キルミーベイベー/新競技「エクストリーム・ディスコミュニケーション」

前置き

第1話〜3話までを見た感想。とりあえずこの前置き部分は『キルミーベイベー』を毎週見ている方は読み飛ばしていただいて全然問題ないです。いや後半も読むまでもないかもしれません。

かつて「ディスコミュニケーション」という言葉があったことをご存知でしょうか? ……なんてことを言ってしまうくらい、「ディスコミュニケーション」という言葉を目にする機会がめっきり少なくなった気がします(僕の観測範囲では、という前提がもちろん付きますが)。
ディスコミュニケーション」の正確な定義とかは分かりかねるので、あんま大それたことは言えませんが、しかしたとえば「コミュニケーションの不協和音」的な意味ならば、そりゃ使われなくなるなという気もします。誰かにAを求めたのにBが帰ってくるとか、Aの話をしてるのにBの話として受け止められるとか、Aを行なったつもりが結果として全然異なるBとなるとか、そういう意味ならば。望みとは違うものが帰ってきたり、本意とは異なる意味で受け止められたり、意図がコミュニケーションの過程において別物と変容して期さない結果が出力されたり、といった意味ならば。たとえばtwitterなんかやってると、そういうささくれ立ったコミュニケーションの不和にしょっちゅう行き当たる(ないしTL上のどっかでそうなってる)、というかこのシステムの所為で可視化・具現化されてるようにも思えます。
まあそれはともかくとして、この『キルミーベイベー』で、そういった意味でのディスコミュニケーションを思い出しました。てゆうか、『キルミーベイベー』には、そういう意味でのディスコミュニケーションしかありません。
たとえば、第一話のAパートを抜き出すと、

・後ろからソーニャに挨拶していって手首極められるやすな
・肩にゴミ付いてるって触ってソーニャに首締められるやすな
・花瓶が割れただけなのに机の後に隠れるソーニャ
・ソーニャに「護身術教えて」と頼むも、希望とは全然異なる使えないものを教えられるやすな
・栓抜き代わりにソーニャの手刀を使う→やすな的には思うとおり、ソーニャ的にはまんまと使われた
・教室に迷い込んだ犬を追い出そうとした結果犬に懐かれちゃう
・犬の為に用意したからあげランニング器具がやすな自身に付いちゃう
・近くに虫などがいると勝手に手が出ちゃうソーニャ、近くにいたゴキ(と思わしきもの)を掴んじゃう

というように、ありとあらゆるコミュニケーションがディス状態になっている。Aを望んだのにBが帰ってきたり、起きてる出来事はAなのにBの対処法を取ったり、Aを行なったつもりが結果としてBになったりする。これはもちろん、第1話Aパートだけではなく、Bパートも、第2話も、第3話も、今のところは放映されたエピソードほとんど全部がそうです。第2話において、熊に襲われて命の危機に晒されてなお、ソーニャは、助けを求めるやすなを助けなかったり、逃げてくるやすなに「来るな」と言ったりと、ディスコミュニケーション満載です。日常シーンのみならず、非日常――危機的状況においても変わらない。このように、『キルミーベイベー』には、いわゆる「ディスコミュニケーション」しかない。



よく考えたら、ちょくちょく挿入されるこの「やすなの自己紹介」からして、視聴者との微妙なディスコミュ臭が蔓延していますし(毎度違う国の言語で挨拶、毎度「たぶん女子高生」「おそらく女子高生」「十中八九女子高生」と何故かずらす)。


しかしだからといって、「キルミーベイベーディスコミュニケーション」と結論付けるのは正しいかというと、疑問が残ります。なにせディスコミュニケーションしかないのです。コミュニケーションの不和だとか失敗だとか見做されるそれしかないということは、ここではコミュニケーションは取れていない(成功していない)ということだろうか? いや、そんなことはありません。これはこれでコミュニケーションになっています。ディスコミュニケーションと呼ばれるようなそれしかなくても、むしろそれしかないからこそ、そのディスコミュニケーションがここでは、まっとうな意味での「コミュニケーション」となっている。……むしろ『キルミーベイベー』においては、従来型のディスコミュニケーションモデル・コミュニケーションモデルでは対応できない、と考えた方が正しいかもしれません。

エクストリーム・ディスコミュニケーション

ディスコミュニケーションしかない、ということは、翻せば、「ありとあらゆるディスコミュニケーションが認められている」ということです。むしろ、ここまでのほぼ全てがディスコミュニケーションであったように、「ディスコミュニケーションしか認められていない」のかもしれません。これが『キルミーベイベー』のヤバイところ・面白いところです。何をやってもディスコミュニケーションになる、むしろディスコミュニケーションしかないわけです。やすなはちょっと触れただけで毎度毎度ソーニャちゃんに手首極められたり首絞められたりするし、あぎりさんとはお互いの希望がバッチリ合うことはないどうにも歯切れの悪いコミュニケーションを繰り返すし、没キャラはその本懐を果たすことは決してないわけです(早々に「神様」にまで否定されている)。従来型コミュニケーションモデルでいうディスコミュニケーションしか存在しない。これが他の(普通の)作品だったら、こんなふうには存在できないでしょう。やすなは空気が読めない奴で、ソーニャは優しくない自己中で、あぎりさんは協調性ゼロと判断されて終わってしまうかもしれません。こいつらいつもコミュニケーションが上手く行かなすぎ、の一言で結論付けられてたかもしれません。なんかお節介キャラが出てきてみんな仲良くしようよーと言って分かり合って不和や行き違いのないコミュニケーションをして笑顔でわーいで終わるかもしれません。しかし『キルミーベイベー』はそんな作品ではないのです。従来で言うディスコミュニケーションしかなく、(そしてそれしかないのだから当然かもしれないけれど)そのディスコミュニケーションが否定されておらず、決して、従来で言うまっとうなコミュニケーションの方が良いとする価値観や、従来で言うまっとうなコミュニケーションを目指そうとする方向性が(物語世界内/外問わず)存在しない。むしろ従来型のコミュニケーションモデルを持ってきてディスコミュニケーションだなんだと判じる方が間違っている……つまり従来型コミュニケーションモデルの方が間違っている、と思えるほどのレベル。

実はこれは*1、非常にレベルが高いです。想像してみればかんたんですが、ディスコミュニケーションしかないということは、作中で示されている、―――おはよーって挨拶すれば手首を極められて、護身術教えてと頼めば自分では使えないようなもの教えられて、お弁当出したらカラスに奪われて、かくれんぼしたら鬼が放置して帰っちゃう―――、みたいなことしか起きないということであり、挨拶一つすら満足に出来ないほど常に不和や失敗が生じるということです。そのことにこの世界の人間は耐えられてる……いや、耐えるというか、それが自然であるということ。これは非常にレベルが高いんじゃないでしょうか。普通の人間じゃ、こんなサツバツすぎる世界は厳しいでしょう。なにをやっても上手く行かないし、ときには危険な目にもあうのです。たとえば、同じ4コマ漫画原作の『ひだまりスケッチ』や『けいおん!』なんかでは、「あの世界に(あの世界のみんなの中に)混ざりたい」的な感想を見かけましたが、『キルミーベイベー』においてそんなこと思う人はどれだけ居るのだろうか。どんなコミュニケーションも上手く行かない世界なのだ。あるいは、どんなコミュニケーションも上手く行かない人しかいない*2。全てが失敗する。全てがディスコミュニケーション。全てがディスコミュニケーションであるということに全く問題なく自然と耐えられる人間は、どれだけ精神的に(あるいはコミュニケーション的に)超越しているのだろうか。

これが『キルミーベイベー』の面白いところ。僕はこれをある意味競技的に楽しんでいます。新競技「エクストリーム・ディスコミュニケーション」。勿論やすなやソーニャたちにとっては競技ではないですが、しかし、たとえば格ゲーやSTGの超上手い人のプレイがあまりにも自分と比べて超越的すぎて(同じゲームではなくもはや別の/あるいは、スキルに決定的な差があるからこそ)競技に見えてしまうような感触と同じように、あまりにもレベルの高いものを展開されると、僕のような凡人にとってそれはある種の競技のように見えてしまうのです。なので分析としては正しくないですが、しかし未だ従来/旧来のコミュニケーションモデルに留まっている人間からすると、旧世界では忌避され続けてきた失敗=ディスコミュニケーションを、空気の如く当たり前の存在として纏い続けるこの『キルミーベイベー』におけるコミュニケーションは、あまりにも次元が違っていて、一つの競技のようにも見えてしまうわけです。……つまり、従来のモデル・価値観で覗くと、競技のようにしか見えないのではないか、ということでもありますが。

ディスコミュニケーションに関してだけは「何でもアリ」というとんでもないアニメです。逆に普通のコミュニケーションが「何でも無し」みたいになっているので、余計に凄い。どんな不和もどんな失敗も受け入れるっていうか、どんな不和や失敗しか存在していないわけです。それでいて、どんだけ上手くいっていなかろうが、受け入れてもらえなかろうが、キャラクターたちはそれに殆どダメージを受けていない。たとえば第3話に、雨の中はしゃぐやすなとそれに付き合わず帰っちゃうソーニャ、というお話がありましたが、こんな、雨の中ずぶ濡れになりながらしかしソーニャに相手してもらえないという現実の我われだったら超ガッカリしてしまいそうな出来事でも、彼女の不満は「ちぇー」の一言で終わってしまってるのです。その直後、雲が晴れ光が射したら、ソーニャが帰っちゃったガッカリ感がまったく感じられないくらいに、感激して喜んでいる。不満やら悔しさやら憤りやらを色々感じてもおかしくないんだけど、それがこのように、一瞬で払拭されてしまう。そのくらい、やすなは(ディスコミュニケーションに関しては)ハイスペックであるわけです。これは他の人たちも概ね同じで、どんだけディスコミュニケーションでもぜんぜん気にしない・動じない。別にそれを是正しようとか改善しようとかも無いわけです。そんなこと思ってすらもいないわけです。そのくらい、……つまり常人とは比較にならないくらい、ディスコミュニケーションの能力が高い」のです。

要するに、そんな超絶能力者たちによる超絶競技です。すっげーサッカーの能力が高い人たちがサッカーするのを観戦するのが面白いように、すっげーディスコミュニケーション能力が高い人たちがディスコミュニケーションするのを鑑賞するのも面白いのです(もちろん、サッカーそのものが面白くなければ、たとえ世界一決定戦でも面白くなくなる可能性はあるように、ディスコミュニケーションそのものに何の魅力も感じなければ、その競技もまた面白くないものになる可能性はあります)。サッカーが色んな技術や戦術を見せてくれるように、ここでの彼女たちも色んなディスコミュニケーションを見せてくれます。この楽しみ方、実は邪道っていうか彼女たち自身に反しているのですが、しかしこういうのもアリなんじゃないかなーと。

キルミーベイベー』は、たしかに、よく言われているように、話そのものに中身的なものは無いし、グダグダと会話しているだけかもしれないですけど――どれだけディスコミュっても絶対に大丈夫っぽいということが半ば保証されているので(紐がついてるバンジージャンプみたいなものですね)、実は正しい意味での緊張感というのはこの圧倒的なディスコミュニケーションと比して違和感が生じるくらい欠けています――、しかしながら、その土台や下地はもはやイカレてるくらい高レベルのディスコミュニケーションなのです。このイカレた高レベルなディスコミュを観戦するのも一つの楽しみ方としてまあ一応アリなんじゃないかな、とかそんな感じの話でした。

*1:……これもまた従来型の人間モデルに則ってるからこその発想では、と突っ込まれれば返す言葉もないのですが。

*2:少なくともメイン3人に関して。