『釈迦堂さんの純愛ロード』感想

まさかの『釈迦堂さん』感想。何そのゲーム聞いたことないって方はググれば分かるので各自ググって下さい(ただし2013年4月1日限定。それ以降ではじめてこのゲームの存在知った人は何も見なかったことにしてブラウザ閉じて不貞寝するとよろしいかと。世の中には知らない方が良いことが確かにある……!)。このようなことを行ってくれたみなとそふとに多大な感謝と賛辞を。



で、ですね。これ、めっちゃ好みでした……!




このハイ・ブラッディに桜が咲いてくアイキャッチとかステキすぎるまさにその通りの内容!



まずは『真剣で私に恋しなさい!』を思い出そう。

「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」
「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」

彼女たちの性格・性質・姿勢的なものは、まず最初からはっきりしています。百代の誠、自分への実直さ、すなわち真剣さ。一子の勇、勇猛果敢、引かず諦めず走り続ける姿勢。クリスの義、ルールや規則、自らが正しいと信じることの絶対遵守、自らの信じるものを貫き通す。京の仁・愛、大和への、そして仲間への愛の深さ、そしてその姿勢を持ちえている故彼女は、その対象を周りにも広げることができる。まゆっちの礼、他者への礼が逆に自らを堅くして、人付き合いが上手くいかないほど。(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-30.html むかし書いたまじこい感想より)
それらが生まれ付いてのものなのか、生きていくうちに身についたものなのか、あるいはその両方なのかは定かではありませんが、彼女たちの「ありかた」というモノははっきりしていた。そして同時に、(その時の彼女たちにおける)それが孕む限界もはっきりしていた。たとえばクリスの「義」を重んじすぎる姿勢が、大和あるいは他の皆との間に軋轢を生んだり、京の「仁・愛」は、それを向ける対象(つまり風間ファミリーの仲間)にはどこまでも深いものなのだけれど、そうではない対象(つまり風間ファミリー以外)にはどこまでも薄く、仲良くなることも心開くこともない。
自分が自分であるということ、そういった「自己のありかた」が彼女たちの強みであったけれど、同時に限界(弱み)でもあった。
しかしそれらは変えることが出来ます。自分ひとりではなかなか変えられないけれど、仲間のなかで、誰かとともにいれば変えていけることも出来る……そういったことが『まじこい』の主に個別シナリオにおいて語られていました。仲間が居るから、自己を変える必要が生じる、あるいは仲間が居れば、自己を変える必要が生じた時に大きな助けとなってくれる。


では、そういうのが全くなかった人間はどうなるか。たとえば釈迦堂さんのような―――


もの凄く端的に言うと釈迦堂さんがそういう人間を得るのがこのゲームのお話でだからヤベーよ最高だよステキだよー! そもそも高校生くらいよりこういうオッサンが救われる(てゆう言い方もアレですが便宜的に)話の方が個人的に好みだったりします。だってオッサンって普通救われないじゃん。わざわざ救われないじゃん。てゆうか年取ってくると「他人に救われる」ということ自体が枯渇してくるじゃん。そも年を取れば取るほど「自分」というものは呪いのように張り付いて変わることも変えることも出来なくなるのに、にも関わらず「変わって」しまうとか何このお話最高にプリティじゃん現代のシンデレラストーリーだよ!(ただしシンデレラはおっさん)


人間は変わることが出来る。高校生くらいの少年少女は言うに及ばず、オッサンだってまだ変われる。「得体の知れないバケモノ」のように子供の頃から忌み嫌われ、ツマハジキ者の怪しい人間にも、己を認めてくれる者は現れうる。

釈迦堂「…なぁさくらちゃんよぉ。そいつが言ったこと、マジなんだ…俺は元々、暗い仕事をしてたのさ」
釈迦堂「だいたい生まれからしていわくつきの人間なのさ。だからよぉ…」
さくら「…うーん。私、勉強はそれほど得意じゃなかったので、よく分かりませんが…」
さくら「釈迦堂さんは釈迦堂さんじゃないですか」
さくら「職業とか生まれとか関係ないですよ」

釈迦堂さんの性格・性質・姿勢的なものが実際何なのかは定かではありませんが、語られたあの「生まれ」、そして恵まれすぎた身体能力、それに伴う迫害が今の彼に大きな影響を与えているのは確かでしょう。そこからはじまり暗い仕事にまで進んでいった。それが今までの三十何年だか四十何年だかの釈迦堂さんの人生であり、その道を歩いてきたから今の釈迦堂さんが在り、その過去があったから釈迦堂さんは今のような人間である。それが釈迦堂さんの今の「ありかた」だ。その礎になっているのはこれまでの人生。……それは多分、僕たち現実の人間とそう変わらないでしょう。僕らだって、過去があり、今の自分があって、それはどうしようもない。自分が自分であること、それに自分の過去や生まれが大きな影響を与えていることはどうしようもなく拭えない呪いのような事実だ。でも、そんなものは関係ないと、ここで斬って捨ててるのです。「釈迦堂さんは釈迦堂さん」だと。「あなたはあなた」だと。得たいの知れないバケモノと周りから見られて、だからこそ得体の知れないバケモノとしか生きられなくて、暗い仕事をするツマハジキ者として生きて、よりどんどんツマハジキ者となり、全うな社会生活から遠く離れ、遂に無職の放浪者となり、そして今に至った釈迦堂さんのその過去を、職業とか生まれとかを、「関係ない」と切り捨てているのです。職業も生まれも「釈迦堂さんには」関係ない、と。
だから変われる。人は変われる。
そう、そもそも、本当は、本心では、心のどこかでは。

釈迦堂「ダラダラ生きてるのも、つまらなかったからな」

と言ってるのだから。「ダラダラ生きてるのもつまらなくなった」ではなく、「つまらなかった”からな”」。つまり元々そうだった(そうでもあった)わけです。たとえば全財産の千円をパチンコか酒に使って終わりとか、その日暮らしで朝飯食ったらじゃあ寝るっていう無職生活とか、そういうダラダラとした生が*1、そう実はもともと、つまらなかった。それを止めることが出来た(変わる決心がついた)。彼女に「釈迦堂(自分自身)の過去」と「今の釈迦堂(自分自身)」は「関係ない」と認めてもらうことで。今までの自分の人生の道の延長線上をなぞりながら生きる必要なんてないのです。自分の人生の道の続きがダラダラとした無職生活だとしても、それを続ける必要はない。過去も何もかも関係ないと斬っちゃって変わっていい。変わることが出来る。


これはですね、どうしようもない無職おっさんが社会性を取り戻したりクズが真人間に近づいたりっていうお話ではありません(ちょっと違う)。「俺も真っ当になりたくて、とりあえずバイトからはじめてみたわ……」、ではなく、いやそういう気持ちが全くのゼロとは言えませんけど、しかし「まかない」が重要なファクターであったように、真人間になるために仕事し出したわけではない。一番重要なのは「変わること」。ダラダラ生きることからの脱却、つまりかつての釈迦堂=自分自身からの脱却。「自己のありかた」そのものを変える行為ではないでしょうか。真人間になるとしたら、その結果としてではないだろうか。「定期的に仕事できる性分じゃない」「あればその歳で?ダメじゃん」というやり取りがありましたが(今回のゲームで一番爆笑したところ)、そういう「性分」というところ、それを変える、変えていく。それが自己を超克することであり、変化であり、そしてその先に、新しい釈迦堂さんの人生の道が、続いていく。
その中心にあるのがさくらの言葉で、その原動力がさくらの存在で、そうだから、ゲームラストの文章、「釈迦堂さんの純愛ロード」がここからはじまっていくのです。(てゆうかはじめろよ=続きプリーズみなとそふと

釈迦堂「…つってもあの花は売れ残ってるな」
さくら「ハイ・ブラッディですか。通常のハイビスカスと違い、花が血のような色なので好みが分かれているのかと」
釈迦堂「ああ。まあそんなもんだよな」
釈迦堂(…特異な存在はどこだって敬遠されるもんだ)
さくら「でも私は好きなんですけどね、この花」
釈迦堂「…」
さくら「何があってもタフにマイペースに咲き続けてるんです」
そう言いながら、彼女はその花の手入れをしていた。

釈迦堂さんが(シナリオが)ハイ・ブラッディと自身を重ねているのは言うまでもありませんが、このさくらさんの最後の言葉。「何があってもタフにマイペースに咲き続ける」にも関わらず、そうだからってサボったり手抜きしたりせずに、彼女はその花を手入れするのです。放っといても大丈夫、なんて相手でもちゃんと手を差し伸べる(戦いの後の両者への治療とか、お母さん気質とかがまさにそれを裏付けている)。
釈迦堂さんは、何があってもタフにマイペースに釈迦堂さんであり続けるでしょう。だから普通はわざわざ手を差し伸べない。そんなことしなくても彼なりに大丈夫なんだから。もしかしたらそうだからこそ、誰も彼を手入れなんてしなかったかもしれない。でも、彼女はたとえそうだとしても、手を差し出す。そうだからこそ、彼女の言葉は釈迦堂さんの心に届いたのだろうし/心に届くような言葉が発されたのだろうし、そしてそんな人間だからこそ、釈迦堂さんの傍に誰よりも必要な存在であるのだろう、と思う。

*1:いや、「ダラダラ生きてる=そういうこと」ってのは「多分」ですが。