エロゲの演出の話/『魔法使いの夜』、他いろいろと

minori作品に「映画的」という惹句が付けられるたびになんだかなーと思っていましたが(てゆうかminori公式自身が「映画的」言ってるの知ったときは軽くショック受けましたが)、ああこれでようやく理解できました。なぜ「映画的」なのか。

さて「動く」「動きがある」ことがそのまま映画的である、というわけではありません。動いてるから映画的だ、なんて言ったら映画ファンがぶちぎれるでしょう。では映画的なコンテ・カメラワーク・演出・編集によって作られているから映画的なのか。その方がまだ正解に近い。しかしもうちょっと正しく言うならば、それらをいかに「運動」に留められているかということではないだろうか。一番簡単な見分け方は、たとえばキャプ画像を並べ挙げたとして、それで何が伝わるのかという疑問を抱けるか否か。
映像作品の本質は「動くこと」ではない。というか映画における「動き」というのは、正しくは「運動」と呼ぶべきでしょう。ここでいう「運動」というのは分割不可能性を持った(一連の)現象のことで、たとえばジル・ドゥルーズが『シネマ』で幾度も言及していたそれですね。人物の運動というものは、ある箇所で切り取ったら・ある箇所だけを切り取ったら、全く別物になってしまう。この「運動」というのは、人物が動くさまだけではなく、もっと大きい単位まで敷衍できます。人物の動き、人物以外のオブジェクトの動き、カメラの動き、それらの編集、他もろもろ。そういったものから出来上がる眼前に映し出される映像、それ自体がひとつの「分割不可能」な「運動」である。それこそドゥルーズで言うなら「強度」だ。たとえば、人物だけを取り出したり、ある時点だけを取り出したら、それはもう全くの別物になってしまうわけです。最も有名な映画技法である「モンタージュ」などまさにそうでしょう。複数のカットの連続ではじめてその技法は成立しているのであって、どれか一つのカットだけを取り出したら全く成立しなくなる。
モンタージュに限らず全てがそうで、何か一つだけを切り取るとそれは全く別物に変わってしまう。たとえばアニメの「画面キャプチャ感想」というのは世の中に溢れかえっていますが、あそこに表示されている画像が”アニメ本編のなにかを指示対象にできていない”というのは、ちょっと注意してみれば分かると思います(栞や付箋的な、「このシーンですよ」という意味なら話は別ですが)。キャプチャ画像というのは、一連の運動から運動そのものを抜きさっており、ゆえにアニメ本編におけるそれとは別物に成り果てている。いや最近アニメ感想サイト見てからアニメ本編を見ることが何度かあって、そのたびに、感想サイトのキャプ画像から受ける印象と、同じシーンの実際のアニメ映像から受ける印象はやっぱ全然違うよねと再認識しまして(アニメ見てから感想を見るとあんまそうは思わないのですが)。「画面キャプチャ感想には(著作権的な意味とは別に批評的な意味で)細心の注意を払うべき」といった意見を今まで何度か見かけましたけど、本当そうだと思います。そもそも分割不可能な運動として成り立っている、映像に存在するありとあらゆるもの(キャラクターの動き、背景の動き、コンテ・カット割りの流れ、物語、音、エトセトラ……)の中から、無理矢理「その瞬間」だけを切り取っているわけだから、それは当然別物になってしまう。

ということで、このお話の発端となった記事。
■ノベルゲームの「ゲーム性」について〜minori編〜 - narcissus(http://okubswa.blog.fc2.com/blog-entry-2.html

そういう意味で、minoriは「運動」を成し遂げていると言える。なるほどだからある意味において「映画的」である。たとえば、上にあげたリンク先で『eden*』の演出を画面キャプチャで紹介されておられますが、これだと本来伝えたいものの数パーセントも伝わっていないのではと危惧しております。実際ボクには(eden*未プレイなのもあって)何がどう凄いのかさっぱり分からん。実際にゲームやったらどんな感じになるのか、このキャプだけだとまったく分かりません。多分未プレイの人はみんな分かってないと思うんですけど。キャプチャには音楽・音声が存在しないから、というのは勿論ありますけど、それだけではなく、本来あるはずの画面遷移、クリック毎に移り変わっていく画面の「運動」が、ここには(キャプチャには)無いから。本来持ってるそのカットの意味、計算されたコンテの流れ、そういったものが消失しているから。1個1個切り取られたキャプチャには、運動が欠落している。だから正直、このようにキャプチャで並べられても、まったく伝わらないと思うのです。
そしてそれこそが、minori作品がある意味で「映画的」とも取れるような「運動」を確立している証左でしょう。まさにご覧のように、minori作品というのは、たとえば1クリック毎に画面キャプチャして、それをずらっと並べても、ゲームをプレイした時にあるものが、まったく伝わらない。逆に普通のエロゲというものは、それでもある程度伝わるものだったりします。いま試しに適当なエロゲを20クリック分くらいキャプって、それをスライドショー再生してみたのですが、思ったより違和感なかった。これに音声と音楽をなんとか同期させれば、激しい立ち絵芸が繰り広げられるゲームでもない限り、結構いけちゃうんじゃないでしょうか。―――いや、立ち絵芸しててもあんま問題ないかもですね。いま、結構激しい立ち絵芸をする『まじこい』で試してみましたが、何も伝わらないということはない(勿論、普通にプレイする場合に比べればうんこみたいなものですが)。逆に、漫画的吹き出しチックな『猫撫ディストーション』で試してみるとかなり伝わらない。あれは人物と吹き出しとその遷移が動的になれているからこそ面白いんでしょうね。多分FFDなんかで試しても酷いことになりそうですね。……えーとこの辺の例、こうやってブログに書いてあるの読んでもマジで何も伝わらないと思うので、お手元のエロゲで実際に試してみると良いかもしれないです。
そういうわけで。ただ画面キャプチャを並べただけでは伝わらない。なぜなら、動的であるから、運動であるから、―――つまり言い換えれば「映像的」であるから。それは殆ど全ての映画においても同じことが言えます。映像とは、動くという意味ではなく、分割不可能な運動という意味である。もちろん、そういう以前に、コンテ・カメラワークからして、映画的……映画的っぽい感じであるからこそ、minori作品に「映画的」という惹句が張られるわけでしょう。とはいえ自分はminori作品、昔に『ef』をやったきりで深く語れる状態ではないので、勝手に『魔法使いの夜』の演出の話をはじめてもいいですかねー。


映像作品における映像とは何か。現実にあるものをしっかり撮って、それを忠実に映し出すこと? 報道やドキュメンタリー、実録作品ならばそうであると言えるかもしれませんが、しかし大抵のエンターテイメント作品はそれ以上を求めている。だから編集や演出が必要なのです。現実そのとおりに映すならコンテも書かないしCGを使う理由もない。編集で手を加えるなどもってのほかだ。そうではなく。ただ見えるものを映すのではなく、ただカメラに映るもの描くのではなく、それ以上のものを映そうとしているからこそ、編集や演出が存在するのです。現地で生で見たときに在るライブ感、一回性、アウラ、そういったものが映像からは消失しているからこそ、それ以上のものを映像に与えよう。人間の眼球に見えるもの以上のものを映すのがカメラの存在意義だ。映像とは現実を「現実以上・現実以外」のものへと改竄する魔法である。そこにおいては、たとえ映像作品であっても「動くかどうか」というのはクリティカルではありません。特に、アニメやゲームなどの非実写作品においてはよりそうである。たとえばよく言われている「シャフト演出」というのがそれを証明していますね。いやまあ賛否はあるんですけど。で、『魔法使いの夜』の演出を凝縮したような感じで好きなシーンがここ(クリックで大きな画像が表示されます)。













2つ目の画像と最後の3つだけは異なりますが、それ以外は全部ワンクリックごとの画像です。1回クリックするごとに変わっていく画面の遷移を並び立てあつらえました。まあ今まで書いてきたように、未プレイの方にとって、これだと実際がどんな感じなのか全然伝わらないだろうと思われますw えーと未プレイの方には、実際はこんなんじゃないよ、もっとちゃんと凄いよ!と言っておきたい(実際にはこの状態からカメラが動いたりもするわけです)。
一目で分かるように、通常のエロゲとの一番の違いは、カメラの解放にあります。大抵のエロゲのカメラというのは、実際のところ、主人公(視点人物)が見ているものの表象をそのまま写しているような形態になっています。彼がいるところの背景があって、ヒロインやサブキャラといったそこに居る人物が描かれている。これらは勿論イメージ映像的なものであり、実際とは異なりますが(たとえば、教室の背景絵というのは大抵一種類しか用意されていなくて、彼が教室のどこにいてもその背景が表示される。それが「彼に見えているもの」を正確に示しているわけではないのは明らかでしょう。つまり、写されているのは、教室という表象である。人物配置もそれと似たような理路)、しかし”エロゲのカメラはそうやってこの現実を映し出している”。
魔法使いの夜』は、そういったところから抜け出しています。それによる欠点は、見れば分かるように、すっげー手間がかかりそうなところ。そりゃ延期も繰り返しますよ。それによる利点は、なんと分かりやすい、現実を現実以上に映すということ。映像作品の十八番権能だ。しかも「動くかどうか」ということと殆ど関係ない状態で機能しているのだから、これはもうある意味、いわゆる「シャフト演出」に近い。てゆうかパッと見からそれっぽい感じがしないでしょうか。
さて、『まほよ』演出。いわゆる「立ち絵芸」が紡ぎだすのはキャラクターの演技による表現です。キャラクターの表情や動きがそれらを表現している。噂の最新技術「E-mote」(サンプル: http://www.youtube.com/results?search_query=e-mote&oq=e-mote&gs_l=youtube.3..0.1178.7097.0.7369.10.8.2.0.0.0.1985.3265.1j4j1j5-1j8-1.8.0...0.0...1ac.1.GTpUZDA-ydM)なんかでもその辺りは脱しないでしょう(てゆうか、その辺りを強化するものでしょう)。しかし問題点としてパターン数が限られていることと、リンク先の方も仰ってましたね、テキストとの軋轢、といった点があります。まあそれ以前に、ぶっちゃけてしまうと、そこまでの演出が必要な/欲しい場面がどんだけあるのかという点があるんですけどね。たとえば現実の僕らも、他人と会話するときに、必ずずっと相手の表情やしぐさを観察しているわけではありません。初対面ないしあんまり知らない人相手とか、よっぽど重要な会話とか、間違えられない時なんかは、そういった現実の人間の「身体と表情という名の立ち絵」の変化も慎重に観察するのですが、しかし適当な雑談のときに四六時中ずっとそんなことするだろうか。相手の反応を伺いたいとき・相手の本心を伺いたいとき……そういう思いが少しでもないと、いちいち観察しないではないだろうか。言葉だけでなく身体や表情もコミュニケーションに含まれますが、だからってコミュニケーションに含まれる全ての機能を使ってコミュニケーションしてる奴なんてまずいないわけです。勿論我われエロゲーマーとは、現実の人間との会話よりモニターの中のあの子やあの娘との会話の方が百倍大事だったりするお茶目な人種なので、現実の人間よりむしろエロゲ立ち絵の方こそ頑張って観察することになるだろうと思われますが。えーと要するに何が言いたいのかといえば、約1年前に「E-mote」のプロトタイプやベータ版とでもいえるような(直接的な技術関連性があるのかは知りません。あくまで見た目上の話)、立ち絵の髪や身体やおっぱいが動きまくる『妹選抜☆総選挙』というエロゲがありましてね(サンプル: http://www.youtube.com/watch?v=6cnkQ-5Q5TU)、あれ、めっちゃ立ち絵のおっぱい動くんですけど、しかしねえ、とんでもなく大きなミスがあってですね、なんと、全裸立ち絵がないのですあのゲーム! なんのために立ち絵が動くのかといったら、髪のサラサラ感が5%、演技や演出が5%、そしておっぱいが90%だって、みんなもそう思うでしょう?なのに全裸立ち絵がないとか! なんという失態! なので、『ウィッチズガーデン』(これ書いてる時点だと明日発売)には、是非全裸立ち絵を搭載して欲しいですね。そしておっぱいを。出来れば、いや、絶対に貧乳で!
ということで、「E-mote」みたいなことやられても、しょーじき一番期待できるのは演出うんぬんよりおっぱいだよなと思ってしまうのです現状。『ウィッチズガーデン』が良い意味で裏切ってくれると嬉しいんですけどね(しかしいずれにせよ貧乳全裸立ち絵はお願いします)。これは言うなれば「演技」演出と「映像」演出の違いと言ってもいいかもしれません。立ち絵芸が作り出すのは基本的に何かを表現する演出ですが、カメラは在るものを変化させ無いものを捻出する世界改竄です。たとえば、キャプチャ画像の最初の1枚目・2枚目を見ていただきたい。ここではカメラワークだけで、そこに存在しない演技同等のものを生み出している。有珠が青子に対して、少し非難しているような場面です。


有珠「今日できなかったのは、少し痛いわね」 青子「だから反省してるって。学校優先は一人前になってから、でしょ」
ここでは敢えて有珠の顔を見せないようなカメラアングルがなされている(青子の顔もまた映さない)。こうすることにより、有珠がどれだけ怒っているのか、青子がそれにどんな表情で対応しているのかが、プレイヤーには分からなくなっている。これ一つとってみても、通常のエロゲ形式だとなかなか為しえないでしょう。


有珠「なら、いいけど」 無機質な有珠の声に、青子はぎり、と歯を噛んだ。
クリックすると、この画面になる。ここに来てようやく有珠の表情が映されるけれど、話は一段落ついた後で、先刻、どういう表情だったかは分からない。ただ今の表情と、「なら、いいけど」という回答、そしてそれが「無機質な声」という点から、なんとなくの想像は付く。

何度も書いてるように、多分キャプ画像だと(未プレイの方には特に)伝わらないと思うんですね。なのでこれは(てゆうかぶっちゃけこの記事全て)参考程度に聞いていただけるとありがたいのですが。ここでは、ご覧のように、実際に表情は変わっていない(映していない)し、立ち絵、その身体、それらも何も変わっていない(演技されていない)、あるいは変わっているかどうか(演技されているかどうか)分からないのですけど、立ち絵の演技と同等のもの、あるいはそれ以上のものが、カメラワークだけで生み出されています。たとえば通常のエロゲスタイルに置き換えるのだったら、有珠のちょっと怒ったような顔・ないし憮然じみた顔、クリックすると有珠の無機質にすました顔、そんな感じの変遷に相当するだろうものが、ここにあるわけです。しかし勿論、それらは直にイコールではありません。なにせ「映していない」わけですからね。実際どんな表情しているのか分からない。では何故映さなかったのか。それはつまり、そのまんまな答えで、「実際にどんな表情をしているのか見たくなかったから」(青子が、そしてプレイヤーが)、それと、「実際に映しても表現として足りないから」。プレイした人は分かると思いますが、有珠の怒ってる顔なんて存在しません。存在できません。有珠は、平たく言えば、表情の機微があまり表に現れないキャラクターなのです。いやまあ、それっぽい表情を、アップで映したり、あえてロングショットしたりとかで、いかにも怒ってる風に表現したされていたことはありますが、とはいえここは序盤の、ほぼ有珠初登場のシーンということもあってか出てきません。ですので、あえて顔を映さない。これは感心するくらい上手いですね。相手が怒ってるという場面で、相手の表情が怒っていなかったら、怒ってる表現としては十全ではないわけです。なら逆に顔そのものを映さなければ、プレイヤーは、怒ってるのではないか、不機嫌そうなのではないかと「見えない顔」を勝手に想像して補う。こんな感じで、(有珠に限らず)あえて顔を映さない、みたいな演出は『まほよ』において多々行われます。顔を見せるより、見せない方が、表情が伝わることもある。あえて演技を映さないということが、演技そのものより多弁になる場合もある。カメラワークにより、そこに存在しない演技を勝手に世界改竄して生み出している。


では3枚目以降の画像についても説明してみましょうか。

演出意図としては比較的分かりやすいと思います。まずここで青子が、自分の思索に入り込んでいく。いわば外界から切り離されて、自己の内的世界に入っていくわけです。その第一段階として、まず目の前の現実そのものが「軽く」失われる。それをここではモノクロで表現されています。

で、真っ暗になり、より自らの深いところに入っていく感が表現されている。

学園生活の外面(そとづら)と、今の生き方との折り合い。
その独白通りに、左半分は学園の風景、右半分は制服を着たそこで生きる自分の外面、ただし顔が隠されているようにあくまでそれは外面であって、自分自身の全容ではない。

現代に隠れ住むというけれど、その隠れ方が半端だと有珠は言っている。
現代社会、街の風景、その中に居る自分。でも風景に溶け込めていないで、自分だけ違う色で浮いている。しかも赤色。赤色というのは、魔法使いとしての蒼崎青子の色です。最後までやれば分かりますが、世界の異分子たる魔法使いとしての青子の色は赤色である。それがこの社会から浮いている。しかも場所は、街と魔女のお屋敷を繋ぐ坂道の入り口なのです。完璧なまでに象徴的でしょう。―――と、このように文章で説明すると二百文字くらいかかるものを、ここではたった一枚の画像で創り出しています。

で、今度は自己の深みから戻る途上の真っ暗な領域があり、

ここで現実に戻るわけですが、(クリックして大きい画像見ると分かると思いますが)ピントが少しぼけている。これは現実に戻ったばかり故のぼけでもあるし、ここでの発言( つまり、彼女の沈黙が語るところは――。 青子「覚悟を決めろって言いたいのよね、あんたは」 )が有珠の心の中を推察したものであり、それが当たってるか否かが現時点では不明であるからこそ、有珠へのピントがぼけている、という二重の意味が持てています。


全く持って凄いのは、別にこれが特別な演出でも何でもないということです。全編通して、こういう、それぞれに意味の持った演出が展開されている。そりゃこんなこと、他のメーカーはまずやらないわけです。作るのに何年かかるんですかこれ(実際何年もかかってますこれ)。
うーん、自分でやってて思いますけど、未プレイの人が見たら、「これ画面遷移激しすぎんじゃね」「疲れそう」「てゆうかよく分からん」という感想を抱きそう、というかボク自身がそう思ってしまいます。何度も何度も書きますけど、実際のゲームは、このキャプの連続から受ける印象と全然違いますよ! 少なくとも絵という素材に関しては、実際のゲームもここのキャプチャも殆ど同じ素材使っているにも関わらず、現実は全然異なるのです。むしろ異なってるからこそ、映像的な運動がそこにあって素晴らしいな〜という話なので、キャプで伝わらなくてナンボなのです、この記事(要するに、未プレイの人向けの内容の癖に未プレイの人が置いてけぼりになるw)。ちゃんと一連の流れがある運動になっていて、そしてこういった「演出意図」みたいなの、いちいち考えてプレイしなくても、すんなり頭の中に入ってきます。アニメとかの映像作品の演出とおんなじですね。上手と下手がどうのこうのとか、イマジナリーライン越えてどうのこうのとか、そういうのいちいち考えて観なくても、ちゃんと視聴者の頭の中にはその演出の効果は入ってきている。何故そうなのか、といったことを考える段になってはじめて演出意図などを明確に認識しなくてはならなくなるけど、実際に視聴している時には特に気にしなくても大抵の演出はその意図通りの(意図に近い)効果を発揮している。『まほよ』も同じです。特に意識しなくても、演出はその効果を発揮している。しかし何故効果を発揮しているのかというと、ちゃんと意図して演出しているからである。
あとは、それ以外のキャプの部分。「有珠は関係ない」と青子が言うところで、バックにモノクロの=この世界のものではない(青子の頭の中の)有珠の画像が挿入されてたりとか、その次のキャプ、そこのテキストに対してある程度(ホントある程度)象徴的な意味を持つ、かつ、現在青子がそこに居る洋館の外観が映されたりとか、こういう演出。こういったものもしょっちゅう出てきますね。時計だったり、廊下だったりといった風景を映している場面とか。これらはある種つなぎのカット的に使われることもあるし、明確な演出意図を持って使われることもある(時間に関する話をしながら、画面は通常のエロゲのように話者を映すのではなく、時計を映しているとか)。


ということで、『まほよ』の演出、一般的なエロゲとの最大の違いは「カメラ」です。移動可能になった。拘束を解かれた。それ故に、立ち絵による演技という表現から脱っし、カメラを動かすことによって(そして映像を加工することによって)、演技してないのに演技していると同等のものを創り出したり、演技以上のものを生み出したり、隠喩や暗喩、象徴的な表現などが幾らでも可能になったり、それぞれのカットの計算された一連の流れが持つ動的な意味が生きるようになった。いや、通常のエロゲでも、非立ち絵演出を用いて、隠喩表現だったりモンタージュみたいなことをしたり、なんてのはざらにありますけど、『まほよ』は全編通してそんな感じになってしまった。
これはアニメで再現できるかといったら、当たり前ですけど「できません」。いやたとえば、さっきからこの言葉をバズワード丸出しで使ってて申し訳ないですが、シャフトが本気のシャフト演出を用いれば結構なレベルで出来そうです。いわゆる止め絵によるシャフト演出というのは、『魔法使いの夜』とかあるいはminori系の演出と親和性が高く(人物の動きを運動として見るのではなく、一連の画面の継続を持ってして運動と見るという点で同じ。「キャラクターが動く」ということは、いわゆるシャフト演出では、ノベルゲームの演出では、クリティカルな運動ではない)、アニメ版『ef』成功の下地はそこにあると言うこともできなくはないんじゃないかなーとかどうとかー(ごめんアニメ『ef』見たの昔(てゆうか本放送時)なのでこうお茶を濁した喋り方しかできません)。まあしかし、もしそうなったら(忠実に再現するのだったら)素直にゲーム版やればいいじゃん、と思わなくはない。
どうしてエロゲのアニメ化が上手くいかないことが多いのかということについて、上記の点がひとつ挙げられます。キャラクターが動くとか結構どうでもいい、ということ。まあそれよりも脚本上の問題の方が大きくて、マルチシナリオをどうやって纏めるかという奴ですね。(エロゲじゃないけど、同じノベルゲーということで一緒にすると)『Steins;Gate』は、まゆしぃ以外は一本道に近い形で殆ど全て回収できるので、その点上手くいきました。京アニ版『AIR』は、原作に対するすっげえ金のかかった二次創作批評という荒業で乗り切った。東映版も事実上二次創作批評で、『CLANNAD』ともども、賛否両論という感じでしょう。それともう一つの問題として、その「ゲーム独特のシステム/エロゲ(ノベルゲーム)特有のシステム」に対して如何なる対処を行うか、という点もあります。たとえばアニメ版『Steins;Gate』はフォーントリガーシステムをガン無視したおかげで……いやまあ再現しようがないんだから、代替手段を上手く組み込めなければガン無視するしかないんですけど(あれは「プレイヤー」というゲーム特有の機構が根本にあります)、そのおかげで、原作とアニメは、脚本の大筋は同じなのにまるで別物になっています。ああ勿体無い! アニメ版しか見てない人はゲーム版もささっとプレイすべきです! 勿論アニメ版も出来は良いんですけどね。また、たとえば『京アニKanon』は、ロングショット連発、殆どがFix、肩越しの絵が多い、なんてことを駆使して、映像面において、上手いことゲームにある「プレイヤーと主人公の距離」をなんとかアニメでも手なずけようとしていたのかなと思います。

(肩越しの絵=こういうの)
えーと長くなりそうなわりに話が纏められないのでエロゲアニメ化の話はここら辺で切り上げるとします。他のエロゲがそうであるように、『魔法使いの夜』もまた、エロゲ……って『まほよ』はエロゲじゃなかった、エロくないノベルゲームです。ここまでの文章でもその辺の分別がなんかアレな文章が散見されるかもしれませんが、許していただきたい。「演出技法」という面では18禁か否かはあまり関わりありませんゆえ。だってねー、『Quartett!』やって、遂にエロシーンに来たと思ったら、急にFFDやめて普通のノベルゲーみたいになるんだぜ? あの時受けたショックは大きすぎる。エロシーンにおける(視覚的)演出表現は非エロシーンに比べて明らかに残念入ってるんじゃないかという疑念が、あの時ボクの中では完全に根付いてしまった。いや最近では、「エロシーンでアニメーションする」という演出はかなり根付いてきている(基本抜きゲーに限りますけど)。セックスシーンは、一定の動作を繰り返す、いわば質の良いGIFアニメみたいなものでも十分可能であって、いや『美少女万華鏡』とかやると、これをGIFアニメなんて言ったらマジはったおされそうなくらいレベル高くて、中身そのものはGIFアニメとは全然異なるのですが、しかしセックスの反復運動性をそのまんま再現前するという思想の点では共通している。同人ゲーに手を出せば、アニメーションする抜きゲーは沢山、ほんと沢山ありますしね。ゲーム性も兼ね備えたといえば、定番の『陽射しの中のリアル』があります。かつてエロゲーにおいては「なんかマウスカーソルで女の子の身体をおさわりする」というゲーム性/演出がエロシーンにおいて実装されている作品がありました。なんかおさわりしてると感じ出して、そのうちもっとエスカレートできて(舐めたり出来て)、最終的には挿入できたりする奴。ぶっちゃけると、あれすげーつまんねーです。いや単純に僕がやったことある奴がつまんないというだけで、面白いのもあるかもしれませんが。で、『陽射しの中のリアル』は、それを魔改造してアニメーションを付け加えた結果、ガチで面白くしかもエロくさらには物語分岐にまでなってるという、セックスシーンにおけるハイレベルなゲーム性/演出を達成している作品です。メチャクチャ難しいのが欠点なのですが。えーと、『乙女ファンクション』出してください頼みます、という話でしたっけ。実際エロシーンで、『まほよ』とかminori方面の演出を濃密に使ってみたらどうなるのでしょう。かなり興味があります。


ということで、まとめると、『魔法使いの夜』は、数少ない、カメラを意識した、またカメラ(&編集・演出)による世界改竄機能を意識したノベルゲームであり、映像作品的な運動も表現できており、やっべー俺これ大好きだわ、という話です。キャラクターが動くかどうかなんてどうでもいいんですよ。『まほよ2』が、もし演出パワーアップしてリリースされるとしても、キャラクターに動いて欲しい、なんて思う人は殆どいないでしょう。てゆうかいるな。いや動いた方が良くなるってんなら動いた方が良いかもしれませんけど。しかしそうとは限らない。必ずしも、人物に動きが付くことが優れた表現で、現実と同じように動くことがリアルな表現であるとは限らないわけです。そうではない。映像とは現実を凌駕する魔法のことである。被写体を現実以上・現実以外のモノに改竄するテクノロジーだ。そこにおいては動くかどうかということは大事ではなく、現実のようであるか・リアルであるかというのは重要ではなく、そして画面上の人物・オブジェクトが動くことと、画面の中に運動が存在していることは全くもってイコールではない。その辺を余裕しゃくしゃくな感じでおさえて、映像と同じような「魔法」をノベルゲームの画面上に実現させた『魔法使いの夜』の演出は全く持って凄いぜ、やっべー俺これ大好きだわ、という話でした。







最後に、物語冒頭。例によって1クリックごとの画面遷移キャプ。このシーンがもともと格好良いなぁとか思って好きだったんですけど、再プレイして分かりました。この演出の意味。走っているのに(走っているようなのに)後ろに進んで、だんだん赤く染まって、そしてこのテキスト。一体どういう意味なのかは、全部プレイすれば分かると思うのですけど。しかし最後までプレイしなければ分かりようがない。こういった、再プレイすると気づくことがある演出というのが結構多くてですね、なので演出を見るという点でも再プレイが面白いです(そんなゲームは勿論、他には滅多に無い)。なので時間あったら再プレイしてみるのもいいんじゃないかなと思います。ちょうどもうすぐ、サブタイトル通りの、絶好の再プレイ機会が来ますしね!