個人的昨年度ナンバーワン抜きゲー 『ヒメゴト・マスカレイド』について

抜きゲーには、エロには二種類ある。「どうしてエロかったか」という理由をなんとか客観的に語れない場合と、語れる場合だ。
客観的に語れないというのは、こういうシチュが自分の趣味だとか絵が好みだといった、自分の趣味嗜好性癖がエロさの一番の理由となっている場合。これは語れない、というか、語ってもどうしょもなかったりします(趣味がバッチリ合う人でもないと参考にすらならない)。対して、エロさが「客観的に語れる」という場合がある。かつてなんやかんや書いたことありましたが(http://d.hatena.ne.jp/tempel/20121215/1355571114)、たとえばそのゲームの物語だったり、設定だったり、ゲームシステムだったりが「エロ」を増幅させるような・補強するような作りになっている作品。そういう作品の、そのエロをパワーアップさせる「仕掛け」、それを比較的客観的に語ることは可能でしょう。このゲームはこれこれこういうシナリオであれが伏線になっててそれがこういう意味持っててだから素晴らしかった・感動したと比較的客観的に語る=分析することが出来るように、抜きゲーにおいても、これこれこういう仕掛け・構造があってだからこそこのゲームはエロかった、と語ることは可能なはずだ。だから皆もエロいと感じてくれるかどうかは、シナリオゲーにおいてだから皆も感動できるかどうかが決して保証されないのと同じように、また別の話にはなるのですが。


ということで、正直言うとまったくノーマークだった(だからこそ昨年12月発売で今頃クリアしている)のですが、プレイしながら「何これエロすぎィ! あったまおかしいんじゃねー!」とリアルに叫んでしまった『ヒメゴト・マスカレイドについて、そのエロさについて語ってみたいと思います。個人的には2012年ベスト抜きゲーですね。


公式(http://www.escude.co.jp/product/himegoto/index.html

さらっと概要をなぞると、本作は「女装主人公」作品です。幼い頃に事故にあって記憶を失くし、代々執事を輩出する家に引き取られた主人公は、執事としての能力は十分ながらも「女の子」がものすごく苦手でした。作中では女性恐怖症と言われています。その女性恐怖症を克服する荒療治として、女の子しかいない女学園に女装して通うことになったわけでした。
で、その学園で生徒会長的ポジションを努めている愛璃に秘密がバレてしまうのですが、彼女は秘密を隠してくれるし、むしろ女性恐怖症克服に協力してくれるようになります。
そこで出てくるのが「おさわりパート」と呼ばれるもので、

「見つめる」とか「手を繋ぐ」とかのコマンドを選んでいって、少しずつ女性に慣れていこうというものです。

その「おさわりパート」をメインにゲームは進行します。途中からもう一人のキャラも出てきて、そちらも「おさわりパート」で選べるようになります。


そもそも基本的なことを先に書いておくと、この「おさわりパート」と、もう一つ本作の特徴としてあるスゴロクみたいな「MAP構造」が、基本的なエロさを作り出しています。

「おさわりパート」というのは、キスしたり胸もんだりとやることを選んでいって、それを繰り返すごとに(またステータスを上げるごとに)どんどん過激にすることが出来るという、いわばある種の「調教ゲー」みたいな形態を持っているのですが、この「調教ゲー」みたいな形と「MAP構造」って実は相性良いんですよね。MAPをどんどん進んでいくということが、つまり彼女の心の奥にどんどん進んでいくということの隠喩でもあるわけなので。言うなれば「領土侵攻」なわけです。この作品の場合は、全てのマス(領土)を踏破することがゲーム期間的に不可能なので、全部を支配するというわけではなく、どんどん重要なところ、奥地に潜っていくという感じなのですが、それは彼女の重要なところ、心(そしてエロパートも合わせれば身体も)の奥地に潜っていくのと同じである。実際MAP自体も、仲が深まればそれ用の特別なMAPを進められるようになっていますし。つまりこの運用のされ方からすると、このMAPは果たして何を表しているのかというと、彼女たちの「心の中」という秘められたことを表徴しているわけです。それを調教ゲーじみたエロでもってどんどん侵攻していき、また侵攻すればするほど新たなエロが解放されていく。この辺の基本的なシステムもまたエロを上手いこと増幅させていました。


で、話を本題に戻しまして、この「おさわりパート」、主人公の女性恐怖症克服という名目の元はじまりますが、あっという間にセックスします。最初「見つめる」「手を繋ぐ」程度だったのが、もう次の日や次の次の日くらいには「キス」をしたり「胸をさわる」が出てくる。そしてなんかあっという間にHにまで至る。しかもそれ以降はおさわりパートするたびに毎回Hする。

これがね、おかしい。エロい。ちょっと作った人頭おかしいんじゃないかってくらいエロい。なぜなら、セックスする理由がマジで一つもないからです。女性恐怖症克服のために女の子と接する。そこまでは分かる。だがそのはずみで何故かセックスする。これが例えば、女の子の方がエロエロだったとか、実は主人公のことが好きだったとか、女性恐怖症克服のために触れ合ってたらあまりにも盛り上がってしまってつい……とかだったら、まだ話は分かります。しかし彼女たちは温室育ちのお嬢さまという設定通りに基本的にはエロエロではないし*1、次第に主人公に好意を抱いてきますが最初はそうでもないし、女性恐怖症克服のために触れ合ってその流れでというシーンもありますが、そういうの関係なくいきなりセックスに至る場面も多々あるわけです。
つまり、セックスする理由がマジでない。身持ちが硬いはずのお嬢さまがなんか流れでなんとなくセックスするし、だからって主人公のことが超大好きってわけでもないし、別に淫乱でもない。なのにセックスはきっちりする。マジで意味わかんねー! もう我われの眼からするとね、理由が放棄された謎の現象にしか見えないのです。つまり言い換えるなら、このゲームにおいてセックスは異次元で行われている。夢の中で行われている。それぐらい非現実的に切り離されているのです。だって因果関係がまったくない、セックスする理由や必然性がまったくないんだもん。それは物語上でも確かにそうなっていて、セックスしてるのに普段は全然普通の友達同士だし、それどころかセックス直後のテキストからして思いっきり日常風景そのものなのです。まるで先ほどのセックスが無かったかのような振る舞いを見せる!


これが奇妙なエロさを醸し出しています。
窃視、秘密、見てはいけないもの・本来ありえないものを見ている。
このゲームにおけるエロシーンには、そういうエロさがある。ゲームのタイトルに『ヒメゴト』と付いているように、この行為(女性恐怖症克服・おさわりパート)は彼女たちにとって他の人には秘密にして行われる秘め事であるのですが、同時に物語から完全に浮いているヒメゴトでもあるわけです。たとえば、普通にプレイしていたらクリアまでにセックスシーンを10回20回は見ることになると思いますが(シーンコンプしようと思ったらその数倍必要)、クリアするだけなら強制的に行われる最初の1回だけ見れば理論上はオッケーなのです。こういうところからも、物語からいかにセックスが浮いているかが分かると思います。てゆうかこのゲーム、本当に必須のセックスって強制イベントである最初の1回目だけで、それ以外のHはあってもなくてもいいんですよね。ここが一番あたまおかしい(褒め言葉)ところなんですが、普通のエロゲーって恋人同士になった後セックスすると思いますが、このゲームはしません。個別ルートに入った後にセックスがあるのが普通のエロゲーですが、このゲームは共通ルートにしかセックスシーンが存在しないのです。個別ルートでは、恋人同士になった後には、エロシーンが無い、セックスが存在しない

これが余計に本作における「セックス」を何か奇妙に浮遊しているモノに仕立て上げていて、それにより特別なエロさが生み出されているのです。
彼女たちの心理的な部分や身体的な部分にセックスする理由や因果関係がほとんどなくて、物語的にもセックスする理由や因果関係がほとんどない。てゆうか必然性という意味では、(最初の1回以外)セックスする必然性が彼女たちの中にも物語の中にも何処にもない(だからこそ、最初の1回さえすれば原理的にはクリア可能である*2)。

それがこの作品におけるセックスの奇妙さを生み出している。物語やキャラクターから分離して「ただそこにある」、言うならば<現実的>な重みを持った、何にも紐付けされていない、どのような理路も理由も原因もなく肯定される、どんな後ろ盾も因果関係も意味すらも必要としない「純粋なセックス」を作り出している。ああそうです、ここまでどうにか説明できないものかと迷いながら書いて来たのですが、敢えて言うならそれです。ここにあるのは全てから解放された「ただのセックス」なのですよ。それがヤバイ。それがエロい。どうしてもこう、文章だけだと多分あんまり伝わっていないと思うのですが、これが本当にヤバイのです。はっきりいって頭おかしいレベル。残念ながら体験版じゃよくわかんないかもしれないですので、是非プレイしてみて欲しい。中古なら結構安くなってますし。


エロゲーのエロさとは、ただセックスすることだけではない。たとえば物語と絡まってくっそエロいことになってる『夏めろ』とか、強制的にエロいことするはめになるという設定によりえらい背徳的というか淫靡なエロが展開されまくる『幻月のパンドオラ』『ももえろ濃霧注意報』などなど、物語や設定やシステムなどの「仕掛け」により、ハイパーエロくなってる作品が幾つもあります。この『ヒメゴト・マスカレイド』も、セックスするだけの理由がある個別ルート/恋人になった後でセックスしないくせに何故かセックスする理由が何処にもない共通ルート/恋人でも何でもないただの友達のときにセックスしまくれることにより、理由も因果関係も何もかもが登場人物の心の中にも身体のどこかにも物語にも存在しない、ただただ浮き上がった至純の「セックス」を現前させる、それがメチャクチャ淫靡で背徳的で官能的で……とにかくエロかった、というお話でした。

*1:まあ抜きゲーヒロインなので「全くエロくない」というわけではありませんが。

*2:実際にはMAPの関係上無理っぽい? 「ヒメゴトマスを絶対に踏まないプレイ」をちょっと試してみたのですが無理でした。もし出来たら教えて!

『釈迦堂さんの純愛ロード』感想

まさかの『釈迦堂さん』感想。何そのゲーム聞いたことないって方はググれば分かるので各自ググって下さい(ただし2013年4月1日限定。それ以降ではじめてこのゲームの存在知った人は何も見なかったことにしてブラウザ閉じて不貞寝するとよろしいかと。世の中には知らない方が良いことが確かにある……!)。このようなことを行ってくれたみなとそふとに多大な感謝と賛辞を。



で、ですね。これ、めっちゃ好みでした……!




このハイ・ブラッディに桜が咲いてくアイキャッチとかステキすぎるまさにその通りの内容!



まずは『真剣で私に恋しなさい!』を思い出そう。

「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」
「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」

彼女たちの性格・性質・姿勢的なものは、まず最初からはっきりしています。百代の誠、自分への実直さ、すなわち真剣さ。一子の勇、勇猛果敢、引かず諦めず走り続ける姿勢。クリスの義、ルールや規則、自らが正しいと信じることの絶対遵守、自らの信じるものを貫き通す。京の仁・愛、大和への、そして仲間への愛の深さ、そしてその姿勢を持ちえている故彼女は、その対象を周りにも広げることができる。まゆっちの礼、他者への礼が逆に自らを堅くして、人付き合いが上手くいかないほど。(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-30.html むかし書いたまじこい感想より)
それらが生まれ付いてのものなのか、生きていくうちに身についたものなのか、あるいはその両方なのかは定かではありませんが、彼女たちの「ありかた」というモノははっきりしていた。そして同時に、(その時の彼女たちにおける)それが孕む限界もはっきりしていた。たとえばクリスの「義」を重んじすぎる姿勢が、大和あるいは他の皆との間に軋轢を生んだり、京の「仁・愛」は、それを向ける対象(つまり風間ファミリーの仲間)にはどこまでも深いものなのだけれど、そうではない対象(つまり風間ファミリー以外)にはどこまでも薄く、仲良くなることも心開くこともない。
自分が自分であるということ、そういった「自己のありかた」が彼女たちの強みであったけれど、同時に限界(弱み)でもあった。
しかしそれらは変えることが出来ます。自分ひとりではなかなか変えられないけれど、仲間のなかで、誰かとともにいれば変えていけることも出来る……そういったことが『まじこい』の主に個別シナリオにおいて語られていました。仲間が居るから、自己を変える必要が生じる、あるいは仲間が居れば、自己を変える必要が生じた時に大きな助けとなってくれる。


では、そういうのが全くなかった人間はどうなるか。たとえば釈迦堂さんのような―――


もの凄く端的に言うと釈迦堂さんがそういう人間を得るのがこのゲームのお話でだからヤベーよ最高だよステキだよー! そもそも高校生くらいよりこういうオッサンが救われる(てゆう言い方もアレですが便宜的に)話の方が個人的に好みだったりします。だってオッサンって普通救われないじゃん。わざわざ救われないじゃん。てゆうか年取ってくると「他人に救われる」ということ自体が枯渇してくるじゃん。そも年を取れば取るほど「自分」というものは呪いのように張り付いて変わることも変えることも出来なくなるのに、にも関わらず「変わって」しまうとか何このお話最高にプリティじゃん現代のシンデレラストーリーだよ!(ただしシンデレラはおっさん)


人間は変わることが出来る。高校生くらいの少年少女は言うに及ばず、オッサンだってまだ変われる。「得体の知れないバケモノ」のように子供の頃から忌み嫌われ、ツマハジキ者の怪しい人間にも、己を認めてくれる者は現れうる。

釈迦堂「…なぁさくらちゃんよぉ。そいつが言ったこと、マジなんだ…俺は元々、暗い仕事をしてたのさ」
釈迦堂「だいたい生まれからしていわくつきの人間なのさ。だからよぉ…」
さくら「…うーん。私、勉強はそれほど得意じゃなかったので、よく分かりませんが…」
さくら「釈迦堂さんは釈迦堂さんじゃないですか」
さくら「職業とか生まれとか関係ないですよ」

釈迦堂さんの性格・性質・姿勢的なものが実際何なのかは定かではありませんが、語られたあの「生まれ」、そして恵まれすぎた身体能力、それに伴う迫害が今の彼に大きな影響を与えているのは確かでしょう。そこからはじまり暗い仕事にまで進んでいった。それが今までの三十何年だか四十何年だかの釈迦堂さんの人生であり、その道を歩いてきたから今の釈迦堂さんが在り、その過去があったから釈迦堂さんは今のような人間である。それが釈迦堂さんの今の「ありかた」だ。その礎になっているのはこれまでの人生。……それは多分、僕たち現実の人間とそう変わらないでしょう。僕らだって、過去があり、今の自分があって、それはどうしようもない。自分が自分であること、それに自分の過去や生まれが大きな影響を与えていることはどうしようもなく拭えない呪いのような事実だ。でも、そんなものは関係ないと、ここで斬って捨ててるのです。「釈迦堂さんは釈迦堂さん」だと。「あなたはあなた」だと。得たいの知れないバケモノと周りから見られて、だからこそ得体の知れないバケモノとしか生きられなくて、暗い仕事をするツマハジキ者として生きて、よりどんどんツマハジキ者となり、全うな社会生活から遠く離れ、遂に無職の放浪者となり、そして今に至った釈迦堂さんのその過去を、職業とか生まれとかを、「関係ない」と切り捨てているのです。職業も生まれも「釈迦堂さんには」関係ない、と。
だから変われる。人は変われる。
そう、そもそも、本当は、本心では、心のどこかでは。

釈迦堂「ダラダラ生きてるのも、つまらなかったからな」

と言ってるのだから。「ダラダラ生きてるのもつまらなくなった」ではなく、「つまらなかった”からな”」。つまり元々そうだった(そうでもあった)わけです。たとえば全財産の千円をパチンコか酒に使って終わりとか、その日暮らしで朝飯食ったらじゃあ寝るっていう無職生活とか、そういうダラダラとした生が*1、そう実はもともと、つまらなかった。それを止めることが出来た(変わる決心がついた)。彼女に「釈迦堂(自分自身)の過去」と「今の釈迦堂(自分自身)」は「関係ない」と認めてもらうことで。今までの自分の人生の道の延長線上をなぞりながら生きる必要なんてないのです。自分の人生の道の続きがダラダラとした無職生活だとしても、それを続ける必要はない。過去も何もかも関係ないと斬っちゃって変わっていい。変わることが出来る。


これはですね、どうしようもない無職おっさんが社会性を取り戻したりクズが真人間に近づいたりっていうお話ではありません(ちょっと違う)。「俺も真っ当になりたくて、とりあえずバイトからはじめてみたわ……」、ではなく、いやそういう気持ちが全くのゼロとは言えませんけど、しかし「まかない」が重要なファクターであったように、真人間になるために仕事し出したわけではない。一番重要なのは「変わること」。ダラダラ生きることからの脱却、つまりかつての釈迦堂=自分自身からの脱却。「自己のありかた」そのものを変える行為ではないでしょうか。真人間になるとしたら、その結果としてではないだろうか。「定期的に仕事できる性分じゃない」「あればその歳で?ダメじゃん」というやり取りがありましたが(今回のゲームで一番爆笑したところ)、そういう「性分」というところ、それを変える、変えていく。それが自己を超克することであり、変化であり、そしてその先に、新しい釈迦堂さんの人生の道が、続いていく。
その中心にあるのがさくらの言葉で、その原動力がさくらの存在で、そうだから、ゲームラストの文章、「釈迦堂さんの純愛ロード」がここからはじまっていくのです。(てゆうかはじめろよ=続きプリーズみなとそふと

釈迦堂「…つってもあの花は売れ残ってるな」
さくら「ハイ・ブラッディですか。通常のハイビスカスと違い、花が血のような色なので好みが分かれているのかと」
釈迦堂「ああ。まあそんなもんだよな」
釈迦堂(…特異な存在はどこだって敬遠されるもんだ)
さくら「でも私は好きなんですけどね、この花」
釈迦堂「…」
さくら「何があってもタフにマイペースに咲き続けてるんです」
そう言いながら、彼女はその花の手入れをしていた。

釈迦堂さんが(シナリオが)ハイ・ブラッディと自身を重ねているのは言うまでもありませんが、このさくらさんの最後の言葉。「何があってもタフにマイペースに咲き続ける」にも関わらず、そうだからってサボったり手抜きしたりせずに、彼女はその花を手入れするのです。放っといても大丈夫、なんて相手でもちゃんと手を差し伸べる(戦いの後の両者への治療とか、お母さん気質とかがまさにそれを裏付けている)。
釈迦堂さんは、何があってもタフにマイペースに釈迦堂さんであり続けるでしょう。だから普通はわざわざ手を差し伸べない。そんなことしなくても彼なりに大丈夫なんだから。もしかしたらそうだからこそ、誰も彼を手入れなんてしなかったかもしれない。でも、彼女はたとえそうだとしても、手を差し出す。そうだからこそ、彼女の言葉は釈迦堂さんの心に届いたのだろうし/心に届くような言葉が発されたのだろうし、そしてそんな人間だからこそ、釈迦堂さんの傍に誰よりも必要な存在であるのだろう、と思う。

*1:いや、「ダラダラ生きてる=そういうこと」ってのは「多分」ですが。

『エロゲー文化研究概論』感想(評価:星5つ)

エロゲー文化研究概論

エロゲー文化研究概論

  • 作者: 宮本直毅,エマ・パブリッシング
  • 出版社/メーカー: 総合科学出版
  • 発売日: 2013/01/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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読書しながら鳥肌が立ちっぱなしなんて経験はいつ以来だろう。もの凄く素晴らしかったです。「エロゲの歴史を語る」みたいなのはインターネット上でも幾つか読むことが出来ますが、さすが有料なだけあって本書の内容はそれらより何枚も遥かに上。まだざっとひととおり目を通した程度ですが、amazonで評価付けるなら間違いなく星5。ちょこっと感想を書いてみます。

一言でいうと、「エロゲー創成期から現在まで追った」のが本書の内容です。クリエイターへのインタビューも著名人の寄稿も一切なし。30年続くエロゲー史を約250ページに渡りただひたすら追求し続けた「ガチ」な一冊。
最初に、そもそもパソコン誕生以前から、野球拳だったり、お医者さんごっこだったりという「エロい遊び」という意味での非電源エロゲーは存在していたという話からはじまります(ちなみに日本最古のエロゲーは「野球拳」であり、エロゲ初期に一世を風靡した『ロリータ』のキャッチコピーは「お医者さんごっこ」だった)。正確には、「遊び+エロ」と、「エロ+遊び」がある。野球拳のようなエロがある遊びと、お医者さんごっこのようなそもそも遊びそのものがエロいものであるという非電源エロゲーがある。これが個人的には目からうろこでした。現在のエロゲーもそうで、アドベンチャーやノベルゲーム形式だからという理由だけで快楽があるのではなく、女の子との恋愛や凌辱があるからというだけの理由で快楽があるのでもなく、エロい遊びだから、あるいは遊びとエロがセットになっているからこそ快楽があるのではないでしょうか。ストーリー重視作品なら「物語とエロ」と言い換えられる。「むしろ麻枝准はエロに頼りすぎなのだ」*1という名言があるのですが、Keyのようなメーカーでもその「薄いエロ」がどれだけ物語に(何より、プレイヤーである自分に)とって意味があったか。最近、エロがない『Rewrite』をやってるのですがその辺を本当痛感します。

さて、インターネットでエロゲーの歴史的なものを調べると、1982年発売の光栄『ナイトライフ』が日本エロゲの元祖だという言説が多く見受けられますが、本書ではそうではなく、1981年発売のハドソン『野球拳』が元祖ではないかと綴られています。ただこれは正確な資料や博物館があるわけではなく(なにせもう30年も前、当時の製作者もユーザーも今では還暦迎えててもおかしくないほど昔なのだ)、つまり著者が知る限りであり、他に何かあれば教えてほしいとも併記されています。ちなみに海外では、1970年代後半には既にエロゲーが存在していたと語られています。そう、実は海外オリジナルのエロゲーというのも、昔からあるんですよね。この本は殆ど日本国内オンリーの内容でしたが、誰か海外エロゲーの歴史とかまとめてくれたりしませんかねー。買うよ。

その後も『団地妻の誘惑』『天使たちの午後』、パソコンショップ高知、アリスソフトカクテル・ソフト……当時のメインシーンを走っていた様々なタイトル・メーカーを取り上げながら文章は進んでいきます。これが凄い。いや自分がまったく知らない時代だからこそかもしれませんが、まさに博覧強記、エロゲの生き字引、エロゲマイスターといった感じです。もちろん有名な『SM調教師瞳』やハッカーインターナショナルといった「家庭用ゲーム機におけるエロゲー」にも触れている。てゆうか『桃鉄』における温泉お色気シーンを皮切りにしたファミコンゲーム(一般ゲーム)温泉等お色気シーンがあるタイトル一覧にはマジで度肝を抜かれました。この人なんでそんなことをこんなに知ってるの。正直著者の方に尊敬すら覚えるほど。
その後もPC-9801時代、PC-9821時代と話は進んでいきます。自分としては『リップスティックアドベンチャー』とか『はっちゃけあやよさん』あたりからようやく親近感を覚える話になってきました(プレイしたことはないですが)。『同級生』『同級生2』あたりからは知ってる時代という感じでしたね。ちなみに『同級生』は、元々はストーリーはもっと薄くて女の子とHするだけに近いモノになる予定だったのが、上げられてきた竹井正樹氏によるキャラクター絵を見た蛭田昌人氏がそれに惚れこみ、ヒロインたちを単にHするだけの存在にするのではなくもっと深いものにしたいというところから、現在我われが知る『同級生』の形が出来上がったようです。

ついでに本書に全然関係ない余談なんだけど書きたくなったから書いちゃうので次の段落まで飛ばしていただいて構わないのですけど、いわゆる「ナンパゲー」は徐々に勢力を弱くして00年代に入るとほとんど見かけなくなると思うのですけど、これは物語重視のゲームに追いやられたのではなく、現実でも「ナンパ」という行為が90年代後半からめっきり流行ではなくなったところにあると思うのです。行楽地とか観光地とかは別ですけど。代わりに若い男女の出会い・遊びは「合コン」にシフトしました。で、エロゲーも「合コンゲー」にシフトしたと思うんですよ。たとえば5人くらいの女の子がいて、名前と簡単なプロフィール・肩書きくらいは分かって、喋ってどういう子か知って、お互い気が合えばそれをきっかけに実際付き合っちゃったり、あるいはその場限りでセックスだけしたり、友達になるなんて場合もある。これが90年代後半から現在にかけてエロゲのよくあるフォーマット―――共通ルートでヒロインたちのことを知って、気に入ったらその子を追いかけるような選択肢を選んで/あるいはプレイヤーが選んだ選択肢を女の子が気に入ったら、それをきっかけに個別ルートに入って付き合う・抜きゲーだったらぱぱっとセックスする―――それとまったくと言っていいくらい同じ。つまりナンパゲーが廃れたのは現実において男女の遊びからナンパが廃れたから、そして現実において合コンが一大勢力を築くとともにエロゲーには合コンゲー(よくある共通ルートで女の子を知り、そして選んで、個別ルート)が覇権を握った、と考えられるのですがいかがでしょうか。ナンパ(ナンパゲー)から合コン(合コンゲー)への変化は何故起きたかというのは社会反映論とかやればいかにもそれっぽいのが仕上がりそうだけどやるまでもなくクソなのでやらない。

で、『エロゲー文化研究概論』の話に戻りますが、当時はどうだったか、社会情勢はなんだったか、といったことが折に触れて書かれているのですが、だからって社会反映論的なものを殆どしないのです。とゆうか、出来るんですよね。この書き方だと読者は勝手にすると思うのですが(連想しやすいように整理されている)、しかしそんなものに手は出さない、材料は用意したので後は読者が勝手にしろと言わんばかりに。こういうところもまた誠実さを感じさせて素晴らしいです。
そもそもとして、この本は、「主観を出来るだけ排除して書こうとしているんじゃないか」と思わせる感じがあります。いや勿論、主観がまったくないわけではないんですけど。たとえばボクがよく覚えているのは、90年代後半のエロゲ雑誌(なんだったかは忘れた……メガストアだったかな)のコラムコーナーにて主観バリバリでエロゲの歴史みたいなのが語られていて、そこではPC98シリーズからWINDOWSへの移行で「WINDOWSでは『闘神都市Ⅱ』と『To Heart』が出来るというので、みんなPC-9821から(PC98-NXではなく)WINDOWSに乗り換えた」みたいなことが書かれていまして、それが印象に残っていたのです。今考えると『闘神都市Ⅱ』はそもそもPC98でとっくに出て人気を博しまくってたので(『To Heart』は出なかったけれど)、そういった経緯がどこまで一般的なものだったのかはちょっと怪しい気もするのですけど。しかし少なくともこの人の周りではそうだったわけで、それは時代の空気を一部ながら表している。そういった「主観」、それは本当に良し悪しあるんですけど、その「主観」がこの本では非常に抑えられていたかなと。主観丸出しな箇所は、ちゃんと「主観」であることを表明する(あるいはそうと分かるように書く)ようにされていますし。つまりこれは、ある意味マジで歴史書なのです。エロゲーの歴史書。いずれはこれを凌駕するさらなるエロゲ歴史書を(何処かで誰かが)上梓してくれると期待しているのですが、それまでは本書がエロゲの歴史として最も参照されるものになるのではないだろうか。この内容、そして(こういった類の本が殆どないという)この現状からも。だからこそ、なるべく主観を排そうとしているこの作りは、個人的にとても良いと思いました。

上に書いた古い作品からはじまり、『Kanon』や『AIR』や『Phantom』や『CROSS†CHANNEL』、『俺たちに翼はない』『Fate/stay night』さらにはアニメから『魔法少女まどか☆マギカ』、地味目なところでは『うちの妹のばあい』『こいびとどうしですることぜんぶ』などなどなどなどなど(タイトルを羅列してるだけで日が暮れるので書ききれません)。30年以上に及ぶエロゲの歴史、その全て―――というわけにもいきませんが、その中でも有名な作品、知名度の高いクリエイター、大きな存在(だった)メーカー、隣接項としてのコンシューマ・アニメ・雑誌・小説。はては社会情勢からおたくという存在の変化。そういった「エロゲ」の歴史にまつわる様々なことを、記し並べ紹介し整理する。そんな一冊でした。


30年の歴史を誇るエロゲーですが、30年前のゲームを今プレイするのは困難です。てゆうか現代においてまだ気軽にプレイできるのはWIN98、少なくともWIN95までではないでしょうか。WINDOWS以前となると、プレイ環境を整えるのが難しいし、ソフトを手に入れるのも難しい。20年前の本を読めといわれてもプレミア付いてる本や希少本以外なら簡単に安値で入手し読むことが可能でしょうが、エロゲーの場合そうではありません。20年前のエロゲーをプレイするには、今でもちゃんと動く昔のPCを用意して、さらに今でもちゃんと動くソフトも用意して、といった手順を踏まなければならない*2。言うなれば、すべてがプレミア付きで希少みたいなものです。だからこそ、昔を知る人間は、現在の人間にその「昔」を語らなければならない。―――みたいなことが本書の中に書かれているのですが、この本自体がまさにそれを体現しておりました。僕たちは知らない。90年代を知らない。80年代を知らない。でも、知らない「それ」を、この本が教えてくれる。実際この本のコンセプトなのかもしれません、基本的には古ければ古いほど記述が多くて、2004年までの記述が本書の8割を占めています。もちろん2005年以降が無いというわけではありませんし、要点は抑えられていますが、しかしそれ以降に対する記述は明らかに少なくなっている。けれどそれは正しくもあるのです。この本を買う人はエロゲプレイヤーが多いと思いますが、だったら最近の話は聞かなくても分かるし、振り返るほど時間も経っていない。分からないという人も、あるいはエロゲ全然やらないという人も、インターネットで検索すればいいのです。80年代のことは語ってくれるサイト自体が殆どないけれど、ここ数年のことなら何処にでも情報が溢れている(溢れすぎてて逆に難しいという可能性はあると思いますが)。だいいち、ここ何年かだったら、人に話を聞くよりも、自分でプレイした方が早くて正確だ。80年代のタイトルと違って、ここ何年かのタイトルならば、プレイ環境を整えるのも、ソフトを手に入れるのも楽ちんなのだから。

*1:http://kaolu4s.sp.land.to/okiba/imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#3

*2:エミュでなんとかなる場合も多いですけど。