「ラブラブル」の話をしま……せん!(でもやっぱちょっとする)

死体からお送りいたします。
しかしこれ何人が理解してくれるんだろうかというか理解しちゃうんだろうかみたいな相当アレ気なことを書いていますが、えーとそれでも、多分、ある種の人にとっては、こういう内容だったのです、この作品は。つまりこれは、殆どの場合において『ラブラブル』の紹介にも感想にもなっていません。たぶん。『ラブラブル』は、基本的には、ここに書いてある文章のような内容のゲームではありません。しかし何人か(最低でも自分一人)にとってはこういうゲームなのです。きっと。

ぐぬぬ……!! 畜生なんて献身的で可愛いんだ俺の妹は!!)
(ああああああァァーー!! 畜生! お前はホントにどこまで俺を萌え殺す気だマジで!)

作中からの引用ですが、このように「萌え死ぬ」という言葉があります。こういった言葉の遣い方は一般的……というほど一般的ではないかもしれませんが、まあそれなりに流通してますし意味も通りますよね。うわぁぁーー○○可愛いやばい萌え死ぬ! とかそういった感じ。ここでいう「死ぬ」って表現、これは明らかに比喩表現なんですけど、でもある意味ではリアルなんスよね。本当に死ぬ。てゆうか死にたい。死なせて欲しい。人は感情だけでも死ねます。いや人が死ぬ一番の理由(遠因)は感情ではなかったか、と問えばむしろ当たり前のことのような気がしますが。
で、この『ラブラブル』は、全編通してそんな感じです。「死ぬ」。まさに一言でいうと「死ぬ」です。つーわけで僕も見事に朽ち果てました。死にました。ぶっ殺されました。ある種の作品というのは、受容者をマジで殺しにかかってきます。個人的にはCLANNAD AFTER STORYのとき以来の体験。あのときは毎週毎週死ぬだの殺されるだの叫んでましたが、それと同じ様に今回もまた作品に殺されました。……いやこうやってなんか書けてるように実際には今死んでいないので、ホントのところは殺され未遂ですが。しかしプレイ中5分に1回くらいのペースで「SMEEは俺を殺そうとしているのか」と呟いてしまうような作品でした。てゆうかよく未だに死んでないよな俺。
この場合の「死ぬ」とはどういうことか。これはゲームを実際に体験してもらうのが最も手早く正確で誠実で正当な手段なので是非みんなプレイして死ねばいいのにと思うのですが…………と書いたところで「これプレイしてもみんながみんな僕みたいに死ぬわけじゃないよな」と思ったので死んじゃう心当たりがない人はプレイしなくていいです…………と書いてみたけど、そういった死ぬとか死なないとか抜きでもちゃんと面白いし良く出来てるし、ギャグも声出して笑ってしまえるレベルなので(ギャグに関してはAsa projectにちょっと似た感じのテイスト)、まあとにかくみんなプレイすればいいです。そしてある一定数の人間は死ぬがよい。可愛い女の子たちに萌え死に、主人公が男も惚れるくらいのよい男であることに虚しさを覚え死に、あまりに完全なイチャラブっぷりに妬みや僻みを通り越して画面の中に入って主人公と入れ替われないという事実に怒り死に、まあとにかくなんか分からないけど死ぬがよい
実際のところですね、萌え死ぬとかじゃなくて、妬むとか僻むとかじゃなくて、もう単に圧倒的に素晴らしすぎるので死んでしまう、と言った方が近いんじゃないかなぁと思います。画面の中の女の子たちに対する萌え死にってのも当然ある。可愛くてもうどうしょもねー、でもそれを発散させる方法が無い! 現実なら抱きしめるなり撫でるなり言葉をかけるなりで、その「どうしょもねー」って気持ちを外に放出することが出来るけど、モニターの中の二次元相手にはそれが出来ない。ディスプレイ抱きしめても、独り言のように言葉を発しても、何も発散できないっていうかフラストレーション溜まるだけ。この「萌え死ぬ」気持ちが何処にも放出できず自分の中をぐるぐる回って溜まりに溜まって、そしてこの感情の量と質に、死ぬほど胸が苦しくなる! つまり「萌え死ぬ」! ってのも当然あります。また画面の中のあんちくしょー(主人公)があんなに可愛らしくて素敵な花穂なりつぐみちゃんなりとイチャラブしてんのに画面のコッチの俺ときたら……! みたいな気持ちも当然あります。何で俺の前には花穂やつぐみちゃんが居ないのだ、何故だ、どういうことだ、意味が分からん、どうして神はこんな運命を俺に押し付けやがった、意味が分からん、殺す、俺はこの運命を殺す、呪う、俺はこの運命を呪う、いやてゆうか死のう、そうだ死のう、死んだところで花穂やつぐみちゃんと会えるわけではないだろうけど、今の運命じゃ詰んでるかもしれん、このまま生きてるより遥かに可能性高いだろ、よし死のう! みたいな感情。
そういうのもある。そういうのもあるのですが、それだけではなく。なんというか、全体的な作りと完成度から生み出されるこの素晴らしき空間の素晴らしさにこそ殺されると言いますか。この作品は本当に完成度が高いのですが、たとえば「イチャラブ」とよく語られて(公式自体がそう言ってる)いますが、イチャラブる理由をちゃんと作品の中で十全示してたりするわけです。他人に気を回したり虚勢を張ったりする子に対して、自分の前ではそういうことをせず素直になっていいんだよと言って、だからその子も安心して素直になる。そうすると「素直」ですから、素直に甘えてきたりするわけで、そして主人公も自分でああ言ったくらいなのだから、その子の素直なアクションを当然受け入れるわけで、なので結果的にイチャラブ時空が出来上がる。また別の子は寂しがり屋だけどそういった自分を結構抑えちゃったりしている(寂しがりっぷりを表に出して相手にそれを押し付けるようなことはしない)のですが、そのことに気づいた主人公は、その子の「隠してある」寂しがりを暖めてあげるために、照れも羞恥心も捨ててイチャラブな行動を取ったりイチャラブな行動を受け入れたりするわけです、そして完成するのがイチャラブ空間。―――たとえばこのように、イチャラブする理由……というか、正しくは「イチャラブしなければならない必然性」を十全に示していたりするこの完成度の高さが、そこら辺のイチャラブゲーとは一線を画すところであるのですが、そうだからこそ余計タチが悪い。全てにフォローがなされてるからこそ、素晴らしさが増して、だからこそ憧憬も強まる。これは描写の質とか性質とかもあると思いますが、他のゲームならイチャラブされてもこうは思わないんですよ。ちょうど直前に『your dairy』をやってて、あれも結構イチャラブるんですが、まあどうぞイチャラブしてください、むしろもっとしろ、楽しいから、可愛いから、と思える内容でした。付き合って恋人がいてイチャラブする。至って普通だ。いいぞもっとやれ。『ラブラブル』も同じく、付き合って恋人がいてイチャラブする。実に当たり前のことなんですけど、そこに完全なほどフォローを入れてる。だから出来上がるのは圧倒的なイチャラブでして、だから僕なんかは圧倒されて、そして死ぬのです。……えーとよく分かんないかもしれませんが、この辺はプレイしてくれれば話が早そうなので是非プレイしてみて下さい、といった感じです。もう一つ特徴的なぶっ殺しポイント(完成度高いとこ)あげると、名前変更システムと主人公の男前っぷりですね。最近のゲームにしては珍しく、『ラブラブル』には名前変更システムがあります。これをついつい本名でやってしまった自分が悪かった! 本名でやると当然その分、悶える回数・確率は高いなるわけですが、しかし逆に、主人公との同一化が阻害というか疎外されるわけです。かの有名なマルクスさんの疎外のような意味で、自分の名を冠した主人公なのだから本来自分自身である(自分を入れる器である)筈なのに、というかだからこそ、プレイヤーである自分自身が排除される。本名プレイの方が主人公とプレイヤーの同一化が強いなんて通説、本名プレイが普通に可能だった(名前変更がデフォだった)大昔の話なんじゃないだろうか。主人公の個性が強くなり、名前が変更できなくなり、顔が描かれるようになり……そういったここ十数年のエロゲの変化。この三つはそれぞれ連関していたのだ。名前が変更できて、顔が描かれなくても(『ラブラブル』では主人公の顔は一片足りと描かれない)、主人公の個性と、この物語が合わされば、ああもう、プレイヤーが主人公だなんて同一化は、むしろだからこそ壊される。ええもう、今からプレイされる方は絶対に名前変更―――自分の本名登録でプレイしてみて下さい。そして悶えてください。あまつさえ死ぬがよい。さて、今の話の続きですが、主人公がちゃんと良い男だってのがあります。そもそも親元を離れて、家事も自分でこなせて、失敗してもへこたれず努力怠ることなく仕事をこなせるように、学生にしては自立力がかなり高い。見知らぬ相手にもギャグと勢いですぐ友達になれるし、かといって何も考えてないお調子者ではなく、内心ではそういう行動も結構怖がっていたことが語られている。要するに勇気があるということ。それでいて外面だけでクラスからハブられてる奴(流星)を見かけると、それがどうしても許せないし、そして実際にそれをどうにかしちゃう、という優しさと実行力がある。後輩が海で溺れた時には、すぐに助けに行く行動力と勇敢さを持ち合わせながらも、ちゃんと自分も溺れたりしないように浮き輪を用意するなど計画性・現実的な部分もある。この辺全部プレイ開始から1〜2時間で出てくることですが、要するにそんぐらいこの主人公くんはいい男であり、そしてそのことを速攻で示してくる。―――そしてそんな男が、前述したように完璧な理由と必然性をひっさげて、超萌えて可愛いヒロインとイチャラブするのだ。ヒロインキャラの可愛さの時点で既に一回殺されてるようなものです。一番最初に作中の「萌え死ぬ」って部分を引用しましたが、そのようにヒロインの可愛さに、プレイヤーはまず死ぬ。萌え死ぬ。その可愛さや萌えな感じのところに、はい死んだー! 俺死んだー! と何回思ったことか。彼女たちの可愛さに、もう既に死んでるんだけど、さらに目の前で展開されるのは、かの主人公とその可愛いヒロインのイチャラブなのです。何処の馬の骨とも知らない奴とヒロインさんがイチャイチャするのではない、何処の馬の骨か知ってる奴とその子がイチャラブする! そう知っているのです。名前変更により俺の名を冠したアイツが、しかしかなりのいい男であるアイツが、全てを十全に兼ね備えたイチャラブという、素晴らしい光景の前に立っている! この時点でプレイヤーと主人公の同一性というのは、名前を変更したことにより余計に崩壊します。名前を自分の名前に変えて、そしてそれに違和感持たないように作中では巧妙に主人公の名前を呼ばないようになっている*1のだけど。それは実際に、感情移入や同一化を煽るでしょう、でも、だからこそ浮き彫りになる。ある一定の領域にまで達すると浮き彫りになる。名前が同じだからこそ、自分とその人は全くの別人であるという当たり前の事実が!
で、こういった完成度の高さが、その世界の、あるいは彼ら彼女らの見ている/接している光景というべきですが、それの素晴らしさを強烈に高め、それによって僕のような輩はブチ殺されてしまうのです。
つまり、あまりに素晴らしいと、単に妬みや僻みや、このどうしようもできないもどかしさ(彼女らとは文字通り生きてる世界が違うことへの憤り)を通り越して、もうあまりに憧れて、あまりに欲しくて、それで死んでしまうのです。妬みや僻みや無力感を通り越したところにある憧憬や欲望。よく「リア充死ね」と言いますが、あれはもっとレベル上がると逆になると思うんスよ。ただのリア充じゃなくて自分にとってのスーパーリア充みたいなのを直視してしまったら反転するんじゃないかなぁと。もう妬みや僻みや無力感を通り越したくらいに自分の眼に素晴らしく見えるリア充をまじまじと見つめてしまったら、「死ね」じゃなくて自分が「死なされる」んじゃないかなと。日本史や世界史などに「憤死」というのが稀に出てきますが、僭越ながらもこれはそういったものに足のつま先くらいは踏み込んでるんじゃないだろうか。○○が凄く欲しいのだ、○○になりたい、―――この「○○」というのは特定の個人やモノ・状態ではなく、不特定の(あるいは想像の)ソレで構わない。その○○に異常なほど憧憬や欲望を有しているのに、しかしどうしてもそれに届かない。それが手に入らない。それになれない。そうしたらどうするか。そうしたら、もう、死ぬしかないんじゃないでしょうか。つうか死んでしまうんじゃないでしょうか。確かに、憤慨のうちに「リア充死ね」といったような言葉を発するかもしれない。しかしそれで死んでくれるわけでもないし、それで自分が○○に届くわけではない。それでも、「死ね」と言ってそれで溜飲が下がるならまだ良い。それで落ち着くことが出来るならまだ良い。しかしそれで済まなかったらどうなるか。つまり自分の中の感情が、そんな言葉程度ではまったく吐き出されないほどの量と質を兼ね備えていたとしたら。その感情が、未だ内に燻り、溜まり、積みあがっていく。その先に何があるのか。そりゃもうきっと、死ぬしかないでしょう。もうしょうがないんです、そう思ってしまった以上、そういう感情を抱いて吐き出せなかった以上、死ぬしかない。死んでしまう。唯一逃れる方法は見て見ないフリをすること、直視しないことだけだ。今僕は直視しないで横目でちらちらと見ながらこれを書いています。だから死んでません。
で、先に書いたCLANNAD AFTER STORYのように……それは(これも)あくまで個人的な体験であって、人によって挙がってくるタイトルの名前は違ってくる、そもそも何一つそんなもの思い浮かばないって人もいらっしゃると思いますが(むしろそっちの方が多いかもしれませんが)、ある種のタイプの作品、心の琴線に触れるとかそういう言葉がありますが、そういったものの亜種ですね。心の琴線の変なトコに触れてくるある種のタイプの作品の中で、特にとびきり素晴らしいヤツは、もの凄い判断を受容者に強いてくれるのです。妬みや僻みや無力感を通り越したところにある憧憬や欲望を誘発してくるヤツは、こっちに嫌らしい選択を強いてくれる。あまりにも素晴らしい光景を見せられて、そして”ここ”にはそれが無いと知って、それで取れる選択は何か? そういうことを嫌らしくも聞いてくるわけです、このゲームは。いや実際は聞いてくるわけじゃないですよ、ただプレイした自分の中に住み着いたこのゲームが聞いてくるわけです。喩えるならば、「このまま眠り続けて死ぬのと、このまま眠ってるような人生を生き続けるのと、どっちがいい?」と聞いてくるかのよう。そんな二択を迫られたら、出来ることは決まってます。死ぬか、そもそものその二択を打ち破って未知の三択目を見つけて掴み取るしかない。あるいは見なかったフリをしてやり過ごすか。だから死ぬのです。だから死にたいのです。こいつを直視してしまったら。僕は酷いことに選択肢外の見て見ぬフリという作戦を選んでいます。それを選んでいるから、今でも死んでないし、そして未だにここに居る。それは逆に言うと、そうしなければやってられないほど、『ラブラブル』は強烈で、まさに死んでしまうほどの素晴らしさを持っていたということ。

そんな話です。なのでこれは『ラブラブル』の感想にも紹介にもなっていない、つまり『ラブラブル』の話をしていないに等しい……のだけど、なんかこれだとさすがにアレだなーと思うので以下ネタバレでちょっと。




【以下ネタバレでちょっと】



内容にもちょっと言及しておきます。といってもですね、既に申し上げたように自分死んでたので、プレイ後半はもうアレです、死んだ魚の目をしながら死んだ魚になりたいなーみたいなことを四六時中思ってまして、もう内容とかよく分かりません。つまり、心が内容の理解を拒んでました。だって理解しちゃったらもっと死にたくなるじゃないスか。
ということで、とりあえずプレイ順につらつらと書いてみますが、まずつぐみシナリオからやったんですね。これが素晴らしくて速攻でひとまず死にました。本当に良く出来てる。『自分を変える、新しい自分、素敵な恋』みたいなことを本作の最序盤に言っていましたが、つまり恋により自分が変わる、新しい自分になるのです。それは基本的にどのシナリオも同じです。てゆうか作品のコンセプトの一つだと公式が謳ってるくらいなのですが。
で、つぐみにおいても、その『自分を変える・新しい自分』というのが当然重要になってきます。そしてそれは、それまでの自分の欠点やダメなところを超克するという話でもある。それはもちろん、このゲームがどんな作品なのかを考えれば、あるいは『素敵な恋』が新しい自分を生み出すという前提を思い起こせば明白ですが、彼女が一人で勝手に頑張るのではなく、主人公と二人で・この関係性の上で、「そうなれる」のです。 たぶんこの子は男が苦手以前に自分に恐ろしいほど絶対的に自信が無い。 という主人公の独白があるように、彼女は自分自身に対する自信が無い。だからこその気の回しようや虚勢があるわけです。しかしそれを見抜いている主人公は、ああ、もはや付き合う前からそうしているからこそよりスゲーんですが、主人公くんはそれを受け入れた上で乗り越える手助けをしてくれるのです。

「つぐみちゃんに今足りないものは、ドジの回数を減らすことでもなければ、他の人に自分を合わせることでもない」
「自分を大きく見せようとも、可愛く見せようとも思わないでいいんだって」
「自分の気持ちを正直に相手に伝える勇気。つぐみちゃんに足りないのはそれだけだよ」

で、この言葉は完全につぐみに受け入れられます。というかこれをきっかけに変わった/変わっていくと言える( つぐみ「ドジで臆病で、ズルい私に……『自分を大きく見せようとも、可愛く見せようとも思わないでいいんだ』って」「自分の気持ちを正直に伝えれば、私の好きな人に気持ちは届くって」 )。そしてこれは同時に、前述してきたようにイチャラブの理由であり必然性でもある。つぐみが素直な気持ちをぶつけてくる。主人公が「大胆だ」と少し戸惑うくらいの素直な想いをアタックしてくる。初Hだってつぐみから求めてくるくらいだし。同棲最終日後の「来ちゃいました」なんかもそう。自分の弱さと自信の無さ、そこから来るものを全て払拭して、素直さを主人公にぶつけるわけです。逆に友達である奈緒なんかには、上手く素直さをぶつけられていないですよね。付き合ったことを奈緒に言えない―――言い出せなくなったというあのくだり。あの描写が何で必要だったかといえば、少なくともこの辺の理由が存在しているわけです。素直さをぶつける―――自信が無い現時点でのつぐみにとって、その対象は主人公のみで、奈緒はやっぱりまだ対象外だった。だからこそ言い出せなかった。
そのつぐみの素直さ=甘えを、主人公くんは、当然ながら受け入れるわけです。それで結果生まれるのがイチャラブ。だからこのイチャラブは圧倒的な理由と必然によって守られていて、我われはそれを無条件で認めるしかないのです。その結果として僕あたりは死ぬことになるのですが、それはまた別のお話。
そうこうしているうちにつぐみにもちゃんとした自信が付いてきます。そうこうしているうちに、って言い方悪いですね。どうしていたのか、その具体的な筋道は既に彼女によって立案されています。

つぐみ「私、先輩に相応しい立派な彼女になりますから……」
つぐみ「……私が、先輩のことを支えられるように。私が、先輩に甘えてもらえるように……」

この気持ちが念頭にあって、あるいは奥底にあって、そうしてこのイチャラブの日々が送られていたわけで、だからこそ彼女が強くなっていくのは当然のことなのです。甘えられた分だけ―――彼女にとっての「先輩」がステキな分だけ、彼女自身がステキになっていく。
その真価はむしろエピローグまでおあずけって気もしますが、本編中でも発揮されてはいます。偶然であった過去の「あの人」に、自分が思ってる素直な気持ちの啖呵をきるあの場面です。これは過去の清算的な対峙であり、同時に「自分に自信が無い」を乗り越えていくことでもある。つぐみ自身が云っているように、あの人と比べて、あるいは周りの女の子たちと比べて、それでもなお負けたくない・渡したくないと思ったからこそ取った大胆な―――素直な言動。( つぐみ「フルーティアの他のスタッフの女の人たちは本当に魅力的な人たちばっかりですけど……」「それでも誰にも負けたくないって思って嫉妬してたときに、偶然あの人が現れたから」「だから、絶対に先輩を渡したくないって思って……あんな大胆な行動に出ちゃったんです」 )
これこそがこのイチャラブの日々で手に入れたモノ。この日々が無ければこの言動はありえず、この日々がなければこの言動に届かない。そうですね、いわゆる一般的な意味での「成長」をなんとイチャラブの中で手に入れたと言い換えることも可能ではないでしょうか。そしてこの後に続くのが「先輩も私に甘えてください」という言葉なのだから、イチャラブが圧倒的に必然であることがよく分かります。
もう完璧でしょう。全てにフォローを入れて、全てを補っている。おまけにエピローグでは名前を呼ばないことに対する(名前変更しているプレイヤーにとってはある意味メタ的な・舞台裏的な)ツッコミまで入れてくるのだから、完璧といって過不足ない。もう至れり尽くせりです。そんなんだから僕はあっさり死ぬのです。

えーと。他のキャラについても何か書こうかと思ったのですが、こうキャプやメモを見ながら書いてたのですが、そんなことしてたら今また死にました。つーか気持ち悪い。なんなんだこのゲームは、鬼だ。ということでその辺は、機会があったらまた別のときにでもどっかに書くかもしれませんが、特にヤバかったのがこのつぐみシナリオと花穂シナリオだったということだけは。是非プレイしてみてください。てゆうかネタバレって断ってるんだからこの辺読んでる人はもうプレイ済みか。ヤバかったですよねーあれ。というか今の僕がヤバいです。死がぶり返してきました。死にます。ということで唐突ですが終わり。信じられないかもしれませんが、あるいは何言ってんのこいつと思われるかもしれませんが、『ラブラブル』はある種の人間にとって毒の中の毒であった、というお話でした。素晴らしいからこそ、身を殺す毒となる。だけど、だからこそ、素晴らしい。

*1:「お兄ちゃん」とか「先輩」とかの呼び方だったり、名前を呼ばなくてもなるべく違和感が生じないように何とかテキストがコントロールされているのですが、これが凄いのです、いや結構ゴリ押しな部分も多少ありますけど、ホント多少。主人公の名前変更をすると、エロゲ史上においても珍しいであろう、「主人公の名前が誰にも一回も呼ばれない」エロゲが誕生します。これは一見の価値アリです。