証拠」を見つけ出すのは、初回プレイではかなり難しい。だからボクも最初にプレイしたときは「アンリは繰り返しに飽きて、プレイヤーも飽きて、そして終わらせる」、そんなお話だと思ってました。よっぽど集中して読んでるか、よっぽど頭良い人でもない限り、初回プレイでは気づかないんじゃないだろうか。それはつまり、再プレイする=(再プレイするくらいなのだから)実は飽きてないプレイヤーじゃないと気づけないということではないだろうか。実は飽きていないプレイヤーでないと、アンリが実は飽きていないということに気づけない。まあ奈須さんとしては初回プレイで普通に分かるだろと思われてたかもしれないので意図とは異なってるかもしれませんが、これは素晴らしい仕掛けだと個人的に思います。

世界の終わりを知るということはその世界を殺し、次の世界=新作ゲームへと無慈悲に進むことなんです。それだけの情熱をもってコンプしたゲームは、その瞬間に忘れ去られる。僕が『hollow』でやりたかったのは、それを踏まえた上でひとつの世界に永遠に留まるか、それとも進んでいくのかを選択してもらうことでした。そしてアンリマユが考える正解は後者です。
       (インタビューより http://netokaru.com/?page_id=10852

インタビューでこう仰っておりますが、しかし「その瞬間」に忘れない猿みたいなプレイヤー、つまりこの期に及んで飽きてなくて再プレイしちゃうようなプレイヤーにもそういう選択をさせる―――「それでもゲームやめさせる=次の世界=新作ゲームへ無慈悲に進ませる」ように作られている。むしろそここそが、アンリとプレイヤーが同一的である部分と言えるくらい。本当はこの期に及んで飽きていないアンリと、同じく飽きていないプレイヤー。彼らはどうして・どうやって、この理論上永遠に飽きずに続けられる世界を終わらせられるのか。


それが、「終わる事と続かない事は違う」ということです。

「……そうだな。終わる事と続かない事は違う。
ここにいたら、いつまでも続きがない」
       (天の逆月)

当たり前ですが、終わったら続かないというわけではないのです。むしろ終わらないと続かない。終わらせないと、続きに辿りつけない。だからアンリは、”続かせるために終わらせよう”としている。この四日間を終わらせないと、「その先」というものには辿り着けないから。だからわざわざ飽きたと言い聞かせてまでそんなことをやっている。これを『Fate/hollow』とプレイヤーに話を直裁に置き換えれば、『ホロウ』を終わらせないと、その先の・別の何かには続かないということです。極端な話、終わんない限りず〜っとホロウやってることになる。終わらないと「先の・別の何か」には続かない。別のゲームにしろ、別の物語にしろ、ホロウが終わんないと先の・続きはないわけです。
だから、奈須さんが言ってるように、「書を捨てよ、町へ出よう」的なオチではないわけです。「現実に帰れ」的なメッセージは全く無い。もっと単純に、このゲームが終わらなきゃ、次のゲームがプレイできない、この本の最後まで読まなきゃ、次の本に取り組めない、そういったレベルに近い。別にこの次が現実とか町とか、そういうことは言ってないわけです。ただ単に、ここが終わんなきゃ、次に行けない。『Fate/hollow ataraxia=永遠の四日間』を終わらなければ、「次の何か/次の五日目」には辿り着けない。だから、そこに辿り着くために、続かせるために、終わらせなければいけない。そういうこと。


しかしそれは言葉ほど単純ではなく、アンリがそうであるように飽きてないわけです。この期に及んで再プレイするプレイヤーにおいても、やはり飽きていない。なるほど新鮮味は薄くなるし、既知も増えるんだけど、だからといって飽きるとかつまんねえとかと直結するわけではない。まだ続けてもいいと思ってる。だからこそ、精一杯の思いを込めて、アンリは、我われはこう呟くわけです。「飽きた。つまんねえ」と。
飽きてはいない、つまんなくないとしても、こう呟いて強がって捨てていく。だってそうしないと終わらせられないのだから。だってそうしないと続かないのだから。
―――そして。いつかプレイヤーが飽きても。てゆうか元々とっくに飽きてても。いや結局飽きなかったとしても。このゲームを終わらせ「次」に行く事は認められているし、勧められている。


「ある世界を食いつぶして先に進むことは尻軽な話ではなく、人が生きるということ自体がその繰り返しなんだから胸を張って食いつぶしていけ」http://netokaru.com/?page_id=10852)。


Fate/hollow ataraxia』を遊び尽くして、飽きて、いや飽きなくても食いつぶすくらいにやって、そしてやめて先に進むことは、認められている。いや、それこそが『Fate/hollow ataraxia』で語られてることだと言っても過言ではないくらい。別に町に出なくても現実に帰らなくてもいい、新しいゲームをやろうが何をやろうが構わない、しかし(このゲームを)終わらせないと先は(続きは)ないし、そして終わらせちゃっても全然構わない、むしろゲームというのはそういうものだ、そのように語られている。
食いつぶして、終わらせて、先に進む。ゲームとプレイヤーとの関係はそれでいい。そうつまり、先のインタビューの一文から改変して書くならば。とても素晴らしいゲームに出会って、それを輝かしい星と思えたならば、その終わりがどんなに辛くとも悲しんではいけない。それを糧にして、星の輝きに負けないものをその先に得られるように――たとえそれが不可能だと判っていたとしても――頑張っていかなくちゃいけない。……『Fate/hollow』がプレイヤーに求めるものは、そして与えたものは、そういうものではないだろうか。

*1:http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-1.html 大昔に書いたの。ごちゃつきすぎてるのでここでリファイン。

*2:http://netokaru.com/?page_id=10852 インタビューで語ってる内容がボクの感想に近い! これはボクを褒めてくれてるということだ!(マジキチ)

はるまで、くるる。 プレイメモ2

OPムービーまで。聞くところによると体験版がここまでらしい。さらに聞くところによると3時間でここまで来るそうなのですが、なんかフツーに5時間くらいかかりました……つまりそれだけ濃厚で、たった一文字すら読み飛ばせないような素晴らしいテキストだったということです。ここまで殆どエロシーンだったけどね!
そう、このゲームおかしいです。そういう基本的な構造の時点でまずちょっとおかしい。ゲーム開始直後からエロシーンがはじまって、そこから5時間(一般的には3時間)ほとんどずーっとエロシーン。プレイ時間のうちのだいたい4分の3はエロシーンだと考えて間違えない。えっと、少なくとも10回はエロシーンあったよね? うん、覚えてる限りでも10回はある。多分実際はそこにプラス数回くらいあるかもしれません。あんまりに多かったのでちゃんと覚えているか自信ない。てゆうか最後の方はさすがに飽きるっていうかだらけてきた。
しかし、それでも、飽きたりだらけたりしたのは最後の方、ちょっとだけなのだ。こういうエロシーンこそ完璧なんですよね。セックスというのは、ただの欲望の発散でもなければ、ただの生殖行為でもなく、心を確かめ合うとか愛を確かめ合うとかそういったものに収まりきらず、コミュニケーションではまだ足りず、何かの儀式や通過儀礼と言うだけでは説明不足で、遊びや楽しみのの一言で纏めるのは乱暴だ。つまりセックスというのはそれら全部なんです。―――ということを完膚なきまで謳い上げている。つまりこの作品のエロシーンは完璧なセックスである。
だからこの作品のエロシーンは完璧なんです。「エロゲにエロは必要」とか言っちゃってる人たちはこーいうエロゲこそさっさとプレイするべきです。このゲームこそ、セックス無かったら何にもならない。エロゲにおけるエロ/セックスという意味では、『夏めろ』とかキチガイ級に凄かったんですけど、この作品はそれを上回るレベルです。簡単に言うと、”人間は何故セックスするのか”、その答えがここにある。


で、ここまでのところの評価ですが、超個人的な評価ですが、2003年10月以降に発売されたエロゲの中でこれが最も優れている。時間を巻き戻してオールタイムで言うならばこれが2番目。今の所そんな感じです。100点満点中99点(SF要素が不安なのでマイナス1点/ここでゲームが終わっていれば勿論100点)。マジで素晴らしい。プレイしながら3分に1回「これ天才だよ」と嘆息しています。てゆうかそんな感じでプレイしているので超疲れます。マジ全然気抜けねーのこのゲーム。
プレイ前に聞こえてきた話(体験版の感想)が「ただのハーレム抜きゲーかと思ったら最後にSFとかループになった!」だったのですが、それどころではありません。てゆうか、その「ハーレム抜きゲー」の部分が超すげえのです。C†CにおいてもそうだけどSFとかループとかは比較的どうでもいい。その中身が、人間が凄い。

で、なので、その辺の話をしてみよう。例の如くメモっぽく。


キャッキャうふふワールド

前回は「うわぉハーレムがはじまったよ」というところまで、でしたね。これがある種の儀式的・手続き的所作であるのは明らかでしょう。そもそもセックスというものにはそういう一面がありまして、そしてそういった一面がここで生きている。つまり、”セックスをした後はセックスをした後の関係になる”という話です。これは色んなエロゲに当てはまり、そして何よりエロの薄い萌えゲ/泣きゲ/純愛ゲにこそ、よく言われる事柄ではないでしょうか。たとえば、「むしろ麻枝准はエロに頼りすぎなのだ」。肉体関係を持つ、などで使われる「肉体関係」という言葉はよく出来ているもので、それはひとつの関係の規定なのです。私たちのコミュニケーションは目の前にいる人間が誰かということをまったく気にせず成立する(気にするのは成立した”後の段階”からだ)、という話は以前いたしましたが、つまりはそういうことと同じ様なものでして。何一つ変わっていなくても、ただひとつ、その関係についている前置詞が変わるだけで、人間同士のありかたそのものも変わってしまうわけです。たとえばボクと貴方は見知らぬ他人ですよね。もしかしたらどっかでちょっとした交流持ったことあるとか、twitterでフォローしているとか、そういうくらいの関係性はあるかもしれません。とはいえ現状ではただそれだけですよね。特にコミュニケーション取ろうとか、ちょっとお喋りしてみませんかとかならない限り、ボクと貴方の関係はそれだけのものでしかない。しかし、たとえば明日、ボクと貴方が生き別れの兄弟だったという事実が判明したら、いきなりそれだけで関係は変わっちゃうわけです。喋ったことのない見ず知らずの他人で、そこから一歩も進んでいない。一言も喋っていませんし、何の接触も取っていません。しかしたとえば実は生き別れた兄弟だったんだよというように関係の前置詞が変われば、もうその時点でボクと貴方の「関係」は変わります。お互い何もしていないのに、お互いの関係が変わってしまう。世に言う「関係の本質」という言葉が指すものは実はそこにある。”相手がどういう人間か”というのは関係に関係ない――っていうか、その”次”に置かれるのです。ボクがどういう人間で、貴方がどういう人間かというのがまるっきり関係なく、今だったら「ブログ書いてる人とそれ読んでる人」っていう関係性が構築されてしまっているように、その人がどういう人かみたいなのは常に後に置かれている。関係というのはその前の部分、前置詞になっている部分、象徴的な位置の部分でまず決まっているわけです。その後に、相性が良いとか好きだ嫌いだというのが出てくる。エロゲにおける(別にエロゲに限らないけど)セックスというのは、その前置詞の部分、規定となっている、象徴的な部分を塗り替えるわけで、だからこそむしろ萌えゲや純愛ゲや泣きゲでこそ重要になっているわけです。たとえばだーまえ先生のような、どう書いても単なる恋愛になってくれないような作者の作品においては、いかにセックスが重要であるかと。たとえば『CLANNAD』の(セックスの存在が示唆されていない)智代とか風子とかのお話を見ていただければ―――いや智代の方は何だかんだいってゴリ押しでなんとかしている(「CLANNADはキスを押してくる!」と当時げいむ乱舞界の人が書いていたけど、あれはセックスを奪われただーまえによる強引な象徴秩序の塗り替えですよね)と言えなくもないので、特に風子の方ですよね。その辺をまがりなりにもセックスがあるKanonやAIRと比べていただければいかに、いかにエロゲにおいてセックスというものが「意味を持っているか」お分かりになるでしょう。
それは勿論、エロゲにおいて”そういった意味合い”だけでなく、物語世界内の彼女たちにとっても、てゆうか現実の僕たちにとっても同じです。ある行為が、私と誰かの関係を規定し、構築し、つまりある行為をする/しないそれだけで、関係というものは変わってくる。ここにおけるハーレムってマジで深刻なほどそうでして、素晴らしいですよ、「現金なものだ」と言ってもいい。なにせ乱交”しただけで”――正しくは、”心から、本気で”乱交しただけで、あんなふうになるのだから。勿論、それは狙って行なわれたものです。
静夏「ええっ。ただみんなでもっと仲良くなりましょう、という取り決めをしただけだわ」
ご本人が仰っておりますが、あの乱交とはつまりそういうものなのです。みんなで仲良くなるために乱交しよう。みんなで仲良くするために乱交しよう!
素晴らしいですよこんなの。裏を返せば、これはめちゃくちゃまともじゃない。だって仲良くするために乱交なんて発想、普通生じないじゃないですか。つまりこれは、普通じゃないんです。追い詰められ、追い込まれ、もうそこしか道がない―――それが最適解に見えてしまったが故の、その選択。静夏、春海と乱交したあと、加わりたい冬音を、一度、 静夏「冬音からは切迫した気持ちが伝わってこないのよね」 と断りますが、それがまさに彼女の裏に隠れているものです。じゃああんたがたはどんだけ切迫していたんだ、ということ。なんとかするため(みんなを「殺し」たりしないため)にはもう乱交しかない、というところまで切迫していたわけです。そして本当に乱交をしてしまう。これはある意味、まさに静夏らしいとも言えます。自分でも言っていた、意気地がないとか臆病とか、あの辺。

静夏「平気よ。あんなのどうってことないわ。当初の予定では10回くらい連続で絶頂に達して、乳首の1つや2つは失う覚悟だったんだから」
一季「覚悟しすぎだろ! 春海がどんなに追い詰められていたとしても、そこまでのことはしねーよ!」
静夏「他人の気持ちなんかわからないわ」
一季「そうかもしんねーけど、乳首をもぎ取るほどじゃないってことくらいわかるよ」
静夏「まあ、春海がどうのこうのじゃなくて、私は……。そのくらいの覚悟をしておかないと、あんな提案はできない、意気地なしだった、というだけのことだわ」
……こういうときに意気地なしって言葉は適切なんだろうか? むしろ意気地ありすぎって感じだが……。

よくある話ですが、思い切ったことをするには思い切った覚悟がないと出来ない、ということです。それは思い切った覚悟ができる程度には意気地があるけど、思い切った覚悟がなきゃできない程度に意気地なしと言えなくもない。たとえば、これがダメだったら死のう、みたいに思えば(思い切れば)、僕ら大抵のことなら何でもできます。ダメだったら死のうと思って好きな子に告白とか、ハズれたら死のうと思ってギャンブルに有り金全部注ぎ込むとか。1か0か。全てをベットする気概を持てれば何でも出来る。でも、もっと強い強度で勇気や意気地を持ち合わせている人は、”そういった覚悟すらいらない”と思うのです。別に何も張らずに好きな子に告白するし、別に生死も賭けずに自分の全てを投げ打つことが出来るのではないだろうか。つまり僕たちは、失敗したときに帰ってくる痛み/失うものを直視しちゃうととても耐えられないから、全てを無くしちゃうような、消し去るような賭け金を前置詞に置かなきゃとてもじゃないけど出来ないんだけど、もっと勇気や意気地の強度が強い人は、そんなものが無くても済む―――つまり、失敗したときに帰ってくる痛みや、失うものを直視できるのではないだろうか。逆に言えば、全てを失うわけでもないのに(そうとは限らないのに)全てを失う覚悟をしなければ出来ないということは、それはそれで意気地がないということである。そんなことされないと分かっているけどそんなことされるかもと考えておかなければ、つまり最悪のリスクを考えておかなければ、目の前にある現実的なリスクに立ち向かえない。最初に厳しいこと言っておいて後でそれをちょっと緩和させるという詐欺師の常套手段(ハンターハンター30巻参照)とある種似たような感じではあるかもしれません。現実はそこまで酷いことになるハズはない、けど、最悪の想像を先にしておけば、現実に挑むときに心は楽でしょう?
そういったことに関してはもっと違う部分で彼女は為しえてるとも言える。

どうしようもなく大好きだわ、一季。
あの男は……。本当の所、私をどんな風に思っているんだろう?
そんなの永遠に考え続けても答えが見つからない気がして、私は軽く、絶望した。

一季に(彼の気持ちに)対して自分は自信を持てない”という確信を抱いてる”、だからこその、ある種次善策としてのハーレムであると、だから私は臆病であると彼女は語っているわけですが……そう、最初からバレバレでしたが、ハーレムは恐らく最善の策ではありません(てゆうかゲーム開始の時点で出てくるのだから、当たり前だけど多分そうだろう、つかむしろそうであって欲しい(最初が一番良くて、以後永遠それに勝てないなんて悲しすぎる))。
だけどそうした。いや、だからそうした。その道しか見えなかったのか、あるいはその道が一番楽に/自然に見えたのか。定かではありませんが、最善ではなくてもこれを選ばざるを得なかった/選んでしまった、なぜならそういった=それだけの意気地なさと臆病さを兼ね備えていたから……もちろんそれが出来るくらいには意気地があって臆病ではなかったのだけれど、彼女が自分で「意気地ない」「臆病」と言っているのだから、彼女の基準・理想においてこれでは意気地ない・臆病なのでしょう。それが、彼女における「切迫」というものです。

秋桜「……ッ! そっ、そんなのおかしいぞ!」
静夏「そうね、おかしいかもしれないわ。だけどキスをすると相手のことを今までよりも好きになれるわ。ここで暮らしていくにはそれはとても大事なことだわ」
春海「春休みが終わるまで、私たちはここで暮らしていくしかないわけだから~。もっともっと仲良くなることはとてもいい事だよ~」

今さら気づきましたがこれめちゃくちゃボク好みですね。だからこんなに自分の中での評価高いのか! 「これしか道がないからこれをする」の「これ」が、意味分からないレベルの突拍子もないことなんだけど、でもそれしかないのだから、実際に「それ」をしてしまい、そして、「それなりには」上手くいっている。
この乱交=ハーレム、理念的には(理想的には……象徴的には……)冬音が説明していたようなことです。

秋桜「ボクが聞きたいのは……。えっと、その。静夏が言っているのは(編注:乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドのこと)、みんながみんなの特別になろうということだよね?」
冬音「はい。それで間違えないと思います」
秋桜「そんなことってできるのか? だってみんなが特別ってことは、誰も特別じゃないってことと同じじゃないか?」
(中略)
冬音「そんな家族がこの世にどれだけあるのか知りませんが、互いを特別に想う仲良し家族を想像するのはそう難しいことではありませんよね? 静夏さんの理想はそれなんだと思います」
秋桜「……家族か。でも、結婚している関係を除けば、家族同士でエッチなことはしないだろ?」
冬音「はい、そうです。エッチなことをするのは家族の中で血のつながらない2人ですね」
秋桜「……あっ」
冬音「そういうことなんだと思います。血がつながらないから、互いを特別だと確認しあうために、体を使うんじゃありませんか?」

仮想家族化を促すような、象徴的契約です。つまり、関係が変わるということ。それは、家族のようになるということ。但し書きとして、「エッチする」家族、ということになりますね。てゆうか、”エッチしてるから”家族、といった方が正しい。エッチで繋がる間柄、じゃないです、エッチがあったから繋がる間柄です。


しかしこれ、こういう前提を整理して振り返れば当たり前ですが、結構な歪さを孕んでますよね。てゆうか後半の方は、ヤバくね? もうちょっと続いたら誰か何かどっかぶっ壊れるんじゃね? とビクビクしながらプレイしていました。当たり前ですが無理が生じてくるわけです。たとえば、最も顕著なのが、「心が開かれれば開かれるほど心が開かれない」ということ。彼・彼女たちの言動には、ある意味本音じゃないというか、その本音は”(乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドという)儀式的結びつきにより為された”という注釈がどうしても必要となるような感じなのです。たとえば春海の……この時点じゃ作中でネタ明かしされていないのでよく分かりませんが、ナイフとか、殺したくなっちゃう性(?)とか、なんかそういう、俗に黒いとかそう言われるような性質ですね、そういったものは言えなくなる。いやむしろ、他のありとあらゆることを言っているからこそ、”そういったものだけが言えなくなる”。みんなで乱交して、みんなでキスして、みんなでエッチして。セックスすることを「ひとつになる」と言いますが、その意味ではまさにみんなでひとつになっているわけですが、それ故に、「ひとつになれないところ」がより際立つのです。これは面白いっていうか、こういうの大好きです(てゆうかこのゲーム本当ボクの趣味に適い過ぎてるな)。「近づけば近づくほど遠ざかる」みたいな、一昔前のJPOPの歌詞で超ありそうな言葉ですけど、そういうのが実践されている。後半になっても、”いまだに”、「実は~~」みたいな「打ち明けること」が彼女達にはまだまだあるように、ひとつになればひとつになるほど、まだひとつになっていないところが浮き上がってくるのです。そう、言い換えるならば、人に近づけば近づくほど他者性が見えてくる、そんな感じで。そんな感じなのです。そもそも他者性というのはその原理上近づけば近づくほど「在る」ものなのですから(たとえば、「よく知っている人がふと見せる自分が知らない一面」、他者性というのはそういうモノである)。ひとつになったはずなのにひとつになれない、ひとつになればなるほどひとつになれない、そういったある種の疎外のようなものが、この乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドには孕まれていて、それが徐々に花開いていて、だからこそすげー不穏で、それが最高なのです*1
あとこういう言い方はアレですけど、人間常識上見地からの関係性における違和感、みたいな、いやこうやって言葉にするとホント頭悪い感丸見えなんですけど、しかしそういうなんとも言えない違和感が存在する。先の話の裏表かもといえばそうかもしれませんが、たとえば彼女たちは何でも話している。性癖とか、本来隠しているもの―――つまり本音を話している。なのに(”ゆえに”)無理している感とか本音じゃない感が拭えないわけです。だって人間は(彼女たちは)普通そういうの隠すのだから、話すということそのものが無理があるんじゃないか。たとえば人間の、会話のプロトコル上の問題として。あるいは、言葉として、会話として、発音として、コミュニケーションとして、口に出来る言語になっている時点で、もうそれは本音とは言えないんじゃないだろうか。「強度」というのは分割不可能性を指す言葉なんですけど、そういう意味でその言葉には強度が「足りない」。本音というものを言葉にしてしまった時点で、もうそれは純粋な本音じゃない、削ぎ落とされ分割されたものなんじゃないだろうか。―――えーとつまり、そういった、本音で話す故に本音ではない、みたいなある種の疎外が感じられるのです。ここに不穏が、あるいは、乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールドの愛すべき限界がある。
たとえば、「このゲームがここで終わりじゃない理由をあげろ」と言われたら、ボクはそのくらいしか思いつきません。ぶっちゃけここまでで完璧でしたからね。しかし彼らにとっては、まだ完璧ではない。

……ああいうことがあって、みんなは互いを特別だって想い合える、優しい関係になったみたいだけど……。
……俺だけ微妙に蚊帳の外のような気が。

で、もうひとつ、それが儀式的だった故に参入できない、というのが主人公くんです。俺だけ蚊帳の外、加われてない感、といったことは作中で何度も何度も言及されていましたが、それはひとえに、彼がキャッキャうふふワールドの住人ではなかったから。何故なら、キャッキャうふふワールドの原理を身につけていなかったから。しかしそれらも学習して、ようやく彼は”本当に”参入できることになる。春休み最後の日(最後の前の日?)に。なぜみんなが一季のやりたいことだけを聞かなかったのか、そして何故この時になってようやく聞いたか(思い出したか)の理由は、つまりそういうことでしょう。その時まで、キャッキャうふふワールドにいなかった。そしてその時になって、はじめて、一季はキャッキャうふふワールドに、加わった。

トキメキやさしさ塾:補講

優しさのお話。このゲームがここでエンディングだったら、ボクは、「この作品は優しさの御話だ」って書いてしまったかもしれません。
最初の、教室で最初の乱交=ハーレムをしたあと、家に帰って静夏と行なったエッチシーン。

一季「……優しいって難しいな」
静夏「一季はバカだわ」
あっさりと断言された。
一季「なんでだよ」
いや、まあ……間違いなくバカではあるんだろうけどさ。せめて今、そう思った理由を教えて欲しい。
静夏「優しい気持ちですれば……。私に優しさが伝わりさえすれば、激しくてもゆっくりでも、優しいことに変わりはないわ」
静夏に教えられてばかりだな。
春海にも言ってたな。気持ちを伝えるために、こういうことをするんだって。
だったら、俺も……そうしないといけないんだった。
優しい行動じゃなくて、優しい気持ちで、しないといけないんだった。
でも……。
優しいってなんだ?
静夏「うふふ、顔を見ればわかるわ。今度は一季が余計なこと考えてるわね。優しいなんて簡単なことだわ」
一季「……簡単?」
静夏「そうよ、優しいっていうのは……。あまり教えすぎない方がいいかしら」
一季「はあっ?」
静夏「あんまり教えると、自分で学ぼうという気がなくなってしまうもの」
一季「おまえは学校の先生かよ。どうせ、俺は人の気持ちを考えるのが苦手だよ」
静夏「すねないで……。一季にも優しさはあるわよ? ないなんて思っていないわ。少し理解できていないだけよ。だから私の体で、みんなの体で少しずつ理解していけばいいわ」
一季「体で?」
静夏「そうよ。だってセックスって、残酷で、気持ちよくて、切なくて、……だけど、とっても優しい行為だわ。だから、一季もいつかちゃんと理解できるわよ」

のちに、 「俺ってそんな恥ずかしい名前の塾に入ってたの?!」 と一季は驚く(てゆうかツッコむ)のですが、今見返すとこの時点で既に入ってたんですよね。この、優しさを教える感じとか、(私たちの体で)理解していけばいいとか、おまえは先生か、とか。そうですトキやさ塾の先生だったのです、だから先生みたいなこと言ってたのです。


「だってセックスって、残酷で、気持ちよくて、切なくて、……だけど、とっても優しい行為だわ。」

このゲームにおけるセックスって本当にこの言葉が当てはまるんですよね。何よりも強く取り返しの付かないザ・リアルの残酷さと、何よりも強く楽しく嬉しい快楽と、体を重ねれば重ねるほど、心をひとつにすればひとつにするほど、より「遠ざかっていく/ひとつじゃなくなっていく」切なさと、そして、優しさ。だからこんな、作品の殆どがエロでしかない体験版部分ですら、こんなにも素晴らしいのです。このゲームのセックスは、本当に、そうなのだから。


さて、「優しさ」。先に結論から言えば、それは静夏が最後に言っている……最後の最後に、一季が一人で自ら手に入れた後に、教えている。
「だって優しさって人のためにすることだわ。だから、もう一季は優しさが何か理解したということだわ。……おめでとう。トキメキやさしさ塾、卒業だわ」
「優しさって人のためにすること」。もうちょい細かく言うと、たとえば、「人の気持ちが分かる」とか、「相手のことを自分のことのように考える」といった言葉がありますよね。それは優しさとイコールではありませんが――場合によっては全然違った考えですが――基本的には結構似ている。これは自分がその相手だったら、とか、自分を相手に置き換えて、とか、そういうのとは全然異なります。単純に言えば、完全に自分と相手を同じ位置にする。同じ価値にする。つまり、「ひとつになる」ということです。

どうしてこんなに胸が苦しいんだろう?
……苦しむ必要なんかないはずなのに。
犯されて感じているのか? とか軽口を叩いてやってっもいいはずなのに……。
そんなこと絶対に言えそうもない。
犯すのも、壊すのも、平気なはずなのに。
しかも、こんなのは、春海のときと一緒で、ごっこ遊びみたいなものだ。
心を……。
軋ませる必要なんか……。
静夏「くっ、あっ……ンンッ! ひっ、あああっ!」
春海の時と一緒なんかじゃない!
静夏「やっ! んぅぅぅっ! っく、あっ、ンンッ!」
だって、静夏は本当に痛がってる。痛みに必死で耐えている。
痛いのは本当だ!
静夏が痛いのに、それなのに興奮しちゃうなんて……。
そんなので、自分がどういう人間か確認するなんて!
認めない!
壊れてることは認めるけど……。
だけど、こんな自分、認めない!
おかしいだろ、そんなの!
こんな自分は見たくない!
こんな自分は認めたくない!
静夏は……痛いんだ!
静夏の気持ちが……痛いんだ!
そんなの俺が耐えられない!
体がいくら痛くても平気だけど!
心が痛いのは……やだ。
静夏が痛いのは、やだ。

このあと一季は泣いて、そして静夏に「優しさ」を手に入れたと認められるわけですが、ここで一番大事なのはこの最後の一文だと思うのです。「心が痛いのは……やだ。静夏が痛いのは、やだ」。つまりですね、「心が痛い(のはやだ)」というのと、「静夏が痛い(のはやだ)」というのが、ここでは、ここにおいては、この時をもってして、完全に繋がっている。この二つが同列に並んでいる。等価値になっている。つまり、ひとつになっている。
だから、この過程を経たから、ようやく、一季はちゃんとした意味で「乱交=ハーレム=キャッキャうふふワールド」に加わることが出来た(=遂に要望を聞いてもらえた)のです。俺だけのけ者、という疎外感は恐らくもうないのではないだろうか。ここにおいて本当の意味でひとつになれたのだ。それが優しさ。たとえば、最初のエッチのときのやりとりでは、

静夏「……優しいって一季から遠い言葉ね」
一季「そんなことないだろ」
静夏「あるわ。春海が私をいじめたとき、冬音がとめてたじゃない。あの時、一季も一緒にとめてくれるかと想ったわ」
一季「とめた方が逆に静夏が可哀想だと思ったんだって。静夏の心を汲み取って続けたんだよ」
静夏「うん、それはわかるわ。だけど私のこと可哀想だと思ったなら、とめるはずだわ」
一季「いや、だから、静夏のことを考えてとめなかったんだって」
静夏「さっきも言ったけど、それはわかるわ。ただ一季ってそういう冷たい性格の人、というだけのことよ」
一季「冷たい性格だとは思わないけどな」
本当の事をいうと、そう思うけど……。
静夏「どうかしら? 理性の部分でとめない方がいいとわかっていても感情でとめちゃうものじゃないかしら? 理性が勝つのは冷たい人だわ」

こんなことを言っていました。これが最後の「レイプの痛みを・可哀想さを理性を通り越した部分で受け入れてその行為をやめる」一季の姿と対比的だというのは言わずもがなでしょう。てゆうかこの頃の一季なら静夏が痛がっても普通に犯し続けていたかもしれません(……しれませんっていうか、十中八九そうしたでしょう)。静夏が望んだことなのだから、ここで止めない方がいいんじゃないか、と。しかしやめた。それはやめた。今度はやめた。理性に対して感情が勝った。熱く考えないと凄く冷酷な判断を下してしまう人間が、今回はこの前みたいに「熱く考えろ!」と自分に言い聞かす自己暗示”無しでも”熱く考えて、そしてやめた。―――それこそが一季が、このトキやさ塾……つまりみんなとのセックス、みんなと繰り返した残酷で、気持ちよくて、切なくて、そして優しい行為の中で手に入れたもの。それが、「優しさ」。


最初のエッチ時のラスト

静夏「そっ。だったらいいわ。ほらタオルで拭いてあげるわ。終わったら私を拭いてね」
にっこり笑って静夏は言った。
そして、俺の頭を、優しく、撫でた。
これじゃ、いったいどっちが癒しに来たんだかわかんないな。
静夏「んっ。一季の撫で方ってくすぐったいわ」
次はもっともっと優しくしよう。静夏の頭を撫で返しながら、俺はそんなことを考えていた。


最後のエッチ時のラスト

一季「無理させて悪かったな」
静夏「それは私の台詞だわ。それに……一季に無理させられるのは嫌いじゃないもの」
一季「俺もだよ」
そう言って頭を撫でると、
静夏「一季は優しいわね」
そういって静夏はくすぐったそうに微笑んだ。


優しく撫でられたからそれを真似するかのように撫で返した(けど「くすぐったい」とは言われても、決して「優しい」とは言われなかった)入塾当初から、頭を撫でたその行動から/撫で方から/手の平から、優しさが確かに伝わった卒業時。
つまりは、そういうこと。



正直もうここでエンディング終了でも全然いいくらいなんですけど(いや実際、現時点で普通のエロゲ感想の倍、かなり良かった作品なので気合入れて書いたエロゲ感想と同じくらい書いてる) 、しかしまだまだ続く。ここからどうなるか、不安もすげーですけど、楽しみもすげーです。しかしプレイ時間の倍くらい感想書いてる時間の方が長いw 最終的に感想全部まとめると10万文字オーバーの大台もありえそうで、いやもうどうしろとって感じです(しかし書かないと気が狂ってしまうほど、このゲームは素晴らしいのだ)

*1:猫撫の式子さんシナリオが最高なのと同じような理由です。だからにゃんこ撫で好きな人はこれも好むんじゃないかなーとか勝手に思う。

はるまで、くるる。 プレイメモ1

久しぶりにとんでもない作品に出会ってしまったようです。『はるまで、くるる。』。いやですねプレイはじめてまだ一時間たったかどうかくらいなんですけど(メモ取ったり画面キャプしまくったりしているので正確なプレイ時間がよく分からない)、これまでのところ超絶傑作というか、この調子で期待にこたえてくれればマイ歴代エロゲランキング第1位に輝いてもおかしくないくらいのポテンシャルを発揮しちゃっています。いやここからどれだけ期待に応えてくれなくても、少なくとも90点クラスは固いんじゃないかなという気がする(テキストがもの凄く上手いしシャレにならないほどボク好み)。
いやーもう日本語を書く自信がなくなったので(今ちゃんと日本語が表示されてるでしょうか?まったく自信ありません)ブログ更新していなかった自分が思わずブログ書いてしまう――書かずにいられなくなるくらい大傑作です。
んで。ボクは画面キャプやプレイメモを取るタイプの人間なのですが、全部プレイし終わった後に感想を書こうとなると、キャプとメモの量が膨大になりすぎて感想書く気がなくなるっぽいの明白なので――プレイ開始1時間で既に並のタイトルの半分くらいの量キャプってメモってる――個人的なメモとかそーいうのを。

なので以下ネタバレ(開始1時間くらい)。




いやー、いきなり「実在する何か」の引用ではじまるエロゲって良いですよね。直接的な関係が結ばれていない何かの引用というのは非常に難易度が高いです。感性・センス、知識・教養、そういったものがこれ以上なく試されて、そして何より、後に続く内容がその引用そのものに試されてしまう。簡単に言えば、引用した何かに比べて明らかに見劣る内容しか提示できなければ、単純に格好悪いわけです。引用したものは引用した分の力を借りるのだけど、その代わり、引用した分の責任を負う。だから最初に引用やって、それでいて上手く文章書ける人はすげーなといつもいつも思うわけです。
で、『はるまで、くるる。』の引用文ですが。まあ開始1時間の時点ではぶっちゃけセックスしかしてないので、その引用文がどうなのかとか全然分かりませんw
しかしまだセックスしかしてないのに、どう見ても傑作なんスよこれ。


春海「そういう考えはダメ。自習時間を決めることで、規律ある生活習慣を作るんだから。それには勉強大切。春を制するものは受験を制すだよ」
一季「それを言うなら春じゃなくて夏じゃなかったか?」
春海「別に夏だけじゃなくて、春だって制していいと思わない?」

ゲームはじめて2クリック目くらいの会話。この時点でもうボクの中でこのゲームは85点以上は固いと思いましたね! こういう何か気の利いた返しみたいなやり取りが大好きなのです。このゲームのテキストはマジレベル高いですね。天才とか呼べるレベル。
この作品の主人公の名前は「一季」です。で、4人いるヒロインがそれぞれ「春海、静夏、秋桜、冬音」。四季それぞれのヒロインと一個だけの季節の主人公とか、名前があまりにも出来すぎなのでこいつら実は人間じゃないとかこれは仮想世界だとかいうオチが待ってても不思議じゃないレベルですが、それはさておき。春海が、「夏だけじゃなくて、春だって制していいと思わない?」と述べるところが素晴らしいですね。「制する」をヒロイン攻略とか男女関係の隠喩とか、そういう風に捉えれば、「静夏だけじゃなくて私も制しちゃってもいいんじゃない?」と彼女は仰ってるわけです。じゃあ秋は冬は? となると、それはまた2クリック後くらいに別のヒロインが登場してこう話を続けるわけです。

冬音「全季節、全時間、時を選ばず制してやればいいんです。そうやって受験の野郎を絶え間なく、ひいひい言わせてやれば、受験なんで言わば私たちの奴隷。いわゆる肉受験ですよ」

秋も冬も全部制してしまえ、そして(元々受験勉強の話ですから)、受験を奴隷にしてしまえ。夏を制するものが受験を制するなら、春夏秋冬全部制したら受験を制するどころか奴隷化くらいできるんちゃうか? という戯れ的考えがここに働いている。―――ここでいう「受験」もまた

一季「で、受験を奴隷化するとどうなるんだ」
冬音「そうですね。……毎日受験できるとか?」
一季「それって地獄の一種だと思うぞ?」

ここでいう「受験」もまた、何かの隠喩のような気もしますが(特に本作はなんかループものとかソッチ方面らしいので、こういう台詞言われると余計に)、今のところセックスしかしてないのでよく分かりません。
とにかくもう、開始僅か数クリックでこんなやり取りされちゃって、なのでボクは速攻でこのゲームにめろめろの奴隷化、いわゆる肉プレイヤーになってしまったのです。



このゲームは春夏秋冬の4人のヒロインとたった一つの季節な主人公がゲーム開始時点で既にみんなと肉体関係を持っていて尚且つそれが周りに露見していて、そんななか静夏っていうヒロインが教室でいきなり「乱交をします」と宣言するところからはじまります。……なんかこれもう、意味わかんないんですけど、いやプレイすれば意味分かるんですけど、てゆうかもうそーいう意味分かるとか分かんないとか通り越して超魅力的っすよ!
で、よく分かりませんが(まだセックスしかしてないので)、主人公と彼女たちは異世界に飛ばされたのかあるいは他の人が異世界に飛ばされたのかもしくは夢の中とか精神世界とか仮想現実とかなのか、―――まあいずれにせよ、よく分かんないすけど、彼女たち以外は誰もいないという状況に何らかのきっかけや理由でなってしまって、……「春休みから1ヵ月半が過ぎた今」っていうテキストがあったから、多分春休みあたりから何スかね、そんなこんなで特異な状況に陥った彼女たちは苦しんだり悲しんだりした? それを助けるためというのも含めて一季はみんなと肉体関係を持った? ( あの時、俺はみんなの不安そうな横顔を見て。どうしても安心させてあげたくて……。勇気付けたくて……。 / 必死で手を握ってしまったのだ。 )  よく分かんないですけどテキスト読む限りそんな感じっぽいですね。
この一季という主人公も、自称「ちょっと他人と頭の作りが違う」と述べてるように、非常に(この先が)楽しみなキャラクターです。ここまでの感じ、敢えて「どのゲームに似てるか」と問えば、CROSS†CHANNELと恋愛0キロメートルを足して2で割ったんだけどその計算は凡人じゃなくて天才が行なったんですよ、だから単純に2で割ったという計算式が素直に成り立つとは思わない方が良い、という感じなのですが、それはテキストの色艶・感触・面白さ、ヒロインキャラクターの(なんとなくの)感じ、のみならず、主人公のキャラクターにも言えるでしょう。「熱いくらいでちょうどいい」の件とか、いい具合に壊れていて素晴らしく好みです。

こういう時、熱く考えないと、俺は異様に冷たい結論を下してしまうのだ。そのくらいのこと、自分でも理解している。
だから、心の中で叫んで、脳を焼く。
うおおおおおおおおっ!
熱いくらいで丁度いいのだ。
うわああぁぁぁぁぁっ!
熱く考えろ。熱く考えろッ!
ぐちぐち自分に都合のいいことばかり考えてるんじゃねーよ! こうなっちゃう前に! 静夏に言われる前に! 俺がどうにかするべきことだったんじゃねぇのか?!
疑問系で考えるな! ごまかすな!
俺がどうにかすべきことだったんだ! 絶対に! (以下略)

「熱く考えないと冷たい判断を下す」というから――ということを分かってるから、自分で自分をムリヤリ熱くしてムリヤリ熱く考えることによってムリヤリ冷たくない判断を導き出そうとしているのです。なんだこいつ。素晴らしいよ! 書いてませんが、この引用文の前のモノローグは、ちょうど「冷静に考えて冷たい結論を導きそうな」思考でした。冷静に状況や因果や責任などを考えて……考えながらも、文の末尾に思考のどもり(つまり…だから…そうじゃなく)を入れて、必死にそれに抗っているような姿勢。
そうつまり、(少なくともこの時においては)デフォルトじゃそっちなのです。冷静故に冷たい。しかしそういう結論を”出したくない”と思った、あるいは決意した。なぜそう至ったのかは分かりませんし、だからこそ彼がもてるのかもしれませんが、とにかく。冷静で冷たい結論だと確実に静夏を(さらには他の子を)傷つけることになるから、彼はムリヤリ、その時点での自分の思考とその流れに抗って、自分を熱くして熱く考えるようにしたのです。思考や考えに、感情や想いで抗っている。「感情を理性で抑える」という言葉をよく聞くように、どちらかというと普通はそっちなのですが、彼はその正逆を進んでいる。まあこれはこの時だけで、逆パターンを出てくるのかも……いや、このように、「自分をコントロールするために自分に抗う」姿を今この時点で出しているように、きっと出てくるのかと思われますが、しかしプレイ開始速攻でこんなに魅力を表してくれていて、肉プレイヤーのボクはさらにベタボレになっちゃいました。主人公は(詳しくは後に明かされるのだろうけど、とりあえず彼の言を全面的に信用するとして)大なり小なり「頭がおかしい」。しかし頭がおかしい人間でも、このように、自分で自分をコントロール(=自分で自分に抗う)ことは出来るわけです。



乱交をしよう。
さてまたしてもボクは瞬殺的勢いでこの天才的ゲームに魅了されてしまったわけです。「乱交をする」と静夏は言った。それは何故か。というと、彼女が語るとおり「嫉妬」から来るものです。

静夏「今の状況って本当の意味で、みんなの一季、じゃないわ。隠す、という意思が伝わるだけで、もうダメ。幾ら知っていても隠されてると思うだけで、嫉妬するわ」
静夏「つまり、もっともっと、もっと! 情報を共有しあうべきだわ」
冬音「あの~。共有するとどうなるんですか?」
静夏は冬音をキッと睨みつけて力強く言う。
静夏「……キャッキャうふふワールドに行けるわ!」
冬音「あ、あの……そこは具体的にどういう世界なんですか?」
静夏「嫉妬が今より少ない世界。私が冬音とキスする世界」
冬音「しっ、静夏さんとキスですか?」
静夏「一季とだけじゃなくて、女の子同士でもそういうコミュニケーションをするべきだわ」

(ちょっとだけ中略)

静夏「嫉妬なんか無視できちゃうほど、私たちは仲良くなるべきだわ。それには心も重要だけど、体だって大切だと思うわ。……このままだったら、私たちは大きなミスを犯すかもしれない」
一季「大きなミスってなんだよ」
静夏「例え話でも言いたくないわ」
冗談でも言いたくないこと。
つまり、それは……。
殺人。
ということなのだろうか?
……俺に限定すると、去勢、の可能性が高いのだろうけど。マジおっかない。
冗談でも言いたくないなんて言っておきながら、今朝、冬音を殺すって冗談を言ってたよなぁ。
静夏「だから、乱交を、するわ!」
一季「その結論はおかしいって! だいたい俺達の間で、変なことなんか起こるわけないだろうが!」
静夏「……」

なにこの長い引用疲れた。しょーじきこのゲーム全文章引用したいくらいですよ。読めばわかるだろ、みたいな。しっかり書いてあるのでしっかり読めば誰にでも分かるはずです。僕でも分かるのだから。そういう細かいところまで気が利くレベルの高さもまた素晴らしいのです。
で、要約すると、まず引用してない部分ですが、まるでベタなハーレムもののように、一季は「みんなのもの」ということでヒロイン4人の間での話は纏まりました。が、その「話の纏まり」では静夏さんの嫉妬は看過できないレベルにあったのです。「自分の知らない一季」というもの(たとえば他の子と会ってるときの一季)が存在する、ということ。それは既に「みんなの」ではない。そこに嫉妬してしまう。後に明かされますが、そういった嫉妬心は他の子も大なり小なり抱えていました。
そういった心を、乱交で解きほぐしていくのです。全ての共有。一季だけじゃなくて、彼女たち同士も。よくセックスを「一つになる」と称しますが、まさにそれが”彼女たちの間でも”行なわれているかのように、感情が、想いが、気持ちが、交換され共有されていくのです。これはもう圧巻ですね。マジ天才。みんなプレイしてやべーよこのゲームやべーよと震えるがいい。特に圧巻は「春海のエッチシーンでわざわざ画面に四分の一くらい使ってでかでかと(画面外にある)静夏の顔をカットインして入れている」ところです。ここで最も重要なのは女の子の裸でもインアウトインアウトする結合点でもおっぱいでもなく、”静夏がどんな表情をしているか”というところです。ということを(当たり前ではあるけど)作り手は一億も承知であって、だからこそこんな他ではお目にかかれない謎構図を実装している。これはマジ圧巻ですね。そもそもメインとなっているエロCGにおいては静夏の顔が映っていないのに右横にあるカットインにだけ静夏の顔が映っているというのも素晴らしいです。まるでそこから切り離されているかのようでいて、同時に深く結び付いている――春海とのセックスからは切り離されていながら、春海とのセックスと同時に・同じ価値で並び立つことが叶っているわけです。しかもカットインという存在しない謎のカメラ(物語世界外のカメラ)故に窃視的な、曖昧さと緊張感とある種の信頼できなさがそこに孕まれたままである。もう何スかこれ。天才と呼ばずになんと呼べばいいんですか! あーもうマジすっげー、素晴らしく細かいところまで手が届いて完璧に作られてるゲームだ(ここまでのところ、だけど)。みんなもやろーぜぃ。


そしてもう一つ。上の引用の下部分。殺人。「だいたい俺達の間で、変なことなんか起こるわけないだろうが」。―――いや恐らくこれは逆なんじゃないだろうか。”起こってしまいそうだからこそ”……あるいは”起こしてしまいそうだからこそ”、静夏は何とかそれを回避しようとして乱交を望んだのではないだろうか。「冗談でも言いたくないなんて言っておきながら、今朝、冬音を殺すって冗談を言ってたよなぁ」―――それは本当に冗談なんだろうか。もちろん本気ではないんだろうけど、たとえば、”口にもしたくないのに口にしてしまったから冗談ということにする”とか、そういう文字通りの「笑えない冗談」だったんじゃないだろうか。
どうにもね。考えれば当たり前かもしれませんが、乱交をすると言い出す、本当にする、その後の(されるがままの)覚悟、そういった行動は、殺人とはベクトルが異なるけど同じくらい行き過ぎている行動なのではないだろうか。つまり、それだけ彼女は(彼女たちは)追い詰められていたんじゃないだろうか。ここで乱交が叶わなければ、いつか嫉妬心に侵されて殺人を犯していた可能性はかなり高いのではないでしょうか。だから朝の「冬音を殺す」という冗談は、冗談でも何でもなく本音も本音、決して本気ではないけれど断じて本音―――つまり、典型的な、抑圧されているところからポロっと零れてしまうもの、そういったものではないでしょうか。嫉妬心が、抑圧され続けて、殺意が、育ち続けて、しかし、そこに目を向けることすら抑圧され続けてきたのだ。故に零れる本気ではない本音、そして導かれた突拍子もない解法、それが乱交。そしてそのとんでもない解法を完璧にこなしてしまったのです、このキャラクターと制作者は。
なのでもう、プレイ開始から約1時間、まだセックスしかしてないけどこのゲームは最高なのです。最高であると、この作り手は信頼できる人だと、そう確信できる。


ちなみに、静夏はなんかしらないけどバールを持ってたりバールを出したりバールネタが好きですけど、「なんで静夏がバールなのか」に、ここまで書いてきたことが繋がってくるのです(たぶん)。つまり作中で言っていたバールの役割、『いやバールは撲殺道具じゃねぇから。基本はくぎ抜きだから』。それがそのまんま(ここでの)静夏に当てはまる。バールといえば「バールのようなもの」で殴り殺すのが定番であるように、撲殺に使われる道具である。つまり殺人。バールが導く先の道としてそれがある。しかしそれが全てではないし、そもそも本来の使い方でもないわけです。基本はくぎ抜き。刺さってるいらないくぎを――必要なものも抜けますけど、基本的には不要な・いらない・無い方が良いくぎを、抜くことができるわけです。バールのもう一つの道として、そういった何か邪魔なもの・いらないもの・無い方が良いものを、排除することができる。
ということで、隠喩解釈学(≒妄想)によると、だから静夏にはバールなのかな、と思った次第であるのでした(まあまだ開始序盤なので、全然外れてるかもしんないですけど)。