『シュクレ』/茨木愛シナリオ

『シュクレ』の茨木愛シナリオがめちゃくちゃボク好みのシナリオだったのでちょっと書き記しておきます。

シュクレ〜sweet and charming time for you〜 初回版シュクレ〜sweet and charming time for you〜 初回版
(2011/09/22)
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簡単に要約すると、茨木愛というのは、大事な人に「嫌われるのがメチャクチャ怖くて」「裏切られるのもメチャクチャ怖くて」「捨てられるのもメチャクチャ怖くて」「つまり、信じることがメチャクチャ怖い」という子です。これには明確に、そうまるで物語化されたかのように作中にて明確に語られる”ワケ”がありまして、一言でいえば愛の生い立ちと今までの半生ですね。
彼女は、物心ついた頃には児童擁護施設にいて、つまりいわゆる捨て子なわけです。自分は捨て子なんだと思っていたわけです。この出来事、この「痕」は、今の愛の始点となっているかのごとく、残り続け、影響を与え続けます。その後、彼女は現在親代わりとなっているお婆さん夫婦(お爺さんは他界)に引き取られるのですが、しかしここでもその痕が顔を出す。お婆さん夫婦は優しく、愛を実の子のように扱ってくれましたが、彼女の中ではそれでハッピー全部解決となるわけなく。

「あの二人って、子供が出来ないから私を引き取ったんですよ。だから……」
「だから、もし子供が出来てたら、私は捨てられたんじゃないでしょうか」

「引き取られてすぐは、幸せでした」
「なんていい人たちに引き取ってもらえたんだろうって」
「でも私は、親に捨てられた子供をたくさん見てて……。迎えに来てくれないことを知っちゃってて」
「自分もいつ捨てられるかわからないことに気づいて」
「不安で不安で仕方なくなったんです」

疑うわけですね。もう少し正しく言うと、怖がるわけです。捨てられることに。いらなくなることに。勿論あのお婆さんはそんな人じゃなくて、だから大丈夫だと主人公も諭すんですけど、 「頭ではわかってます……」「頭では……。駄目なんですよ。私は、あの人たちも疑わないと生きていけないんですよ」「……いらない子供だから」 このようにどうやっても受け入れられない。だって捨てられる可能性、いらなくなる可能性、失う可能性は決して否定できないわけですから、そりゃ勿論99パーセント、99.999999999……パーセント、そうならないとしても、ほんの0.0000000……1パーセントでも可能性が残る限り、受け入れられない。極端な話を言うと、ここまでの過程でそういう人間として彼女はもう既に作られてしまっているわけです。だからこれを受け入れることは出来ない。ならば、それでもなお受け入れる方法は一つしかなくて、それは要すると「手に入れないこと」です。あるいは「大事になりすぎないこと」。何かを手に入れれば、いつか必ず失いますよね。その”失うこと”が怖くて嫌ならば、はじめから手に入れなければいい。手に入れてなければ失うこともないのだから。彼女が友達を作らない理由の一端としてそれを挙げることは可能ではないでしょうか。あるいは、(この場合のように)もう既に手に入れちゃってる場合は、大事になりすぎなければいい。どうでもいいものなら、失われてもそんなに痛くはないでしょうけど、大事なものが失われると、その時のショックは大きいです。これを逆算すると簡単なのですが、つまり大事なものじゃなきゃ失ってもそんなに痛くない。だから”大事なもの”にならないように、なりすぎないように注意すればいい。彼女が千鶴さんや芽衣花たちと必要以上に仲良しになりすぎない理由の一端としてそれを挙げることもできるのではないでしょうか。―――お婆さんが、愛がいつまでたっても敬語でどこか余所余所しいと嘆いていましたが(そしてお婆さんは知らないかもしれないけど、家ではある程度猫被っている)、それらはまさにこういったところから来る所作ではないでしょうか。お婆さんを、茨木の娘となっている今の自分を、この状況と境遇を、大事なものになりすぎないように、大切なものになりすぎないように、敢えてそういった態度を取ることによって距離を置いている。
大事なものを失うのが怖いから、大事なものになりすぎないように逃げている、それが彼女のお婆さんに対する処方。では主人公に対しては。ここではもう一つの方法を採ります。「手に入れないこと」です。

「私は駄目なんです。短い間でしたけど、恋人になってみてはっきりしました」
「センパイのこと、好きですよ。ずっと好きでした。だけど私は……」
「一緒にいても、どうせ裏切るんだって、私なんか捨てられるんだって考えちゃいます」
主人公「俺はお前を大切にする! 絶対にだ!」
「そんな価値ありませんよ。あると、私が思えません」
「自分が信じられない私は、多分、誰のことも信じられないんだと思います」

主人公と愛は、学園生(修羅の国用語。一般的に言う高校生)時代に、一人きりの愛に主人公がズカズカと入り込んできて友達になり、そして愛ちゃんは予想通り主人公にメロメロになって、とはいえあの「痕」から、そんな容易くはそれ以上の関係になれなくて、でもなりたくて、でもやっぱりなれなくて…………そんな関係が続いたある日、愛は主人公にある「卑怯なこと」をしでかそうとしてしまったのですが、それをきっかけに二人は、完全に”ただの友達”として一線を引くことになりました(二人は、っていうか愛は、ですね。愛が勝手に線を引いた)。それが愛の自己評価の低さを再認識させて、そしてこの時は身を引いた――「釣り合わない(自分にはそんな価値はない)」として身を引いた……というか、「自分にはそんな価値はない」という”身を引くに格好の理由を見つけた”――わけですが。言い換えるなら「手に入れない」ことを選んだ。今のこの、割とドライ風味である、先輩後輩のこの関係、これが「大事さ」「手に入れられるもの」において愛が最大限譲歩できる関係(両方の意味で。当たり前ですけど愛はセンパイのことが好きですから、だから当然ゼロにはしたくない。むしろヒャクにしたい。でもヒャクだと大事になりすぎて苦しい。だから、丁度いい按配のこの関係になったのです)。そこに落ち着いたわけです。

あれ以来、愛は変わった。
後をついてくるだけだったのが横に並ぶようになり、まるで同性の後輩のように振舞いだして。
下品なジョークを口にするようになったのもそうだ。
それはそれで楽しかったけど。
一番気兼ねなく気楽につきあえる相手、いつでも愚痴を聞いてくれる後輩。一番の親友で悪友。
ただし、それ以上は厳禁。
そんな暗黙の了解が、俺と愛の間にあった。

で、なんやかんやありまして(詳しくはゲーム本編を参照)、ある意味主人公の押しの強さに負けるかのように(いや、作中の描写じゃまるでそうであるかのようなんスよ)、二人は付き合ってみることになりました。実は昔から主人公大好きだった愛さんですから、そりゃもう幸せそうなご様子でした。が、ある時突然、主人公を「振る」のです。もうセンパイとは付き合えない、一緒にいられないと。
その理由はこれまで書いてきたようなこと。ひとえに「怖い」。大事なものを失うのが怖い。この場合の失うは、能動性じゃなくて受動性を強く含みます。自分の手からなくなっていく=失うじゃなくて(だけじゃなくて)、大事な人の手が自分を離す=失う(つまり「捨てられる」)。そういう怖さ。

「一人でいるのは嫌いじゃなかった。一人なら余計なことは忘れていられたんです」
「施設のこと、思い出したくないこと……。なまじ一緒になったから、色々と余計なこと考えちゃうんですよ」
「手が届かないってわかっていれば諦められた。リバーライトで皆と楽しくやっていられた」
「でもセンパイが私に告白なんてするから……全部壊れちゃったんですよ」
「とっくの昔に諦めてたんです。だから、距離を保って友達でいられたのに……!」
「……もうおしまいです。もう、センパイと一緒にはいられません」

失う、捨てられる、いらなくなる……そういったことに対する怖さ。彼はそんなことしない、あるいはお婆ちゃんはそんなことしない、そういう風に信じられたら楽なんですが、愛はそれが出来ないわけです。始点となった痕にそれがあるし、さらに決定的なまでの自己評価の低さが、(自分を/他人を)信じる自信も根拠も失わせている。そりゃ、私はどうしようもない人間です、みたいなことを自分で思っていたら、他人が自分を捨てないということを信じられなくもなるわけです。だってどうしようもない人間を、捨てない理由が分かりませんから。これがまだ相手が血縁だったら、そういうことを信じる可能性も芽生えたかもしれませんが、そんなわけではないですし、さらには彼女はそもそもその一般的に一番(に近いレベルで)固いと思われている血の絆にすら既に捨てられていると思い込んでいる。この点において、 「……いらない子供だから」 という彼女の認識は非常に強力です。どんなに駄目な奴でも、「自分の子供だから/親だから/兄妹だから」見捨てないという話はフィクション・ノンフィクション問わずよくある話です。しかし愛は、”それなのに見捨てられている”と思っているわけです。ということは単純な式がここに構築される。どんなに駄目でも見捨てられない→それでも見捨てられる=じゃあ自分はどれほど駄目なのだろうと。これも自己評価の低さに繋がっていきます。

さて、ということで、愛は、今もまだ大好きな主人公を「振り」ました。これはつまり、「捨てられるのが怖いので、先にこちらから捨てる」ということです。「振られるのが怖いから、先にこちらから振る」のです。「失うのが怖いから、先にこちらから失う」

えーと個人的にはこういうのが大好きなんです。以前、「STG弾幕が増えすぎると吸い込まれるように自ら弾に当たりにいってしまう」という嘘ニュースがありまして(※現在はもう記事消えちゃってます…… http://d.hatena.ne.jp/g616blackheart/20081215/1229302048)、しかしはてぶコメント見ると「そういう経験あるある」みたいなコメントが散見されて、いや実際ボク自身、STGやっててまるで自分から死にに行くようなことがありまして。これは他ジャンルでもたまにあります。モダン・ウォーフェアとかでも、絶対死ぬような敵陣ど真ん中に自分から飛び出したり、マリオとかでも、なんか絶対死ぬようなタイミングでジャンプしちゃったり。格ゲーでライフゲージ残り一ミリの状態のとき、普段簡単に避けられるはずの波動拳を何故かくらってしまったり。ごくごく稀にですけどね、極限状態のプレイを強いられるような状況では、何故か自ら死ににいくような選択をしてしまうことがごく稀にある。これには映画『ソナチネ』のとある台詞を思い出しました。「あんまり死ぬの怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」というもの。実際そうなんですよ。「死ぬのが怖い」という状況を解消する方法は二つあって、一つは「死なない状況にすること」。当たり前ですね。今現在、そして近未来において死の危険はない、となれば死ぬのはあんまり怖くない。STGでいえば、(慣れてくれば)最初の一面や二面は怖くないわけです。死の危険がほとんど無いのですから。あまつさえパターンを完璧に覚えてしまえば、まず間違いなく死ぬことはない。こういった死なない状況なら、「死ぬのが怖い」は解消されるわけです。もう一つの方法は、「死んでしまうこと」です。死ぬのが怖いってのは生きてるから生じる(死があるから生じる)のであって、だから死んじゃえば死ぬのは怖くなくなるのです。「あんまり死ぬの怖がってると、死にたくなっちゃう」というのはつまりそういうこと。死ねば、死ぬのが怖いという恐怖から解消される。たとえばミシェル・フーコーは、ある時急にスキンヘッドにしたのですが、そのときにこういった言葉を発しました。「私は毎日抜け毛に悩まされてきたが、これでもう抜け毛に悩むことはない」。抜け毛に悩むなら、スキンにしちゃえばいいんです。そうすれば抜け毛に悩む必要もなくなるでしょう。ハゲるかも、と怖がるくらいなら、自分から先にハゲ(スキンヘッドだけど)になっちゃえばいい。そうすればもう、ハゲるかもと悩む理由は消え去るのです。
といったことと同じ理路がここでは展開されています。「失うのが怖いので、先にこちらから失っておきました」「捨てられるのが怖いので、先にこちらから捨てました」「振られるのが怖いので、先にこちらから振りました」……そうすれば、ほら! あなたはもう、失う怖さを味わったり、捨てられる恐怖に怯えたり、振られる可能性に震えたりする必要がなくなるのです!
これが最高にステキです。だーまえ先生も『AIR』で「失いたくないから、何も手に入れない、そういう生き方(をする奴もいるだろう)」みたいなことを言っていましたね(うろ覚え、ただこういう内容であったのは確か)。それの拡大系、あるいは応用系です。―――しかし、それでも、手に入れてしまったのなら。処方箋はふたつっきりで、ひとつは「失ってもいい程度の大事さに抑えること」、もうひとつは「自分から失ってしまうこと」。その二つを愛さんはここで既に為している。


そんな彼女を(主人公は)どうしたか。いやね、なかなか凄いんですよ。主人公「なんとかしてくれ!」愛「やだ」(超要約)みたいな、一歩も前に進まないやり取りをかなりの間繰り返すのが、もうこれどーしょもないんじゃねーの、と。プレイしてて「これどーしょもなくね? どうやってオチつけるの?」と色んな意味で不安でした。たとえば、ここで両親が登場して、本当は捨てたんじゃない、色んな事情があって君は……→良かった、捨てられた子はいなかったんだ→大団円、なんてオチだったら大暴れモノでしたよ! いや一時はそうなってしまうのかと危惧しましたけどね。しかし実際はそうではなかった。てゆうか両親は愛を捨てたわけじゃないという事実が判明してなお、めっちゃグダグダする愛が最高に最強でした。そうなのですよ、これはそういう問題ではない。両親が愛を愛してたかどうかというのは、クリティカルな意味では関係ない。今までの十何年だか二十何年だかと培ってきた、歩んできた、彼女の人生そのものの問題であって、決して始点だけの問題ではないのです。でも、始点を消し去らないことには始まらない問題でもある。そして当たり前だけど、彼女はこれから先も生きていくわけだから、始点を消して終わりとはならない、むしろ新しい始点を作らなければはじまらない。だから、ここでは、それらを全て解消するわけです。まあ、色々と、「新生愛ちゃんのお誕生日」とか、あまりにも出来すぎな感じはありますが(もちろん必要なものですが/文字通りの新生、新しい始点です)、出来すぎだからいいやという気にならなくもない、そんな感じです。詳しいことは皆さん各自ゲーム本編をプレイすればいいと思うよ!(=あらすじ的なもの書くのめんどくせえ) ボクはこの「シメ」、ちょっと力技感がありましたが(勿論、シナリオライティングレベルにおいて力技というのではなく、登場人物たちの行為そのものが(彼ら自身が「賭け」と述べたように)力技であるという事実故)、しかしこの出来すぎの圧倒的な現前性に打ち滅ぼされました。ここでいう「打ち滅ぼされた」とは、「愛、幸せになってくれよ」みたいなキモイ思考のことです。これほどの空間においてはこれほどの祝福が現前可能であって、であるからこそ、内にある、非-現前である「恐怖」は払拭されて然るべきなのではないか。愛はみんなのことを「信じている」と言ったのではなく、 「信じるしか、ないじゃないですかぁ……」 と言ったのです。

「捨てられたのも勘違いで、こうやって祝われて、嘘つきなんて言えるわけないじゃないですか!」
「ぅぅ……ぐっ、んっ……」
「うああ、ぁぁ・・・…ああぁぁぁ……」
「信じるしか、ないじゃないですかぁ……」

この場で明かされた事実と、この祝福と―――つまり、ある意味では、このみんなの、この場の、現前性の強度の前に折れたと言えなくもない。いや、言えるんじゃないだろうか。これはね、ある意味単純な話です。「信じられない!」「○○したら信じてくれるか?」「……それでも信じられない!」という、何処にでもありそうなやり取りを加速させていくんですよ。つまり、○○しても信じてくれない→じゃあもっと凄い○○をする→それでもダメ→ならばさらに凄い○○を→……といった行為の行き着く先、それと同じようなことが今ここで起きているわけです。それがここでいう現前性です。それは力技であることも確かでしょう。○○したら信じてくれるか、の行き着くところを、強引に/勝手に出して、もうそのあまりの強度で、信じてもらう―――ていうか、正しく言うなら、信じてもらうでも信じさせたわけでもなく、「信じるしか、ないじゃないですかぁ……」とさせた。信じるしかなくしちゃったのです。半ばある種ムリヤリ的。この圧倒的な現前性の強度の前に折れたかのように。そんなわけで、ここでの愛の、台詞と台詞の間の涙には、どういった想いたちがこもっていたか、ご想像つくと思うのです。単にこの瞬間嬉しかったから救われたからとか素直になれたからとか、そういうだけの意味ではない。今までの全てを捨てて新しく生きるための儀式(うぶごえ)である。

「人を好きになるのって、怖いことなんですよ」
「……正直、今でも怖いです」
「だけど私、センパイを信じます。私の意志で……恐怖以上に、センパイが好きだから」

ということで、文字通り新生愛ちゃんとなりました。あまりの怖さに生き場を亡くした少女は既に無く、ここに居るのは、あまりの怖さに向き合える少女でした、と。エピローグがなかなか憎いですね。主人公のモノローグなのですが、愛と上手くいって、仕事なども順調で、主人公が幸福な毎日を送っているぜ、というところに一言。 「幸せすぎて、恐ろしくなるほど」 。ここで躓いてしまったのがかつての愛でした。幸せすぎて、恐ろしくなって、そして”本当に恐ろしかった”。だからダメだった。自分から離れるし、自分から捨てていた。でも、普通はそうではないんですよ。実際、主人公はこのモノローグを言いますが、ここから話が膨れたりしません。1クリック後には全然違う話題に移っています。それはおそらく、殆どみんながそうでしょう。「幸せすぎて、恐ろしくなるほど」なんて色んなフィクションでよく聞くような台詞ですが、しかしそんな言葉を発する殆どみんなが、そう思うだけで、その恐ろしさに囚われてしまうことはない。しかし”殆どみんな”と書いたように、そのみんなに含まれない僅かな人たちは、愛のような人は、その恐ろしさに囚われてしまう。そこから抜け出せなくなってしまう。死ぬのが怖いから死んでしまうように、幸せすぎて恐ろしいからこそ幸せを捨てたくなってしまう。これは、そんな人が、そんな恐怖を乗り越える、そういったお話でした。