最近やったエロゲの感想色々と

超絶久々更新。ブログ書くの…っていうかtwitter含めて文章書くの久々なので多分随分アレな文章になるかもしれませんがその辺はごめんちで。
ネタバレらしいネタバレは多分ないです。あるいは、してもしなくてもどうでもいいようなところだけか、プレイしてなきゃ何のことだかわかんねーよみたいなことしかしてないと思います。多分。



■ なつくもゆるる(2013、すみっこそふと)
すっげー印象だけのこと言うと「キャッキャうふふワールドがない『はるまで、くるる。』」。楽しいんだけど、もっとイチャイチャさせろよ!!もっとラブラブさせろよ!!って思うし、その辺で消化不良感や欲求不満感は結構ありました。てゆうか『はるくる』のキャッキャうふふワールドって本当よく出来てたと思うんだよなぁ。ゲームはじめて初っ端でヒロインのこと好きになれるし、作品テーマみたいなものも8割方語っているし。でも同時にあれがあったおかげで『はるくる』自体ある種純粋な勢いみたいなのが殺がれたというのは否定できないと思うし、ああいうのがなかったからこそ、『なつくも』の方にはそれこそ紫穂のあの爆発するかの如き感情のような、スコップを地面に垂直に突き立ててしまうような、どんなものもストレートに真っ直ぐに最短距離を突き進むような力強さを有していたとも思うのです。何言ってんだか自分でもよく分かりませんが、印象だけのことなのでご勘弁下さい。
とりあえずもう最終的には「紫穂超かわいい」となりました。紫穂超かわいい、紫穂大好き、紫穂ステキ、紫穂といちゃいちゃしたい、紫穂とラブラブしたい、紫穂を笑顔にしたい…わんわんわん!最終的にはそんな感じの気持ちになったんだぞ。そして、そういう気持ちになれた…ゲーム内の女の子にそういうことが思えたという時点で、エロゲとしては素晴らしいし傑作なんだぞ。


■ デュエリスト×エンゲージ(2011、プラリネ)
夏ノ雨』とか『この大空に、翼をひろげて』のシナリオライターさんの作品ですね。前述した2作をやったとき、このライターさんはまったくもって丸戸と同じ理由で僕は好きじゃないなと思ったのですが、今回もまあそんな感じでした。これは悪いと言ってるわけではなくて、個人的に嫌い・受け入れられないというだけなのですが(てゆうか紺野アスタさんも丸戸さんも世間一般の評価は高いのですから、万人に共通する感傷ではなく完全に僕個人の趣味嗜好性向の問題なのですが)、この人(たち)が描くキャラクターはどうにもキャラが自分どおりすぎるのが、どうしても苦手っていうか嫌いっていうか受け付けなくてですね。この人の作るキャラクターには全くと言っていいほど破綻がなくて、そのキャラがしそうなことをするし言いそうなことは言う、逆にしなそうなことはしないで言わなそうなことは言わないのですけど、もうちょっと、それこそ愛想笑いから酷い屈辱まで、人間は自分自身を裏切ることが当たり前のようにあるやんけ!と思ってどうにも好きになれないのです。あとだからこそ、キャラクターたちは自分がしそうもないことはしないし、言わなそうなことは言わない、それは同時に、しそうなことは「する」、言いそうなことは「言う」ということであって、プレイヤーが不快に思うようなこととか、周りの人物に迷惑をかけるようなことでも、そのキャラがしそうなこと・言いそうなこと――あるいはこの場面ならするだろう・言うだろうってことは「する」し「言う」のです。その辺がね、個人的には。嫌いなキャラはどうしようもなく嫌いになっちゃうわけですし。
とそんなことを書いておきながら、ゲームそのものは出来が良いです。序盤はすっげー楽しいなこれ、すっげー楽しいなこれ!って言いながらプレイしていましたし。あと結構PULLTOPのゲームみたいだなとも思ったので、のちにPULLTOPで『ころげて』をお書きになったのもなんか納得できたり。


■ LOVELY×CATION2(2013、hibiki)
またの名を日向ちゃん究極可愛い俺と結婚しようCATION2。ヒロインに好きに名前を呼んでもらえるとか聞いてたので「じゃあ全員に「兄さん」と呼んでもらうか…いや4人もいるなら「お兄ちゃん」とか分けるか?でも「兄さん」こそ至高だし…」と数ヶ月悩んだ末にいざはじめたら自由に決められるんじゃなくて用意されてるのから選ぶって形式でなんだと…と超テンション下がったのですけど、いざはじめたらすっごく、すっごく素晴らしいゲームでした(つか次回作では「兄さん」も標準搭載して欲しい)。
これはかなり特殊なゲームでして、普通のエロゲにおける共通ルートが殆どないし、普通のエロゲみたいなシナリオも殆どと言っていいくらいない。代わりに、恋人同士になっていく二人の日常と、恋人同士の二人の日常を詰め込んだみたいな内容になっております。「日常ゲー」という言い方はある意味正しい、いやかなり正しいのではないかと。イベントなどいらぬ、シナリオなどいらぬ!
そういうゲームなので、とにかく女の子(ヒロイン)のことが好きになるかどうかが大問題っていうか、それが全てです。現実世界だって、好きでもない子となんとなく恋人同士になっちゃったってああ、うん、まぁー…って感じだろうけど超好きな子と恋人同士になればうわーーりゃおーーそっぽいーー!!って感じになるでしょ? だから、一言でいえば、このゲームは登場する「女の子と恋人同士になれる」ゲームなので、それが好きなキャラだったら「好きな女の子と恋人同士になれる」ゲームとなってそれって最高じゃん!となるのです。
だから個人的には日向ちゃん可愛すぎてありゃくぉいfじぇがgshy(言語化不可)って感じで超最高でした。まず日向ちゃん抱き枕を用意します。ない場合は丁度いい塩梅のクッションか何かでもいいです。それを日向ちゃんに見立てて抱きしめたりキスしたり撫でたりイチャイチャしながらプレイします。そうすると最高!!って感じ。そんな感じ。そんな感じなんだよ!!
逆にヒロインのことがそんな好きになれないと、ゲームの感想が見事なほど「別に…」ってなります。個人的には貧乳で背が小っちゃい子大好きなので日向ちゃんはドストライクなのですが、あとは全員胸だけで帰りたまえと言いたくなる巨乳、背だけで斬審完了なほどの高身長なので、本当まったく、面白いくらいにゲームの印象変わる。あくまで個人的な話ですが、日向ちゃん大好きなので日向ちゃんシナリオやった時はこのゲーム最高!!超楽しい!!超大好き!!大傑作!!!って感じだったのですが、次にやった巨乳高身長(名前忘れた)(巨乳で背の高いキャラの名前はロクに覚えていられないマンなので)は巨乳高身長だし別に好きにもならなかったのでふーんまあ別に普通…ってくらいの感想だったし、次にやった巨乳高身長B(名前忘れた)(巨乳で背のry)はちょっとは好きになったキャラだったのでちょっと楽しいなこのゲームってくらいだったし、最後にやった和琴さんは巨乳高身長の割りにかなり好きになった(から名前覚えてる!)はかなり好きになっただけあってかなり楽しいなこのゲームって感想を抱きました。
つまりっすね、キャラへの好き度がそのままゲームの面白さ・楽しさに直結しているのです。こんなゲームは他じゃ滅多に見かけません。いやまあ、徹頭徹尾恋人同士の日常を描くゲームなのですから、その恋人のことがどれだけ好きかというのが二人で過ごす日常がどれだけ楽しいか・どれだけステキかに直結するというのは本当に正しいのですが、それ故に本当に珍しいし本当に冒険しているゲームだなと思いました。ヒロインキャラのことが好きになれれば本当に、掛け値無しに楽しい。普通に恋人同士の日常を描くのだから、(それこそ現実のそれと同様に)大事件とかトラウマ解決してどうこうとかそういったことは当然、ほとんど起きません。そんなことがそうそう起こる恋人同士なんてまずいない。どこかに出かけたり、何か大きなイベントが生じたりなんてことも、これまた現実と同じく殆どない。でもそれでも、ただお互いの家に行ったり学校で一緒にごはん食べたり二人で帰ったりその辺歩いたりお喋りしたりHしたり……なんていう当たり前で何の変哲も無いただの恋人同士の日常が、それが超好きな子相手なら、とても楽しいし、とてもドキドキワクワクするし、とても幸せなのです。そんなゲームでした。
あとゲームシステム上、主人公がしょっちゅう街を散策したり何かあるごとに写真を撮るのですが、その所為でどんな時でも必死こいて時間作ってまで街を散策するし、エンディング間際の感慨深いシーンでも急に写撮り出したりとキチガイじみたことになっててすっげー笑った(てゆうか某シナリオのラストシーンがある意味台無しになってるw)。でも主人公自体はすごくいい男です。細かいところに気がつけるし気を遣えるし、勇気を奮い立たせて自分から行動することも出来るし、女の子に合わせて自分の性格まで多少変えてしまえる(その方がその子が喜ぶから、その子がそういうの求めてるから…それで性格まで変える。なんといじらしいメンズなのだ…)。こういったゲームとかいわゆる萌えゲーとかキャラゲーとかは、本当主人公大事だと思うのですよ。なにせ僕が大好きなあの子と恋人になる男なのですから、それがとんでもないファッキン野郎とかだったらざっけんなーお前なんかにこの子を渡せるか(俺に変われ…俺と変われ…)!てゆうかこんな奴と付き合うとかやってられるか!ってなっちゃいますしね。その点このゲームの主人公はちゃんとしたいいヤツで、そういうところも素晴らしいと思いました。


■ 黄雷のガクトゥーン(2012、Liar-Soft)
シリーズ6作目にして、ついに名探偵コナンでいう黒の組織編のお話。そういう意味では非常に燃えます。そういう意味じゃなくても(たとえば、これがスチームパンクシリーズ初体験でも)非常に燃えると思いますが。毎週、ヒーローが敵を倒していきながらだんだん物語の核心に迫っていくアニメみたいな印象を受けました。てゆうかこれアニメ化したらかなり映えそうなのですが。
どっかで「シリーズ入門編として良い」と聞きましたが、確かにこれが一番良いかもしれません。スチパンシリーズを今からはじめるという方は、インガノック(二作目。物語的にはほぼ完全に独立してるのでここからはじめて問題ない)>シャルノス(三作目。世界設定とかは触り程度理解できれば問題ないのでここからはじめても)>ガクトゥーン(単純に楽しく爽快感あるし、世界設定とかも結構説明される)>セレナリア(一作目。物語はともかくゲームシステムクソめんどい)>ソナーニル(五作目。インガノックと同じく独立してるといえば独立しているので、色々と目を瞑ればここからはじめるのもアリ)>>>>>>ヴァルーシア(四作目のくせに何故か集大成じみてる。ここからはじめると多分死ぬ)
あたりがオススメなんじゃないかなーと思います。要するにヴァルーシア以外はどれが最初でもまあだいたい何とかなるという感じなのですが。
今回はシリーズではじめて、主人公もしくはメインヒロインが貧乳でも背が小っちゃくもない――てゆうか巨乳&高身長という二重苦を背負っていてそれでプレイするのが随分と遅くなったのですが、いざやってみれば凄く楽しかったです。てゆうかサブキャラも含めてほとんど巨乳だな…一番好きなのはアナベルなんだけど、なるほど何でかと思ったら数少ない貧乳だからか!と個人的に今、たった今納得しました!
ゲーム内容に関する感想は無しで。いつもながら、このシリーズはそのテキストそれ自体が意味も価値も持っていて、例えばこれこれこういうゲームでしたと自分の言葉で書いても、それは全く何の説明にもならない、どころか逆効果でしかないのです。なので実際にプレイしてご自身の目で確かめてくださいとかそういうのです。ひとつだけ言うと「例題です」はすごくお気に入り。あれ、他人の問題は「例題です」と出てくるのだけど、ネオンにとっては、あるいはニコラにとっては、もしくは僕たち自身にとっては、いずれにせよ自分のこと=本題は決して「本題です」とは言われないのですね。本題はゲーム内にあったけど、現実の僕たちに降りかかる問題がそうであるように、「本題です」なんて教えてくれるものはどこにもいない。それこそ自動車教習所で見せられる自動車事故のビデオのように、他人が起こした事故、他人のことは「例題です」として語られるけど、自分に生じること、本題は、決して「本題です」なんて告知してくれずいつも予告無しにやってきて、その決断は、解答は、いつも気づいたら終わってる。あとその決断部分におけるネオンも素晴らしかったですね。最初なんやこの子…って思えるくらい、意思とか思考に弱さを見せることが多かったけど(たとえば簡単に感情に流されたり、すぐに頭の中がまっしろになったり)、でも「本題」では、それまでの道を歩んだ彼女の成長が、数多の例題を経験した彼女の意思と思考の強さが、強くなったそれが、彼女が、ネオンが、存分に現れていた。俺がシャルノスさんやったら赤い瞳を眩しそうに歪めるところやで?ってくらいに、素晴らしいものでした。
とにかく、素晴らしかった、良いゲームでした。


■ フツウノファンタジー(2012くらい、EX-ONE)
完全に予想外でした。本当に「普通の」ファンタジーだと思ってて、エンゲージリンクスみたいなもんかと思ってたのですけど、その内容は全く違う。平たく言うとRPGのパロディみたいなゲームです。……えーと、どんなのか説明しようかと思ったけどこれ文章で説明してもお笑いのコントを文章で説明するみたいな感じで全然伝わらないどころかすげーつまんない説明しか出来ないので、ぶっちゃけ中古も安いのでみなさん買うか、もっとぶっちゃけ一番面白い部分は体験版にだいたい全部入ってるので体験版やるかどっちかが良いです。これは完全に予想外、してやられたわ~ってなりました。今年一番笑ったエロゲかもしれない。


■ 桜舞う乙女のロンド(2013、emsemble)
個人的には大大大好きです。今までやった全てのエロゲの中でも上位に入るレベル。とはいえ人にオススメできるかと聞かれたらどうだろう……。基本的には過去作品(花と乙女に祝福を、乙女が紡ぐ恋のキャンバス)の進化系というか変化系というか、それらが触れてないところを徹底的に触ってくみたいなゲームでもありますので、前述した二作品が好きな方なら少なくともそれなり以上には楽しめるんじゃないかなぁと。
このゲームはやっばいくらいにコンセプト先行型です。世間の感想などではご都合主義、ご都合主義の極み、ご都合主義オブザイヤーなどと言われていますが、いやそれは正しいんですけど違うんすよ、このゲームは女装して女子校に通いつつ男子校にも通うという二重生活をして、その中で生じる(例えば女装のまま仲良くなった女の子と男子の格好の時に出会ったりとか女子校でクラスメイトやってる子が男子の格好の自分に一目ぼれしたりとか、といった)様々なことを思いっきり描く、というコンセプトを圧倒的に優先しているゲームなのです。だからそのコンセプト以外はマジやばいくらい無視。なんで女子校に通うのか、なんで女子校に通いつつ男子校にもまだ通うのか、その辺に納得できるような説明はマジやばいくらい一切ない。ひどいレベル。最早ご都合主義など遥かに通り越してご都合主義。でもその分、コンセプトの中は全力投球なのです。書きたいことを、書きたいネタをただひたすら書いてるようなシナリオでして、当然そこでは色々と辻褄を合わせなきゃいけないことが生じうるのですが、そういうの全部無視!!!ご都合主義と言われようが、なんで○○なのどうして××なの全部無視!!!その代わり、他の部分は全力で完全に仕上げてきている。
そういうところが素晴らしいのです。
あるいは、そういうところを素晴らしいと捉えるか、クソと捉えるか。
個人的には女装女学園潜入モノ大好きなので、そこで色々なシチュエーションとネタが存分に披露されるようなゲームはスーパー大好きなので、そういうところに(てゆうか、そういうところだけに)全力投球してくれる(他のところは暴投だけど)この作品は大好きで、自分的には前者でした。しかし後者と思う人が少なくない数いらっしゃるのも全然理解できるし、だからこそ人にオススメしようとは流石に思わない。なにせシナリオによっては何の説明もないまま男子校の方に通わなくなってそのまま、最初からそんなことなかったかのようにずっと男子校の方に通わない(てゆうか話にも出てこない)とかありますからね! すげーよ、その辺の説明とか女装シチュで生じる様々なネタとかヒロインとの恋愛とかに全く関係ないから、だから説明しないんだぜ!無視するんだぜ!どんだけ全力投球するところは全力投球して他のところはマジ適当なんだよこのゲーム!最高だよ!! 
シナリオ的には、ライター複数人いるので出来の差も好みの差もあると思いますが、美月さんと涼香さまシナリオはめっちゃくちゃ良いです。美月さんは親しくなればなるほどどんどん無防備になって弱い部分とか見せてきますし、涼香さまはルナちょむシナリオと似た系統でありながらも勿論異なる良いシナリオでもあります。美月さんシナリオはとにかく美月さん可愛くて、そんな可愛い美月さんにこんなシナリオとかうわぉぉぉ!!とすっごく楽しいシナリオですし、涼香さまシナリオこれマジどうなるんだよと、プレイヤーも心苦しく辛くて逃げ出したいくらい(なお主人公はもっと心苦しく辛く逃げ出したい)の物語が展開されてしかも話の落しどころが全然読めないのでいつまで経ってもその苦しさ辛さ逃げ出したさは変わらないけどちゃんと最後まで向き合いたい!と思わせる超いいシナリオでした。ラストはちょっとだけ、今まで160km近くを投げてた投手がラスト一球だけ150にも届かないみたいな感じかもしれませんが、それでも良いものは良い。というかそこまでの全力投球がとにかく素晴らしかったです。
そんな感じで、完璧なゲームにはほど遠いと思いますが、しかし力を入れているところには本当に全力なゲームなので、しかもその力の入れどころが個人的な好みと合致しているのもあって、自分としては超大大大好きな作品でした。

ヴァルヴレイヴ6話 サキさんについてちょっとメモ

今回ちょっと詰め込み感強くなかったすか? 整理して書き残しておかないと自分でも数週間後には忘れてしまいそうなので、メモを。


「貧乏、暴力、アルコール、犯罪。本当、毒みたいな親だった」「親から逃げるには、あの最低の世界から抜け出すためには、有名になるしかなかったの」
その後「ウソ」と言ってましたけど、これが丸っきりのウソではないというのは確かでしょう。終盤の戦闘シーンで挿入された回想が示しているように、少なくとも暴力を振るう親であったっぽいし(まあ親と確定しているわけではないので多分ですけど)、アイドルの世界に入っても他のアイドルたちには疎まれ嫌われ、大人達には嗤われ、最終的には解雇された。どこまで本当なのかは分かりませんが、おおよそは本当だったんじゃないかなと思います。それを前提で見ると色々腑に落ちるし、そしてサキさんは本当にヤバイ。


なにがヤバイって、人間そんなことしなくてもいいってことです。
最低な親で、アイドルになって有名になることで(ニアイコールお金を稼ぐことで?)、親の暴力から逃れられた、親の元から逃げられた。そういう過去があったのだろう。それは分かります。でもだからって、いまだに「有名にならなければ」なんて妄念に取り付かれる必要はない。

「別にハルトなんてどうでもいい。私はただ有名になりたいだけだから」
「流木野さんはスターじゃない。十分有名でしょ?」
「そうだよ、どうしてそんな風に」
「自分の存在を世界に刻み付けないと、消えてしまうから……」

人間は自分の存在を世界に刻み付けなくても別に消えはしません。有名にならなくても生きていけます。幸せにだってなれます。でもサキさんは違うんですよね。この子はもう、ある種の強迫観念に取り付かれている。「有名にならなくてはならない」「世界に自分を刻み付けなければならない」、そうしないと消えてしまう……「世界に殺されてしまう」。


実際それはただの強迫観念だよ、君はそんなことしなくても生きていけるし幸せにもなれるよとこの病んだステージを降りるチャンスもあったんですよね。たとえばあの「こわい……」ってビビッてしまったとこ。
最初にヴァルヴレイヴ=カーミラに乗った時を思い出そう。起動しながら「私の歌を世界中の人が聞くの。流木野サキ? ああ知ってるよ。『らんらんらららら〜ん』だろ、って」 彼女にとってヴァルヴレイヴは、戦うというのは有名になるための手段であり、有名になるための戦力であった。外に出たら音楽にあわせ踊るように飛び回りながらマント羽織ってポーズまで決めてたのが象徴的ですけど、彼女にとっては最初から「ステージ」だったんですよね。


これに輪をかけたのが「ニンゲンヤメマスカ?」で、彼女としてはハルトと同じようなヴァンパイア的能力と超回復力……彼女いわく「不死身」の存在になれると考えてた。人間やめるか聞かれて、「いいじゃない。人間なんて嫌いだし、その上スペシャルになれるなんてオールオッケー」と答えていたように。スペシャル=不死身の超人になれること。実際、ヴァルヴレイヴの手の上を歩いてハルトが危ないと注意した時も「平気! だって、不死身なんでしょ」と答えていたし、戦場で前に出すぎだと注意された時も「いいじゃない。私たち不死身の超人なのよ」と答えていた。私は不死身なんですよ? スペシャルなんですよ? こんなのなんてことないですよ? 有名にだってなりますよ? それゆえ自信過剰になっていたとも言えます。なにせ戦場出てからはじめて「武器は?」とか言ってようやく武器を探し始めまたくらいですからねこの人。それ先にチェックしとけよという感じですが、逆に言えば彼女にとって所詮戦いとは有名になるための手段でしかないわけだし、そして不死身の超人になったという事実はこんな余裕を見せ付けるだけの全能感を彼女に与えていたわけです。私は不死身なんだから大丈夫。なんだって出来る。だってスペシャルなのだから。だからもう、怖いものなどない。



しかし強い敵に当たって、リアルな戦場を思い知った彼女からそんな全能感は吹き飛びます。
「震えてる、こんな……」「こわい……」「こわい……私、不死身なのに……」
不死身でも怖いものは怖いのです。不死身なら何でも出来る?出来ない、怖いものは怖い。スペシャルな存在になったのだから楽勝?出来ない、不死身だから死なないとしても死ぬくらい痛い目と怖い目にあうリアルな戦場は怖すぎて立ち向かえない。不死身でスペシャルな自分は活躍して目立って有名になれる?無理だ、たとえ不死身でもただそれだけ、心が不死身になったわけではない。怖いものは怖い。
その恐怖をですね、「有名になりたい」の一心だけで乗り越えちゃうのですこの子は。ショーコの「流木野サキはスターでしょ!」といった言葉がきっかけとなってのものなんですけど、そっち側に歩を進めてしまう。「……スター……」と呟きながら覚悟を決めるかのように溜息を吐いてしまうのです。そして「足りない……」「全然観客が足りないわ」「私は世界一のスターになるんだから」「この戦争をワイアードにアップして。コックピットの映像も」と、本当に、本気で、本格的に、戦場においてスターとしての自分を生きさせることを決めてしまった。



そしてこの戦い。歌にあわせて踊るように飛び回って戦ってる。この歌はアニメのBGMであって物語世界の中では流れていないはずなのですが、サキの頭の中でだけは例外的に流れていそうです。もう戦場が完全にステージになっていて、それを見て世界中のみんなが応援してくれる。中には「ダンスみたーい」という反応している奴がいるあたり流石ですね。ヴヴヴは作中でセルフツッコミ入れたりするという話がありましたが、まさにそんな感じ。戦場にステージを投影してアイドルしているという狂った歪みをストレートに表現しています。



ではこのステージにおいて敵の攻撃は何なのかというと、彼女が受けてきた暴力、世界からの攻撃に重ね合わせられています。ミサイル攻撃を受けたのと、自分が幼い頃に叩かれたのをダブらせて「まだ……!」とか言うんです。攻撃受けてくっ…と俯きながらも「有名に…なるしか……!」と言って前を向いて立ち向かうんです。敵のミサイル攻撃に自身が受けてきて暴力・攻撃を投影して、それを避けて、喰らっても「有名になる」という一念で立ち向かう。さらに世界中の反応を見て「世界が見てる」ことを知った彼女にとって、戦場は完全にステージになる。「世界」が見ているのです。敵の攻撃=サキさんが受けた暴力の投影を乗り越える自分を、自分を傷つけてきた世界そのものに刻み付ける。ちょっと屈折した言い方になりましたが、サキさん自身が屈折しまくってるので仕方ない。「私は世界に……殺されない!」というのは、そうだからこその言葉ですね。有名にならなければ最低な世界から逃げ出せない。自分の存在を世界に刻み付けないと、その最低ではない世界から消されてしまう。


だからこれは、色々な屈折を投影して昇華できた(できている)ということでもある。あるんですけど……個人的には不安ばっか感じられて超怖い。上にも書いたように、別に人間は有名にならなくては生きていけないわけではないのです。世界に自分を刻み付けなくても本当は大丈夫なんです。だけどこの子はそう考えてない。この子にそれは無理。有名になる、世界に自分を刻み付ける、そういう生き方しか出来ない、そういう強迫観念に囚われてる。そのために戦ってる。敵の攻撃喰らっても「有名に……なるしか……!」と言いながら立ち向かうわけですからね、ここで止まっては有名にはなれない、だから有名になるため頑張る、諦めない。どんな困難や苦難に対しても、その一念で戦っていく。世界に自分を刻み付けるために、どんな苦境も乗り越えていく。―――僕がこういうキャラ大好きだってのもあるんですけど、美樹さやかさん思い出しましたね。あの子もまた「正義の魔法少女をやることを決めた」とか言って、別にやらなくてもいいものを一生懸命やってそれで死んだわけです(http://d.hatena.ne.jp/tempel/20120215/1329235553)。やりたいことでもないし、やらなくてはならないことでもないし、自然とそれをする流れになったわけでもない。でも、自分の心を守るために、本当はやらなくてもいいそれをわざわざやってしまったわけです。そして、それに耐え切れなくなって、死んだ。サキさんもまた、「有名になる」「世界に自分を刻み付ける」とか、やらなくてもいいのです。人間、そんなことしなくても生きていける。その強迫観念的な考えをどうにか手懐けて、普通の一般人として生きていく道だってあっただろう。でも、そうはならなかった。そして、「有名になるため」危険な戦場に突っ込んで、ビビッてガクガク震えても、戦場で自分はスターになる、有名になると考えればまた立ち向かえるし、敵の攻撃にも「有名になるため」の一念で怯まない。こんなんだから、こう思ってしまうわけです。この先のどんな困難にも「有名になるため」で立ち向かって、そして「有名になるため」に歯を食いしばって我慢して、頑張っていくんじゃないだろうか。それで乗り越えられる相手ばかりならいいけど、そうやって頑張っても殺されるくらい強大な敵だったらどうなるのだろう。あるいは、「有名になるため」と歯を食いしばってるのだけど、その困難が「有名になるため」という思いだけでは耐えられないほど大きいものだったらどうなるのだろう。―――とか、ちょっともういらん心配というか、妄想入りすぎてる感じありますが、このまま行ったらサキさんが自分自身に殺されちゃうんじゃないかなーと心配で。そうなる前に上手いこと救われるのを願っています。

『革命機ヴァルヴレイヴ』は最高に面白い超傑作アニメ!

ヴァルヴレイヴが! 最高に!! 面白い!!!


正直3話までは「なんかフツー」くらいに思ってたんですけどね、4話から! ヤバイ!! 超絶傑作すぎる!!!
これほどアニメに嵌ったのはいつ振りだろう。これほどアニメを面白がれたのはいつ以来だろう。ちょっともうそんなこと思ってしまうくらい本当にめちゃくちゃ面白いです。
一応言っておきますが、世間でよく言われているネタアニメとしてではなく、ガチで、です。ガチで超面白い。最高に面白い。ということで、超面白かった第4話と、そこからさらに面白くなった第5話を中心に、ヴァルヴレイヴ最高に面白いんだよといった話をします。一人でもヴァルヴレイヴァーが増えることを願って……!




まず素晴らしいと思ったのは4話のショーコさんストリップシーンでして、これはショーコさんが「フィガロさんたち先に帰っちゃうって!」「えー、ないない。証拠見せろよ」と言われて何を思ったか脱ぎ出すシーンなのですが、これが素晴らしい。ショーコさんは自分の発言が真実であると証明する手段を持っていません。通信を傍受してた引きこもりさんのことを話せば通じるだろうけど(なにせあの人会長の妹なのだし)、そのことは秘密です。それを除くと、裏付けになるような情報は何も持っていない。かといって「私の発言は絶対正しい」「私を信じて!」で信じてもらえるほど信用得てるわけでもないし、お金をちらつかせたり暴力をちらつかせたりで取引をしようにもそういうの持ってないから出来ない。つまり、何も持ってないのです。ここで自分の言葉を相手に信じさせるようなモノを、何も持っていない。
ショーコさんは、何も持っていない。でも、何も持っていない人間でも、唯一持っているモノがあります。自分の身体です。
だからショーコさんは自分の身体を使うのです。自分の身体しか、使えるものも賭けられるものもないから……だから自分の身体を使うし、自分の身体を賭けるのです。ここで「脱ぎ出す」というのはそういった行為です。何も捧げられるモノがないから、自分の身体を捧げるのです。それはサキさんが言うように「意味わかんない」ことではあるのだけど、でも自分の想い・意思を通すために出来る手段は、ここではそれしかない。そしてそれは「ゴリ押し」でしかないけれど、実際通るわけです。



その直後の校歌斉唱シーンも最高に素晴らしかった。これは兵士達をなんとかこの場で足止めしよう・釘付けにしようという陽動作戦でして、その為に生徒達が校歌を歌うのですけど、これもショーコさんの脱ぎ脱ぎと一緒なのです。「兵士たちをこの場に留めておきたい」という目的がある。しかし学生たちは武器を持ってるわけでも腕っぷしが強いわけでもない。戦って兵士達を抑えることは出来ない。かといって金を出してどうこう出来るわけもないし、他に何か取引材料があるわけでもない。あるいは何処かで事件とか不審火とか起こして、そっちに誘導するという手もありますが、しかしこれはフィガロさんたちが本当に学生を見捨てて逃げるのか、それともショーコの言ってることが間違いで本当は自分らもちゃんと連れてってくれるのか定かではない場面ですから、兵士達と下手にいさかいを起こすわけにはいかないのです。もしフィガロさんたちがシロだと判明したら、学生らはこの後彼らのお世話になるわけですからね。
だから、今、このタイミングで出来ることは、これしかない。何も持っていない彼らでも唯一持っている自分の身体を使って、怪しまれず疎まれずそれでいて足止めできる最良の手段は、お礼という体で歌を歌う、それしかない。だから、それをやるのです。


この二つが特に素晴らしいのは、その後の「独立」の話と繋がってるところ。
「みんな! もう誰かにすがるのはやめよう! 何かに頼るんじゃなくて、自分の足で立つの! 独立するの!」
「すがらず、頼らず、自分の足で立つ」とはどういうことかというと、今自分が持ってるモノでなんとかするしかないということです。誰も助けてくれないし何も助けにならない。私は総理の娘なんだから信じて、なんて言えない(元々言わないですけど)。自分達だけ先に逃げるというアルスの人間に置いてかないでお願い連れてってと懇願することも出来ない。何にもすがらず、頼らず、自分の足で立つ。つまり他に何も持ってない(他のものに頼らない・すがらない)人間が、自分だけで、どうやって自身の証言を信用してもらうかといったら、もう自分の肉体利用するくらいしかなくて。武器も金も権力も、何も持っていない学生が、どうやって兵士達を足止めするかというと、傍から見ればどんなに滑稽でも、どんなにピエロでも、もう歌を歌ってなんとか時間稼ぐしかない。
つまりこの二つのシーンには、既に独立の精神が内包されていたわけです。だからこそ素晴らしい、てゆうか、だからこそこのシーンを入れる必要がある。独立宣言したから独立するのではなく、それ以前に独立の精神を既に宿しているわけですね(特にショーコさんが)。そしてそれらは当然、辛さや厳しさを纏っている。誰も助けてくれないし何にもすがれないわけですからね、自分の身一つでなんとかするしかない、それは信じてもらうために脱ぐしかないショーコさんとか、足止めするために茶番を演じなければならない生徒達みたいに、スマートじゃないし滑稽だ。でも、やる。それが出来る。可能である。


一見、これらはなんかアホみたいな行為に見えます。てゆうか僕だって最初爆笑しましたからね! 何脱ぎだしてんのwww 何故歌うwww という感じで。しかし、よくよく考えたら、こういうことを彼女たちが行う理由は分かるし、このシーンが作品に必要だという理由も分かる。

『ヴァルヴレイヴ』というアニメは説明不足だったり敢えて説明しなかったりという箇所が非常に多いです。たとえばあのロボット「ヴァルヴレイヴ」に関しても全然説明ありませんよね。動力源は何なのかとか、性能とか兵装とか操縦方法とか全然説明されない。でも逆に説明されていないから、なんかいきなり見たことのない新兵器持ってても、前回のダメージが回復していても、ハルトくんが何故か乗りこなせていても「説明されていないんだからそういうことなんだろう」と保留付きで納得出来る。ここの「保留」をどう埋めるか、というのが『革命機ヴァルヴレイヴ』を楽しめるかどうかの最大のポイントなんじゃないか、と自分は思います。つまり、僕の場合は、操縦においてはパイロットは実質媒介にすぎないとかあるいは意思をほぼダイレクトに反映させる操作体系を実装しているんじゃないかとか、ダメージは自己修復機能があるんじゃないかとか、格納庫あたりに兵器が置いてあってそれを見つけてそのつど使ってるんじゃないかとか、自分で勝手にその「説明されていないところ」を想像して補っています。そうやってこの「説明されない」を埋めている。上に挙げたショーコさんストリップとか校歌斉唱なんかもそうです。こうやって解釈して説明されていない部分を埋めています。たとえば第4話でエルエルフが「ドルシアに包囲されている」と言った時に皆が素直にそれを信じたのは、極限状態の緊張&アルスの逃走が真実だったことからの切迫感&それらから、何もかもネガティブに考えてしまう思考になっているとか、「ヴァルヴレイヴを人質に使う」というショーコの案にみんながあっという間に賛成して「いけるぜ!」「その手があったか!」とか言い出したのは、もうどうすればいいか分からないような状況において誰かが「それっぽい案」を出してくれたので不安から逃れるため敢えてその案の中身を大して精査しないで「よい案なんじゃないか?」と信じ込もうとする心理なんじゃないか、とか。
こういうのが『ヴァルヴレイヴ』視聴のポイントで、「いかに行間を勝手に読むか」「いかに説明されていない箇所を勝手に埋めるか」というのが『ヴァルヴレイヴ』を楽しむ上で重要なんじゃないかと思うのです。この全体的に説明不足のアニメにおいては。
そこにはロボットの方のヴァルヴレイヴの性能のように、作中で語られないから妄想丸出しでかなり無理矢理補わなくちゃならないものもあるし、あるいはストリップや校歌、第5話におけるライブ配信のように理由を直接的には語ってくれないんだけど、そこまでの描写から推測できるものもある。そこを上手い具合に補って全力でこのアニメを楽しむ存在……それが、ヴァルヴレイヴァーなのです!


たとえば第5話で、ショーコさんがいきなり「ジングルベル〜」とか言い出す場面がありますけど、これも理由が埋められる。
まずはじめに「この女いきなり気でも狂ったのか歌いだしたぞ」と思ってしまうかもしれませんが、これは彼女なりに頑張って気合入れて考えての行動で、素ではありません。

この「スカートの裾を掴む」という行為ですね。


ショーコさん、第4話のストリップのところ(上の画像の箇所)とか、フィガロさんたちが先に逃げちゃうどうしようってところとか、ハルト呼び止めて独立宣言する前とかに、毎回「スカートの裾を掴んで」いるのです。気合を入れて、頑張ろうってときに、不安や恐れを閉じ込めるように、ぎゅっとスカートを掴んでいる。それだけでここの彼女が「素」の行動ではなく、わざわざ気合を入れて、頑張ろうと誓って、目の前の暗闇を飛び越えるような行動であったことは確かです。そもそも歌いだす前の、超小声での「1、2、3、はい」という掛け声が、自分自身に踏ん切りを付けさせるための精一杯の勇気に聞こえてならない。
では何故それが「歌いましょう!」になるのか。これは『ヴァルヴレイヴ』における独立とか革命の話にも密接に関わってきます。
まだ途中なのでなんとも言えないところですけど、多分どちらかといえば佐々木中の革命の話(切りとれ、その祈る手を)で考えた方が近いと思われます(勿論正確には異なりますけど)。政権が変わることが革命と言えるだろうか? 自分達が支配者になりかわることを革命と言うだろうか? 言えないでしょう。それは指導者・支配者が代わったというだけであり、革命ではない。武力を持って既存の権力を倒すことが革命であろうか。たとえばエルエルフがそうしようと画策するように、巨大な帝国を武力でもって覆したらそれが革命となるのだろうか? なるかもしれないし、ならないかもしれない。ただ倒しただけでは支配者が入れ替わるだけでしかないし、血を流したらその時点で革命が失敗するというわけではない。問題は、その精神性である。たとえばありとあらゆる武力による革命も、「どうして武力を用いたか」という部分には、根幹となる、あるいは起源となる精神があった筈です。圧政に耐えかねてとか、国がダメになっていくのを憂いてとか。そういうはじまりの部分。精神。革命を革命たらしめるテクスト。そこの部分です。
「みんな! もう誰かにすがるのはやめよう! 何かに頼るんじゃなくて、自分の足で立つの! 独立するの!」
彼女たちの独立が「何か」と言えば、この言葉通りで、誰にもすがらず、何にも頼らず、自分の足で立つことです。はっきりいって、国家としての大局的な考えもこの先の見通しも何も無いです。どういう国にするかとか、この後どうするかとか、何もない(いや語られてないだけでちょっとはあるかもしれないけれど)。それよりこの言葉が先に立っている。この革命の精神、テクストはこれです。私たちはこういう国を作りたくて独立しますでも私たちはこういう社会にしたくて独立しますでもなくて、それこそ子供が親から離れて一人で立つのと一緒で、自分の力だけで生きていく、そういう意味での独立である。言い換えると、それしかない。だからエルエルフのドルシア倒すとか企みはこの独立/革命とはマジ関係ないのです。武力を使う必要もないから、ヴァルヴレイヴは人質になるのです。ただただ自分達だけで生きていくというのが、この革命のはじまりなのだから。
そして、この言葉に対してモブが、「楽しそう!」というぶっちゃけ頭悪そうな反応してたのですが、しかしそうなのです、そういう姿勢なのです、それがこの革命なのです。

象徴的なのは第5話のこのシーン、

独立して咎める大人がいなくなって自由を謳歌、「一度運転してみたかった」と言ってショベルカーを乗り回す。でも調子こいてたら水道管傷つけちゃって水がドバーって溢れてきた。これは失敗です。独立して自由にやったからこその失敗。

しかしショーコさんはその水の中に突っ込むのです! このシーンが何度見ても素晴らしい。
自由にやれば失敗もします。通常じゃないようなでかいミスも犯します。「誰にもすがらず、何にも頼らず、自らの足で立つ、独立する」というのは、誰も助けてくれないし、ツケは全部自分で払うということです。今までは大人が助けてくれたかもしれないけど、これからはそうではない。失態の責任は全部自分たちに回ってくる。「独立」を選んだ彼女たちには、そんな困難がこの先幾度も待ち受けているでしょう。だからどうした! ピンチを遊びに、苦労も楽しいものに革命しちゃえ! そういう精神がここにはある。こんなことしたって苦労が消えるわけでも問題がなくなるわけでもないんですけど、しかしそれに対する「見方」だけは簡単に変えることが出来るのです。ショベルカーをぶつけちゃって水溢れてヤベーと見るか、わー水だ気持ちいいーと楽しんじゃうか。そういう「見方」の革命はこのように身一つで可能なのです。
だから「楽しそう!」というモブの反応は正しい。ショーコさんがこのように「楽しいもの」に革命しているのだから。最初はショーコさん一人だけが水の中に突っ込んでいただけなのに、楽しそうな彼女を見て周りの生徒たちもみんな入ってきてみんな一緒に楽しむ、これこそがまさにショーコさんのやってることです。



だからあそこで「歌」を出したのも、彼女にとっては苦肉ながら最善の行為である。この状況は変わらないわけです。電気が復旧するのも、次の瞬間かもしれないし、だいぶ先かもしれないし、もしかしたらずっとダメかもしれない。だからってここで争っていても何にもなりませんよね。それにショーコさんはここの一連のやり取りを見れば分かるように、副会長たちが反対意見を持ってるからといって切り捨てたり袂を別ちたいわけではありません。サキさんが「バカじゃないの。人の意見に乗っかったくせに、自己責任でしょ」と返していましたけど、てゆうか大抵の人ならこういう言葉返すと思うのですけど、しかしショーコさんはどうやったら副会長たちを切り捨てたり突き放したりしないで説得し導けるかを探している。全てが終わって「しらけましたわ!」と副会長が立ち去った後、一人残念そうな悔いが残るような表情をしていることからも、そう。
だから、なんとかするために、歌なのです。ぶっちゃけ歌ったところで電気が回復するわけでも独立がみんな上手くいくわけでもありませんが、体と心だけは変わる。
「歌ったら、体もあったまるし、心もあったかくなるんじゃないかと」
何も変わらないけど、心の持ちようだけは変わりますよね。不安な気持ちが副会長たちにああいった行動を取らせている面もあるのだから、歌って不安を払拭できればなおの事良い。歌ったところで状況は変わらないけど、心だけは変えることが出来る。暗くて寒いからって、「暗い、寒い」って、怖くて不安だからって、「怖い、嫌だ」って喚くだけ? それとも、暗さも寒さも何も変わらないけど、現実世界は何も変わらないけど、歌って、心持だけでも変えてみせる?


あのライブシーンもそういうものである。


歌ったところで、現実世界は何も変わらない。学園はところどころ壊れてるし、この先どうなるかも不安定だし、死んでしまったクラスメイトもいるし、明日どうなるのかも分からない。でも生きてるし、この先も人生は続いていくわけです。戦争しようが学校壊れようが孤立しようが友達死のうが人生は続く。そこで、嘆いてばかりいる? それとも、歌って、体をあっためて、心もあったかくなる? 壊れた学校見て悔やむだけか、ここから新しく始めるか。友達の遺影見て悲しむだけか、それとも一緒に歌って踊ってみるか。こんなことしたって、現実は何も変わらないけど、せめて見方だけは、心だけは、革命できる。
これはそういうことです。ネットに配信して画面の向こう側に届けたいのはこういう思い。誰も助けてくれない孤立したジオールの生き残りたちに、誰の助けも拒んだ独立した学生たちが送るのは、誰も助けてくれないから、誰にもすがれないから、だからこそ、自分一人でも生きていける、誰かの助け以上を手に入れられる、そういうこと。「人生楽しんでこう」というこの曲の歌詞通り。悲しい時だからって、ただただ悲しいと嘆き続けなきゃいけないわけではない。歌えば心も体もあったまる。そんなことしたところで現実は何も変わらないけれど、しかし心だけは変えられる。誰の助けもなく、誰にすがらなくても。



だから『ヴァルヴレイヴ』は最高に面白くて超絶に傑作なのです。希望に満ち溢れている。なんという素晴らしいテーマとお話……!
もちろん、これらは勝手な解釈なので――てゆうか前述したように勝手に解釈してナンボのアニメなので当然そうなのですが――作り手側の意図とは異なる解釈なのかもしれませんが、しかし俺にはそう見えたし俺の心はそのように革命された。だから最高だ、最高に面白い。

たとえば、上にも書いた、ショベルカーぶつけちゃって水ドバーを「どう捉えるか」で意味が全く変わるように、たとえば、暗闇の中で争ってた副会長も明るくなったらスカートめくり上がってる状態だという滑稽な姿に気づいて戦意を喪失したように、このアニメも視聴者の見方次第で変わる、暗闇の奥を探るだけで意味が一変する作品です。考えれば考えるほど味が出るし、そう出来るように細かく丁寧に作られている箇所が多い(もちろん全然説明不足すぎてわけわかんねえ箇所も多いですが)。だから、考えれば考えるほど、読めば読むほど、僕にはここまで書いてきたもののように見えましたけど、他の人には他の何かに見えることでしょう。一人でも多くの人が、自分の「見方」でこの作品を楽しめるよう、そう願っています。