『はつゆきさくら』感想

そもそも最初からこうなることだけは分かりきっていて、なにせパッケージ裏に「初雪から桜まで、卒業おめでとう」と書いてあるんだ。中を開けたらなんか原画集みたいな本があってその表紙にも「卒業おめでとう」と書かれている。ゲーム始めたら初っ端のシーンが初雪で、ああなるほどこれは、初雪から始まって桜までで―――つまり卒業で終わるのか、そういった予兆が理解できる。ついでに、プレイ前に「Presto」を既に聞いていたので、そしてその曲の最後が『バイバイ』だったので、もはや明白といっても過言ではなかった。そして自分は『ナツユメナギサ』プレイ済みだったので、こうもお膳立てされれば、その予兆が現実に変わることくらい分かっていたのですが。

つまりそういうことです。このゲームは。ここから先はボクの勝手な感傷を書くので、つまり共感も理解も求めていないどうしょもない方面の文章なので、要するにお読みになっても何の意味もないし何の役にも立たない文章になります。でも書く。そして勿論ネタバレです。



共通ルート終わりくらいまではすっげー楽しいな、最高だなこのゲームと思っていたんスよ。それがまさかあんな悲劇になるとは、予兆はしていたけれど確信はしていなかった。端的に言うと、ボクはこのゲームを少し甘く見ていました。「来るな」とは思っていたけど、「ここまで来る」とは思っていなかったし、こんな早く来るとも思っていなかったので、予想外にダメージを受けてしまったわけです。一息で言うとプレイしてて頭痛くなるわ気持ち悪くなるわ吐き気はするわ、まとめるとすっげー自殺したくなるわという、最高に最悪な気分になりました(勿論ダメなゲームという意味ではなくて、良いのだけど、素晴らしく良いのだけど、だがこれは俺を殺そうとしている、そういう意味)。
固定である桜一周目を終えた後、綾ルートに進んだわけです。というか「chapter」表記を頼るなら、おそらくこれが正当な進め方と言えるでしょう。その綾ルートは、初雪も、綾も、アキラも、それぞれ終えなくてはならない、終わらなくてはならない、それぞれ終えたら必ず何か大切なものを「失う」のだけど終えなくてはならないから終わらせる、そしてその後は失った数ヶ月間は無かったことになる/無かったことにしなくてはならない(たとえば、初雪の綾への気持ちは封印しなくてはならない)という、つまり世に言う「物凄く完全な終わり」であり、ボクは正直ここで「あーはつゆきさくら面白かった」とゲームを終えてしまおうか何度も迷ったほどの完璧なる完結であった。ルートシナリオが終わった後、タイトル画面に戻るのですが、そこで二・三十分ボケーとしていました。このままここで終わらせてしまおうか、それとも、まさか続きをはじめてしまうのか。
なんでここで迷っていたかというと、ここでは単純にボクも終わらせないと進めないからです。綾超かわいいよ綾と超ラブラブしたいよ初雪も綾と一緒なのが一番良いよっていうか一生綾と一緒にいたいよ、―――そんな風に思ってしまったからボクはここでゲーム終わらせてしまうかどうか迷ったのです。もうここで終わりでいい。ここで終わりがいい。これ以上綾のことも初雪と綾のことも綾ルートの出来事も亡くしたくない、そう心から思ったから、ここでゲーム終わらせたくなってしまった。だってこの先に進むということは、”まさに初雪がそうであるように”、これ以前のこと――綾のこと、初雪と綾のこと、綾ルートの出来事――を失うということを認めなくてはならなくなるから。プレイヤーもまた、初雪と同じように、綾のこと、綾への想いのこと、綾と一緒だった時間のことを終わらせて、封印して、仕舞い込んで、失わなくてはこの先に進めない……いや、この先に進むということは、それらを終わらせ、封印し、仕舞い、失うということなのだから。
そしてもう、この時点で予感できるわけです。これは綾シナリオだけではなく、恐らくこの先ほとんど全てのシナリオで、こういう想い/こういう手続きを踏むことになるのだろうと。
そしてその予感は、正しく的中する。
だから本っっっっっっっっっ当にキチガイですよこのゲーム(ないしボクがキチガイである)。『ナツユメナギサ』もそうでしたけど、ここには前日譚しかない。既に終わってしまったこと・あるいは既に終わると定められていることを「本当に終わらせる」こと以外、ここには存在しない。綾だけじゃなくて、あずまにしろ希にしろシロクマにしろ本当にそう。全部失う話。全部亡くす話。全部終わらせる話。あずまのナイトメアだって過去だって、ファントムだって剣道部員だって来栖にだって、シロクマは圧倒的すぎて目も当てられないほど、全部が全部終わらせる=失うという、いわゆる「卒業」のお話。そしてそれは、単に主人公が、物語がだけじゃなくて、僕たちだって幸福も永続もそういったことに対する夢や希望も何にも見られない。すごいですよ。(プレイヤーは)何も手に入れていなくても、失うことができる。その当たり前の事実をこうやって思い知らされました。物語じゃなくて、あくまで感傷の話ですけど(まあ物語でもいいっちゃいいけど)、全部が、前述した綾シナリオの時のように、全部のシナリオが、そういう、何も手に入れていないのに失うという実感。
つまりこれは「卒業」の話で、それは僕たちにとっても変わらないこと。彼ら彼女らが失っていくのと同時に僕たちも失っていって、彼ら彼女らが終わらせるのと同時に僕たちも終わらせる。ということで、まあ2012年にもなってメタ丸出しの読みをするのも恥ずかしいですが、しかしそう読んでしまったので仕方がない。たとえば……ああ本当ベタなメタ読みで恥ずかしいくらいなのですが、たとえば初雪はこの現実世界に馴染めない、居場所がない、向いていないと何度も口にする。それ故にゴーストをやっているというわけではないけど、それ故にゴーストをやれているというわけではある。いわば現実から目をそらし続けて、ソコに無いものを見続けた結果が、ゴーストだ。

初雪「お前みたいに世間に馴染めなくて、逃げて逃げて逃げ続けて、結局どこにも居場所がなくなって、幽霊みたいになっちまった奴を知ってるぞ」
初雪「この世にあるもの、全部から逃げ回ってると、そのうち肉体はこっちにあるのに、肝心の魂は……どこか、別のセカイにいっちまうんだよ」

「生者・死者」という言葉で語られていたことと同じ。「あの子が、生者になるか、死者になるか」「生きることを選ばないのなら……」という桜の言葉に従うのなら、生者というのはそのまんま、「生きることを選ぶということ」。死者というのはそのまんま、「生きることを選ばないということ」。それはつまりゴーストだ。そしてそれらは自分で選べる。初雪自体が何度も口にしていたでしょう。「生者か死者かは俺が決める」と。そこでの文脈は別のものだったけど、しかし中身はおんなじで、つまり、自分が死者か生者かというのは自分で決められるのである。
だからこのゲームは最高に最悪なんですよ。ベタ過ぎて誰もが回避する、深度1にして深度100の難易度ゼロのメタ読み。つまり、その幻想を見続けるという行為がゴーストの条件ならば、それは僕たちにだって当てはまる。ゲームに耽溺し続け、彼女たちを好きでいつづけ、この冬―――ゲーム内期間のほとんどがそうであるように、つまりこのゲームに留まり続けるその行為こそが、ゴーストの条件ではないか。ああ、まるで『ONE』のエッセンスを取り出して、暴力的にそれだけを晒されているようだ。つまり、ここに居続けるという行為は、そのうち肉体は現実にあるのに、肝心の魂は……どこか別の、たとえばモニターの中とか、この冬の町に行ってしまうような。
このゲーム最大の暴力はそれで、そういうことにあまりにも実直であるということ。ベタ過ぎて口にするのも恥ずかしいほどのメタ。一時期流行った現実に帰れネタなんかよっぽど優しく見える。なにせ最初から終わりしかないのですからこのゲームには。ボクはキチガイなことにこのゲームプレイしながらシネシネと都合千回くらい呟いていたのですが、その理由はそこにある。常に全否定されているようなものですから。それを決定付けるのが各ヒロインの扱い方で、シロクマが酷いと話題になっていましたが、つーかこれみんな酷いっスよ。

サクヤ「去れよ、ゴースト」
サクヤ「これは、あの子……桜と彼の物語だ」
サクヤ「彼がゴーストになりきっているのだとしたら、それは……2人が、春に至れなかったということだ」
サクヤ「そうしてあの子に、彼を導くことが出来なかったのなら、誰も彼を連れてはいけない」
サクヤ「それだけのことだよ」

これはラストシナリオでサクヤが綾に語ったことですが、しかし言ってることだけは他のキャラクターの全てのシナリオにも当てはまっています。桜シナリオ以外の全てにおいて初雪はゴースト(という存在)になる。桜シナリオ以外の全てにおいて初雪は春に至れない。桜シナリオ以外の全てにおいて誰も彼を連れてはいけない。だから輪をかけて最悪なんスよこれ。とんでもないレベルでキャラクターを使い捨てている……いやそもそも使ってないし捨ててもいない。正しく言うなら、本当に最初から「終わっている」。あまりにも終わっているので、一見使い捨ててるのかと見間違えるほどに。桜シナリオ以外の全ての道は最初から終わってるということが定められている。決して春には至れないゴースト。しかし桜シナリオでは桜への道が終わってるということが定められている。春に至れて死者ではなく生者になるのだけれど、しかし桜は絶対にそこにはいない、しかし過去には絶対に戻れない、しかし現在には間違っても留まれない、そんな現実=卒業という終わりが確約されている。


こういうことに、純粋なほど実直で、忠実なほど真っ直ぐで、暴力的なほど如実だからこそ、ボクなんかはプレイしながら頭痛くなって吐き気を催してシネシネ連呼していたわけです。これほど嫌がらせみたいなものは他にない。最初から全てが終わっているということは予見されていた。それでいて、初雪が、たとえば立派になりたいとか、たとえば剣道場に住み着いていた時誰かが来てくれることを心のどこかで期待していたこととか、たとえばそれでも卒業を頭の片隅に置き続けてきたこととか、そして何度となくランが「卒業しよう、がんばろう」と囁いてくることとか。全部、全部。最初から終わることを知っていたのに、それでもなお心のどこかでは終わることを望んでいた彼らと、終わらせなければ終われないということを知っていた彼ら。そういうのをずっと見ていたからこそ、僕たちも終わらせなくてはならない。「卒業」しなければならない。なるほどまさに最悪だ。ボクがこんなキチガイみたいな反応を示していた理由はおおよそそんなところです。

ラン「初雪。あなたも私も、生者に戻る時が来たのかもしれない」
ラン「だから……」
ラン「卒業して」

永遠には続かない、ではなく、永遠に続けてはいけない。永遠に続いていないものを永遠に続けようとするからこそ、ゴーストになるのだ。現実には無い何かを見続けようとすれば、魂だけはここから離脱した存在、つまり死者になる。そのような存在に未来はない。それは作中で幾度となく繰り返されたこと。死者は、文字通り、生きていけない。
そうではなく、終わりの、先の、卒業に辿りつかなくてはいけない。もし生者として生きていこうとするならば。永遠の愛は誓えません。この場所を卒業するまでしか誓えません。終わるまでしか誓えません―――いえ、終わる時は必ず来ます。だから、終わる時までしか誓えません。めぐる春夏秋冬、終わる1095日というのはまさにそのこと。全てはめぐっていく―――というのはつまり進んでいくし、そしてどんな日数も終わりを告げる。桜が見続けた日々も、桜と過ごした日々も、桜にとっても初雪にとっても、いや誰にとっても、終わる=卒業するということ。

それは僕たちも変わりなく、本当に予兆どおり、やはり我われもここで彼ら/彼女らにバイバイを告げなければならない。なぜなら既に彼女たちにバイバイを告げられているのだから。全てのシナリオで、その最後に(ないし最後の近辺で)彼女たちがバイバイと別れの言葉を口にしていたのは、勿論これがそれが私たちにとっても終わりで卒業であるからだ。

初雪「俺は、ダメなんだ……どうやっても、こっち側の人間にはなれないんだ……」
初雪「せめて酒でも飲めば、同じところに行けるかもしれないって、思うから」
初雪「……帰りたい」
初雪「こんな世界嫌だ」
ラン「…………」
初雪「嫌なんだ」
ラン「ぐじぐじするなぁ」
ラン「そういうものを、誰だって抱えてがんばってるんだよ」
ラン「どこかにたどり着きたいなら、歯を食いしばって進みなよ」
ラン「安易に、安息の場所が見つかるなんて、思うなぁ」


実に酷いゲームだ。たとえば、こんな言葉が二重の意味になって私たちに返ってくる、そんなおぞましく心地良い酷さ。だがそれももう終わり。正直、何度もこのゲーム終わらせたくないと思ってだらだらプレイしたり、いつまでもぼけーっとしたりしたけれど、そんな時間稼ぎももう終わり、だってゲームが終わってしまったのだから。卒業してしまったのだから。永遠に続かないものを永遠に続けるのではない、永遠に続かないものは終わりの時に卒業を迎えるものなのだ。生者として、現実に生きていくのならば。笑ってしまう、河野初雪がそうしたように、ボクもそうしなければならない。そうせずにはいられない。全てが最高で、みんな大好きで、いつまでもここに留まっていたいと本気で思わせてくれる作品でした。でも卒業してしまったので、もう終わり。私たちは何処か別の場所に、歯を食いしばるなり、そうでもないなりして進んでいくので、だからもう終わりなのだ、『はつゆきさくら』は、ここで。たとえばいつか振り返れる日が来るまで、それこそ自分と、全ての懐かしい彼ら/彼女らに報いられる時まで、ボクがこのゲームに再び手をつけることも、言及することも、思いをはせることも、もうないだろう。これでいつかまで終わりの卒業。バニッシュだ。