エロゲの「選択肢」に関する考察

エロゲの選択肢のお話をしましょう。なお、ここでは、今や大半のエロゲがそうであるような、一般的な・通常のADVやノベル形式の作品を対象としていて(特に但し書きのない場合は「エロゲ」という語句も、そういったタイプのゲームのみを指すものとして扱います)、たとえばRPGやシミュレーション、たとえば昔でいう『同級生』とか最近でいう『Sugar+Spice!』などは、また別のお話ということになります。

まずは前提部分など

さて、それなりにエロゲをプレイされている方にとっては最早常識だと思われるので読み飛ばしていただいて構わないのですが、まずは前提から。基本的に、「エロゲというのは選択肢によって自由に物語が紡がれていく」といったものではありません。ゲームを進めてたら、なんか不幸な展開になった。こんなものは嫌だから別の展開が良いと、違う選択肢を選んでも、その展開自体が覆ることは滅多にありません。他のルート・他のシナリオという意味で別の展開はありましても、そのルート・そのシナリオにおいて他の展開というのは滅多に用意されていない(通常、一人のヒロインにつきシナリオは一つしか用意されていない)。観鈴ちん死んじゃったよー他の選択肢を選べば観鈴ちんが死なない物語が見れるか? と言ったらそんなもの実装されていないわけで、そしてそれは観鈴ちん(『AIR』)に限った話ではなく、大抵のゲームにおいてそうなっています(勿論、たとえば『キラ☆キラ』のような例外はありますが)。悲しかったり辛かったりする物語が嫌だといっても、選択肢でそれをどうにかすることは出来ない。はじめから決められたお話を辿っていくことしか出来ない。
これは翻せば、私たちは選択自体がそもそも不可能である、ということでもあります。あるヒロインAのシナリオ展開が気に入らない、嫌だ、といって違う選択肢を選んでも、大抵のゲームは「一人のキャラにつき一つのシナリオ」しか用意されていませんから、私たちがどんな選択肢を選んでも事実上無意味であるわけです。どの選択肢を選んでも、結局、見ることができる物語はその一つしかない。バッドエンド分岐やトゥルーエンド・グッドエンド分岐など細かい部分で物語を選ぶことはできますが、それは大抵プレイ時間にして数分〜数十分ほどの内容の変化でしかなく、つまり物語の枝葉末節の部分での干渉はある程度可能ですが、幹となる大きな流れに対しては無力である。しかも、そもそもとして、そのバッドエンド分岐やトゥルーエンド分岐も、結局は2択や3択でしかありません。あるキャラクターのエンディングが3つ用意されていると言っても、結局は3つしか用意されていなくて、そのどれも望んでない結末だとしても、私たちは選ばなくてはならなくなる=選ばされることになる。


このあたりはエロゲに明るい人であれば常識に近いでしょう。というのも、(数字は適当ですが)100タイトルプレイすれば半分の50タイトル以上は、そのような選択肢の運用がされている、そういった感触があります。『弟切草』がはじめて世に表れた時に夢見たような、プレイヤーの選択次第で幾十幾百幾千の物語が紡がれるといった選択肢の未来は既にここには無いわけです。

多くの場合、それは「鬱シナリオ」だといわれますし、現に物語もそんな感じのものが多いのですが、この鬱はあくまでも、ユーザー=主人公の選択によって作品内部の目的として産まれざるを得ない「自分の選択によって不幸を産み出すこと」を主体的に体感するところに重点が置かれています。鬱ゲーとは「登場人物またヒロインが不幸な目に会う物語」ではなくて、その物語にユーザーが物語分岐というかたちで関与することで鬱にならざるを得ないような作品のことを言うわけですね。これをやや茶化して言えば、ヒロインを振ったり不幸にさせたりするような選択を通すことによって、物語やヒロインへの感情移入を高めてマイナス方向の快楽を得ているともいえるわけです。
http://highcampus.tumblr.com/post/18948130287

この記事、というかマルセルさんの文章の引用の引用なんですが*1、いまや大抵のエロゲの選択肢が持つ最大の効果って”これ”だと思うんですよ。ここではまずこういったところの話をしていきましょう。


大抵のエロゲにおきましては、5人ヒロインがいれば、まず共通ルートの選択肢で5人のうちの誰のルートに入るかが決定されて、個別ルートの選択肢でどのエンディングに辿り着くかが決定されます。ここにおいてまず私たちは「どの物語を見るか」といったことが選べます。あるヒロインAの好感度が上がりそうな選択肢を選んでいけば、そのヒロインAのシナリオに入れる。これが現在、エロゲの選択肢において最も基本的かつ普遍的な機能ですね。たとえば「誰と会うか・誰のところに行くか」といった選択肢しか存在していない『この青空に約束を―』『さくらシュトラッセ』『シュクレ』のように、むしろ選択肢の機能を、そのような意味でしか使っていないゲームも多々あります*2。しかしそれは、どの物語を見るかが選べるのであり、「どのような物語にするか」といったことまでは決して選べないわけです。それに、ボクなんかは、気に入ったゲームは全シナリオクリアすることが多いのですが、そういう人にとっては「どの物語を見るか」というよりも「どの順番でプレイするか」という選択肢にしかなりえません。これに関しては、最近、特に大作や名作と呼ばれるゲームに多くある、「全ヒロインクリア後にTRUEシナリオや重要なシナリオが現れる」とか、「全シナリオをクリアしないと作品・物語の全体像が掴めない」とか、そういったタイプの作品とも関係があるでしょう。『Fate/stay night』とか『星空のメモリア』とか『装甲悪鬼村正』とか『素晴らしき日々』とか『俺たちに翼はない』とか『リトルバスターズ!』とか『スマガ』とか『Hyper→Highspeed→Genius』とか、古いところだと『AIR』とか、今適当に思いつくままに列挙しましたけど、そういった、全シナリオプレイしないと、物語の謎や疑問や伏線が多数残ってしまう作品たちがあって、その場合は全部クリアするのがある意味では当たり前のようにもなっています(もちろん、後述しますが、たとえそうであっても「俺が終わらせたいところで終わらせる」プレイヤーこそがもっとも善いものであるのです)。あるいはPULLTOP諸作品、『真剣で私に恋しなさい!』、『らぶ2Quad』とかのように、TRUEという扱いではなくても、面白かったり興味深いエピソードが追加されるタイプの作品もある。そうなってくるとますます全シナリオプレイして、だから結局「どの物語を見るか」という選択肢の権能すらますます失われていくことになる。逆に、そのことに意識的なのか、選択肢が作品通して一回しか出てこない『HappyWardrobe』*3とか、同じく選択肢が二箇所しかない『てとてトライオン!*4のような作品もあったりします。選択肢には女の子を選ぶ(誰ルートにするかを選ぶ)機能しかないのだから、こまごまと選択肢を幾つも用意しないで、一発で女の子を選べる(誰ルートにするかを選べる)選択肢を用意してそれで終わりでいいじゃないか、それでも実質同じじゃないかと言わんばかりの構造。
つまり、一応「見る物語を選べる」という機能はありますが、それも無限に近い数が用意されているのではなく極限られたパターンしか存在しておらず(たとえばヒロイン5人だったら、枝葉末節の変化を除外すれば、通常5人分のシナリオ5つ+αしか存在していないわけです)、それを私たちは「選ばされている」と言った方が実情に近い。

決して自由には選べないわけです。どうでもいいところなら比較的自由に選べます。たとえば、次の台詞がちょっと変わるくらいで、好感度やフラグに決定的な影響を与えないといった選択肢は、色んなゲームが実装していますが、そういったものなら自由に選べる。ただし「本当に自由」に選べるというわけではなく、選択肢の選択肢は既に決定されています。どういうことかというと、たとえばある場面で選択肢A・B・Cが出てくるとしますよね。このとき、この選択肢A・B・Cの中身を僕たちは選択できません。授業終わって放課後になって「教室に残る」か「部活に出る」か「家に帰る」かが選択肢として出てくるエロゲというのがあったりしますけど、その場合、この3つ以外は選べないわけです。なんとなく屋上に行ったり帰りにゲーセン寄ったりしたくても、そういう選択肢が存在しない以上、それを選ぶことはできない。そのような選択肢はない=選択の選択は既に決定済みであるわけなのです(どのような選択肢が出てくるかは既に決められている)。
また、何処で選択肢が出てくるか、というのも僕たちは選べません。これも既に決定されていて、授業中とか朝イチとかで何かやりたくても、選択肢が存在しなかったらそれは叶わないわけです。さらに、基本的には、選択肢が出てきたら何か選ばないと先に進まないように作られていますから、私たちはそこで選択を強制させられるということでもあります。選択”させられる”。その上で選択肢の内容自体は既に決定されている、どういう選択肢があるかを選べない。ということは、それは、提示される選択肢が、全部選びたくなくても、全部選びたくても、たとえ自分の脳内にはもっと良い選択肢が浮かんでいても、そこから選択しなくてはならないということです。これどれも選びたくねーなと思っても、選択肢がある以上(選択しなければ先に進めない以上)、私たちはそれを無理矢理にでも選択”させられている”のです*5。たとえば共通ルートの雑談部分とかで、何を選んでも直後のセリフがちょっと変わるだけのどうでもいいところだからこっちとしてはどうでもいいんだけど……って箇所でも、選ばなければ話が進まないのだから、選ばなくてはいけない、つまり、強制的に選ばされる。
しかしこういった部分こそが、エロゲの選択肢が持つ機能として最も効果的なものの一つであると思うのです(そしてこの記事はおおよそそのような話をします)。
たとえば、話を戻しますが、どのような選択肢を選んでもあるヒロインのシナリオは(ルート)は基本的にひとつで、せいぜいが枝葉末節の部分しか変化しないということ。ここで、”にも関わらず選択肢を選ばせること”が非常に優れている、といった話です。結局シナリオが(ヒロイン毎に)ひとつしかないのであれば、選択肢は事実上無意味に近いわけです。たとえば3つ選択肢があって、1つだけ正解で残りの2つを選ぶとすぐにバッドエンドなんて場合は端的でしょう。この場合、実質的には何も選べていない―――選んでいない。やり直しができないというなら、それでも「選べている」と言えるんでしょうが、ゲームは何回でも同じ選択肢にいける、やり直せますからね。結局僕ら、バッドエンドの選択肢を選んでも、またやり直して同じ選択肢に辿り着くじゃないですか*6。もう飽きた、めんどくせえやめる、といった「ゲーム外の選択肢(物語外の選択肢)」なら選べても、「ゲーム内の選択肢(物語内の選択肢)」はひとつしか選べない―――これはつまり、選べていないといえる。俺はこの選択肢で良いのだ、バッドエンドだろうと俺のした選択だ! で終了してアンインストして押入れに仕舞えるプレイヤーは最も善いプレイヤーでして、このような話とは全く無関係ですが、そうではない大抵の人、バッドエンドにいったらやり直して、あるヒロインAのエンドに行ったらまた最初から(もしくはセーブポイントから)やり直して今度は違うヒロインの物語に赴く、そんな大抵のプレイヤーにとっては、選択肢というのは実質的な意味を何一つ持たない。つまるところ、正解を「選ばされている」。正解はひとつ、やり直しは可能、つまり、実質的には「何も選択できない=ひとつしか選択できない」のに、選択肢でプレイヤーが”選ばされている”。あるいは前述したように、どうでもいいところだけは選べますが*7、物語に重要なところは決して”選べない”。しかも選んだ結果は可変ではなく不変であって、(僅かな例外を除いて、大抵のゲームにおいては)シナリオというのは既に決まっていて、展開の細かい部分、多少の台詞、あるいはエンディングの変化くらいは望めても、それ以上の変化、つまり物語の大筋を変えたり、話の展開の根本的な部分を選択肢によって変えることは不可能になっている。しかもその大筋でないところの変化だって、限られた2パターン・3パターンの中から選択する=選択させられる(なにせ他にないのだから)だけでしかない。
だからこそ、事実上選択肢は意味が無いのですが、しかしにも関わらず、選択肢がある、そして選択肢がある以上はたとえイヤでも選択しなければ先に進めないというこのエロゲの構造は、非常に優れているのです。

この辺、実は『ドラゴンクエスト』の選択肢も似たような作りとなっていますので、そのあたりの話を続けましょう。

ドラクエの選択肢は何のためにあるのか

ドラクエ』には特徴的な選択肢があります。「はい」を選ぶまで何回「いいえ」を選んでも無限ループする、といったものです。たとえば王様から、どこそこのモンスターを倒してきてくれとか、なんかのアイテムを取ってきてくれとか頼まれます。ここで選択肢が出てきて「はい」「いいえ」を選べるようになっている。しかし「いいえ」を選んでも、そんなこと言わずに頼むよみたいなこと言われて、また「はい」「いいえ」の選択肢が出てくる。ここで「いいえ」を選んでも、また同じやり取りがあって、また同じ選択肢が出てくる。そこで「いいえ」を選んでも、また……またその次も……と、以下無限ループに、何回「いいえ」を選んでも「はい」を選ぶまでは延々と終わりません。
要するに「はい」を選ぶしかないのです。だったら最初から選択肢にするなよ、選択肢にする意味ねーじゃんと思われるかもしれませんが、これが素晴らしく効果的なのです。これを二十年以上前のファミコン時代から実装していたのが凄い。このような、本当は(実質は)選べないに等しいのに(体裁だけはまっとうな)選択肢の体を取ることを、ジジェクという人が「ポストモダン的な選択」とかそんな風に名付けていましたが、これは素晴らしくタチが悪い。ジジェクがしていた話なのですが、記憶で書くのでちょっと細部違ってるかもしれませんが、東欧だかの何処かの国の軍隊では、新兵訓練だったか軍学校だったかで、二年ほど厳しい訓練を積み重ねます。そしてその訓練の最後に、兵士ひとりひとりが「宣誓」みたいなことをするわけです。私は軍に絶対の忠誠を誓いますとか、この国の為に我が身を捧げますとか、多分そういったことを声に出して誓うわけですが、これは強制ではありません。やりたかったらしろよ、嫌ならしなくていいと、選択制になっているわけです。選択制なのだから、自分で選んでそう言っているという体裁を取れます。これが非常にいやらしい。これが半ば強制(実質強制)であるということは明らかですよね。国のために戦うという前提の軍において、上官の命令に絶対服従が前提の軍において、そういったことを宣誓できない奴はお話にならないわけです。実際にそうするか/できるかはともかく、少なくとも「そうします」という宣誓の部分、つまり問われてるのは彼の姿勢や精神の部分です、その時点でそれが出来ないと言ったら、出世の道はなくなるし、周囲からの扱いが悪くなるのも目に見えて分かる。だからこれは、強制じゃなくても強制と事実上同じ意味を持っていますし、しかしながらそれでもなお(体裁だけは)強制ではなく自主的な選択であるというのがタチ悪いのです。強制されていたら誰だって言えますけど、強制されていなかったら自分の意志で言うしかないですよね。だから強制ではなく選択制にすることによって、自分の意思で選んだという傷を、選んだ主体につけることができる(かつ、自分の意思で選んだと思い込んでる主体を構築することができる。大文字の他者はそんな事情を分かってくれてるかどうか不明なわけです)。
たとえば、結構前なのですが、残業が多くて一般に「ブラック企業」と言われているような会社の社長が、「ウチの社員はみんな残業しているが、私は残業を強制していない。社員たちが自ら進んで残業しているのだ」的なことを言っていて、似たような構図だなと思いました。周りが誰も残業していない・そもそも仕事自体殆ど残ってない場合はともかく、仕事もあるし周りの皆が残業しているような環境だと、そもそも残業以外の選択肢が事実上なくなるのです。で、こういった場合は、「残業しろ」と命令されるより、「君は残業してもいいし、残業しなくてもいい」と選択方式にさせられた方がよっぽどタチが悪い。仕事はあります、同僚も上司もみんな残業しています、でもあなたは残業してもいいししなくてもいいです、といった場合に残業しなかったら、まあこれはどういう会社かとかそこでの空気にもよりますが、悪い想定をした場合、上の軍隊の例と同じ様に、出世の道がなくなったり、周囲からの扱いが悪くなったり、査定に悪い意味で響いたり、終いにはクビとなる可能性も充分考えられますよね。なぜならここで問われてるのは、残業するかどうかではなく(実はそれは二次的なものでしかない)、姿勢や精神だからです。あなたは愛社精神はありますか、仕事熱心ですか、周りの同僚を助けようとする姿勢はありますか、といったことを問われているに等しい。上の軍隊の例も似たようなもので、ここで残業するかしないかではなく仕事熱心か愛社精神はあるか同僚を助けるかということを問われているのと同じ様に、忠誠を誓うことを宣誓するか否かではなく、そういうことを誓える精神を持っているということを宣言できるかということをここで問われているわけです。
だからこそ「強制」ではなく「選択可能な体を取る」ことが重要なのです。そう、これらは、実際には選択不可能に等しい。これらは基本的には「はい/いいえ」ではなく、「はい」しかない選択肢なのです。宣誓してもいいし、しなくてもいい、残業してもいいし、しなくてもいいと、「はい」「いいえ」の二通りの選択肢が用意されているかのようですが、実際は「はい」の一つしか選べないに等しい。勿論「いいえ」も物理的に選べますが、その場合の賭け金は字面とは全く異なるものになっています。「いいえ」を選ぶということは、単に残業しない・宣誓しないという意味ではなく、もっと深い(会社や軍隊との)決裂すらも意味している―――いや、むしろ、ここで「いいえ」を選ぶということは、会社や軍隊に決別を宣言しているようなものです。最終的には、軍や会社をクビになる(退職に追い込まれる)可能性があります。そこまで行かなくても、立場が悪くなるだろうことは明白です。”だから”、普通は「はい」しか選択できない。にも関わらず、客観的には自由な選択を装っているからタチが悪いのです。まさにラカン的に言えば(大文字の)他者は僕たちがどういう事情があってそんなこと選択したのか知らないわけです。たとえば僕らが無理な残業をする。その裏にはこういう理由がある。しかしそのことを、家族は、友人は、あるいは「残業からくる過労死で死亡」みたいなニュースを読んだ赤の他人の皆さんは、そのことを知っているだろうか。ちょっとググれば、残業による過労死とか、残業を要因とした自殺とか、そういう話題はいくらでも出てくる。そこで、何故その人はそこまでの残業をせねばならなかったのかという理由を僕たちは知らない。(2ch系だと特に)そういう記事に対し、そういう人たちに対し、自己責任とか、自己管理が原因とか、そんなコメントが当たり前のように見られるくらい僕たちは(他者は)知らないわけです。で、そういったものは「強制ではない」からこそ起こるのです。強制なら「ああ、この人は強制されたんだな」の一言で済む。なんでそんな会社に入ったんだみたいな意味での自己責任という言い方はあっても、なんで残業してんだという意味での自己責任という言い方はありえないわけです。ですが、このように、体裁だけでも「選択可能」にしておくと、そういったところで捻れが生じるわけです。実際には選択可能じゃなかったんですけどね、しかし(どんな事情があるにしろ)選択可能だった=選択をした主体が、そこに構築されることになる。ちなみに、ここで一番重要になるのがポージングであって、実際にどうかは問われていない(本当に軍隊に忠誠を捧げるかどうかは問われていないし、残業中は死に物狂いで働くかどうかは問われていない(※ただしマジデスマ状態の時は除く))というのが、今日ここまでタチが悪いと何度も書いてきましたが、そこが最もタチの悪いところです。

ちょっと話がずれてきたので戻しましょう。『ドラクエ』の選択肢もこれと原理的には同じ様なもので、なんでここで選択肢用意して絶対に「はい」を選ばせたかというと、「たとえ事実上の選択ができなくても形式上選択させて我われを「選択した者(主体)」として仕立て上げるため」です。なぜこのような選択肢の作りにしたのか、妥当に考えればいわゆる「お使い感」を和らげるためとか、没入感を少しでも増すためかと思われますが(たんに強制的に命令されてなんかやるよりも、形式の上だけでも「選択」にした方がそれに関しては効果が見込める)、まあこれらは推測なんで実際どうかは知りませんけど、そしてこの「はい/いいえ」無限ループ自体は一作品に数回出てくる程度でそんなに頻度高くなくて、その分効果も抑え目ですけど、しかしこういった主体構築において有効的であるわけです。実は『ドラクエ』の選択肢というのも、事実上の「いいえ」が選べます。それは上記した例と同じく、盤外の賭け金をベッドすることによってですね。仕事をやめるという賭け金でもって残業をしないのと同じように、ゲームをやめるという賭け金をもってすれば王様の「はい」ループに中指立てられるわけです。要するに、簡単な話、「はい」しか選べなくて、でも「はい」を選びたくなければ、ゲーム自体をやめてしまえばいい。これが我われに為せる唯一有効的な対抗手段です。

エロゲの選択肢も事実上「はい」しか選べない

この辺はすべて、エロゲにおける選択肢でも似たような構造にあります。エロゲの選択肢、あれも事実上は”「はい」しか選べない”に等しいわけです。タイトルによっては、かつルートによっては、誰かを傷つけたり誰かを振ったりする選択肢を選ばなければ話が進まない場合があります。傷つけたくない・振りたくないと思っても、つまり「いいえ」を選んでも、バッドエンドに到達するだけで、先に進むには「はい」を選ばなくてはならない。「はい」を選ぶまで無限ループするのと事実上は変わりありません。個人的な経験を申し上げさせていただきますと、『ONE〜輝く季節へ〜』の長森シナリオに入るための選択肢などはなかなか苛烈でした。長森を傷つけるような選択肢を選ばないと長森シナリオに入れないといったシロモノだったのですが、当時のボクは、その選択肢がどうしても目に付かなかった。目に付かなかったのですよ。何回やっても長森シナリオに入れないなーと、たしか延べ30時間くらい、色々と試行錯誤しました。椎名を登場させた上で話を進めればいいのかとか、漢字テストで高得点出した上で話を進めればいいのかとか、とにかくどうやったらフラグが立つのかと試行錯誤して、全然関係ない部分の選択肢で色々と……思いつく限り全部試していたわけです。本当は共通ルートの最後で、長森を傷つけるような(傷つける未来が待ってそうな)選択肢を選べばそれで全て終わってたのに、そこに気づかなかった。いや、気づく回路を失っていたと申し上げるべきでしょうか。ボクの中で「長森を傷つける選択肢」というものがそもそも埒外だったのです。だから、ずっと再プレイしていたので当然なのですけど、何回もその重要な選択肢に到達していたでしょう。しかし無意識の内に、傷つけない方を選んでいた。つまり傷つける方の選択肢は、ボクの中には存在していなかったのです(だから、そう、その選択肢を意識することすら出来なかった)。しかしさすがに30時間もやってれば、ある時ふと気付くわけです。「あれ、この選択肢選んでない」と。その選択肢は内容的に選びたくなかったのですけど、しかしこれしかもう可能性がないわけですから、半ばしょうがなく選んでしまったわけです。ここでやめていれば善いプレイヤーになれたでしょう。やめる、というのは、ゲーム自体をです。「はい」の無限ループに対して、私たちにできる唯一の対抗手段は、そういった盤外の選択、ここには無い賭け金の投機でしかない。俺は王様の頼みを絶対聞きたくないから「はい」を選ぶくらいならゲームをやめる、俺は長森を傷つけたくないからそうするくらいならゲームをやめる、それこそが最も善いプレイヤーでしょう。この嘘っぱちの選択により構築された、虚構の主体構造から逃れることが出来ている。
しかしそのような主体化こそが、現在の一般的な・通常のADVやノベルタイプのエロゲにおいて、選択肢の持つ最も有効な権能でもあります。盤上の選択肢は他になかったとはいえ、「プレイヤーが選んだ」という形式を保つことが出来る。それがある種の傷となり、主体構築において非常に効果を発揮する。エロゲにおける選択肢が持つ機能としてそういったところも挙げられるわけです。ある選択肢を選ぶという行為が、プレイヤーである僕たちの意思とは無関係な場面は多々あります。要するに、「ボクはそんな選択肢選びたくない」のだけれど、「それを選ばないと先に進めない」から、「自分の意思に関わらず選ぶ」という行為のこと。「いいえ」を選びたいのだけど「はい」を選ばないと先に進めないから「はい」を選ぶのと同じです。この”選んだ”という事実が重要なのです。

多くの場合、それは「鬱シナリオ」だといわれますし、現に物語もそんな感じのものが多いのですが、この鬱はあくまでも、ユーザー=主人公の選択によって作品内部の目的として産まれざるを得ない「自分の選択によって不幸を産み出すこと」を主体的に体感するところに重点が置かれています。鬱ゲーとは「登場人物またヒロインが不幸な目に会う物語」ではなくて、その物語にユーザーが物語分岐というかたちで関与することで鬱にならざるを得ないような作品のことを言うわけですね。これをやや茶化して言えば、ヒロインを振ったり不幸にさせたりするような選択を通すことによって、物語やヒロインへの感情移入を高めてマイナス方向の快楽を得ているともいえるわけです。
http://highcampus.tumblr.com/post/18948130287

冒頭に引用したマルセルさんの言葉をまた引きますが、今まで書いてきたように、「物語分岐」という機能はある意味では失効しています。だって、エロゲには、”その物語しかない”のですから。一本道・あるいは事実上の一本道の作品は言うに及びませんが、そうではない作品も、シナリオはヒロイン一人につき一つしかなくて、分岐のしようがなくて、だから、どの選択肢を選ぼうと事実上関係ない。どの物語を見るかという前提部分は別ですし(全部見るのであれば決められることは順番だけしかないけれど)、また途中でゲームをやめるという盤外の抵抗はできますけど、ゲームの中では、どの選択肢を選ぼうと、何をしようと、結局、お話は(ヒロイン一人につき)一つしかない。しかし、にも関わらず、選択肢をプレイヤーに選ばせることによって、”「自分の選択によって不幸を産み出すこと」を主体的に体感する”ことが出来るようになっているのです。事実上は僕たちプレイヤーが選べていないと同じ意味なのだけれど、選択できるという体裁を取ることによって、僕たちが選んだという体裁もまた、取られている。形式上選択肢であることにより、僕たちもまた形式上では選んでいることになっているのです(もちろん、実質・事実上は異なりますが、しかし体裁・形式上において”そうである”ということこそが重要なのです)。
最近、あるエロゲをやりまして。それがきっかけで、この記事を書いたのですが。そこでは、主人公がある女の子Aと、何となくで付き合うのですが、のちに別の女の子Bがやっぱり好きだ・俺が本当に好きな子はそっちだと気づき、Aを振ってBと付き合う、といった内容が展開されていました。そこには選択肢は一つもなく、ただ見せられるだけでした。これが勿体無いなぁと思ったのですよ。どうしてプレイヤーに選ばせないのか。別にバッドエンドでいいんですよ、やってること同じでいいんですよ。Aと取りあえず付き合う・付き合わないの選択肢が出てきて、付き合わなかったらバッドエンドでいいんです。Aを振る・振らないの選択肢が出てきて、振らなかったらバッドエンドでいいんです。事実上何も変わらないとしても、やっぱり選択肢はあった方がいいと思うのです。だってこいつ(主人公)が勝手にAと付き合って勝手にAを振って勝手にBとやっぱり付き合ったようにしか実感できないんですもの。内容自体はいいゲームなんですよ。話自体は良い。ただ、選択肢がないから、主人公が勝手にやってる(つまり、主人公の自業自得)のようにしか思えない。プレイヤーにとって、主人公の他人感が非常に強まってしまうのです。
だから擬制だとしても、エロゲにおいて選択肢は効果的だと思うのです。何を選んでも結局行きつく先は一緒、シナリオは同じなのですが、しかし『ドラクエ』の選択肢がそうであるように、あるいは例に挙げた残業や軍隊がそうであるように、たとえ同じだとしても、意味がないかのように見えても、そこをプレイヤーに選択(プレイ)させることが重要である。たとえ実質・事実上はそうではないとしても、体裁・形式上は”「プレイヤーの選択によって○○(不幸なり幸福なり)になった」”という形を整えることが重要なのです。だからこそ鬱ゲーというのはマルセルさんが仰るように鬱ゲー足り得る*8。結局私たちはそれしか選択できない(どのような選択肢を選んでも、鬱展開にしかならない)としても、それでも私たちに選択させることが重要なのです。そうしてはじめて、私たちはこのお話に関われる主体となれて(ただ見ているだけの人間ではなく、(選択肢により)関わった人間としてここに存在できるのです)、だからこそ、モニター内の彼や彼女の物語が、まったくの他人が勝手にやっているものではなく、私たちが関わったものとして形成されるのです。

さっきから話に出てくる「主体」について、超簡潔にフォローしておきましょう。ここでは「俺は俺だから俺なのだ」みたいな意味じゃなくて、「この場合の俺」みたいな意味です。「何かに対する自分」、といった感じの意味での主体ですね(ボクが過去何度も書いてきてしまった主体化(assujettissement)の話なので読み飛ばしていただいて結構)。たとえばボクたちが、家で適当にエロゲーしているときと、学校で教授の前で真面目な学生を演じているときと、バイトで「いらしゃいませー」言ってるときでは、それぞれ全く同じ「自分」ですけど、やることもやってることも微妙に異なっています。なんで異なっているかというと、それが必要だったりそれが求められたりしているからなのですが、そういった常々変化して生成されるのがここでいう「主体」です。そしてそれは、居場所を作る(確定する)ことにもなります。よくエロゲにおいて「プレイヤーは主人公に同一化している」とか言いますが、それよりも「プレイヤーはプレイヤーに同一化している」と言った方が正しいでしょう。かつて映画についてクリスチャン・メッツが「(映画の)観客は観客自身に同一化する」と仰ってましたが、それと同じような意味です。たとえばですね、ボクが最初にやったバイトがコンビニの店員だったのですが、それまで「いらっしゃいませー」とか言ったこともないし、レジ打ったこともないボクがどうやってそれをこなしたかといいますと、コンビニ店員の真似をすることでやりきりました。まあこれはコンビニ店員に限った話じゃなく、色んな職業に当てはまりますが、一番簡単なやり方ですね、その対象に同一化するということ。どうやって仕事をやったらいいのか分からない(レジはこう使うのだということは教えてくれても、「いらっしゃいませー」はこういう発音で言うのだということは教えてくれない)、ならば、既にその仕事をやってる人に”なりきる”こと。真似する・なりきる・同一化、これはそれぞれ隣接する概念です。そういう対応を取るのが、一番簡単で手っ取り早くて、そしてかなり有効的。そもそもコンビニの店員に対しては、客も経営者もふつうは「コンビニの店員」を求めています。コンビニの店員”以外のことをしている”人がレジに立ってても困るわけです。コンビニのレジで寿司握られても困るし、コンビニのレジで将棋指されてても困るわけでしょう。そんな人いらねーのです。そういう人の居場所ではない。つまり、コンビニのレジにはコンビニの店員が求められているのです。そういう人の居場所がある(そういう人の居場所である)。だからコンビニでバイトした時は、コンビニ店員に同一化するのが一番手っ取り早くて有効的なわけです。なぜならそういう人が求められているのだから、その「求められてる人」に同一化する=なりきるのが一番手っ取り早い。ちなみに、こういうのが先に書いた主体(主体化)でもあります。コンビニ店員の時の自分というのは、普段の時の(他の時の)自分とはふつう異なっているわけです。つまりここでは、「コンビニ店員の時の自分」というものが生成されている。さて、「(映画の)観客は観客自身に同一化する」というのも、概ねこのようなものでして、これはまあ大抵の映画における最も基本的な原理に基づいて保証されています。つまり、大抵の映画というのは、観客が見るために作られており、観客が楽しめるように作られており、観客を満足させるために作られているということです。まあたまに、スポンサーのためとか、作り手自身が楽しむため(いわゆるオナニー)に作られてるようなものもあるので、「大抵は」と但し書きが付きますが。また「観客のため」と言いながらも、作り手側が想定している観客が、我われ実際の観客とかけ離れていて、吹っ飛んだ結果となってしまう場合もありますが。とはいえ基本的には観客のために作られており、ならば私たちは、「観客になって見るのが」一番楽しめる方法なのです。メッツの理屈自体はもっと小難しいのですが、そういう解釈がなぜ必要なのかを平たく述べると*9こういうことです。映画は観客のためのものである。だから映画は観客が一番楽しめる。そもそも観客のためのものなのだから、映画は観客を求めている。だから私たちが映画に臨む際は、観客に”なって”映画を見るのが、最も適したやり方なのである。これはエロゲにおける「プレイヤー」に対しても同じ様なことが言える。プレイヤーのために作られて、プレイヤーが楽しむために作られて、プレイヤーがプレイするために作られている。エロゲというのはプレイヤーを求めている。基本的には、エロゲが私たちに提供できるものは、プレイヤーのための居場所なのです。この辺は先の主体の話を反転させると分かりやすいですね。客や経営者はコンビニ店員に「コンビニ店員であること」を求めているのですが、逆にコンビニ店員は客や経営者に「客であること」「経営者であること」を求めています。当たり前ですが、店内入ってきて何も買わずずっと寿司握ってる男とか、オーナーなのに一日中将棋だけしている男とか、そういう人がいても困るわけです。そんな人の居場所はない。それと同じように、映画にとっても、映画館でスクリーンも見ずに寿司を握り続ける男とか、エロゲにとっても、起動はしたもののモニターを見ることなくクリックすることなくパソコンの前で延々と将棋をやり続けるような男とか、そういう人がいても困るわけです。そのような人の居場所は、ここにはない。まあちょっとおかしいかもしんないこと言いますけど、要するに、それに接するべき主体ではない(そういった主体化がなされていない)。
ではエロゲのプレイヤーの話の続き。そもそも「主人公に同一化」とかいうけれど、同一化というのは、決して視点人物・焦点化人物だけに起こるものではないはずですから、ボクたちはヒロインとかサブキャラとか敵キャラとかにも感情移入するし、同一化しているような場合もあります。主人公に同一化していたら、それすら叶わなくなってもおかしくはないのだけれど。しかしですね、プレイヤーに同一化するのであれば、もう何でも叶うわけです。主人公に同一化した上で(いやむしろ”それ以上”すら望める)、さらに他の何かを求めることも出来る。プレイヤーという主体はおよそエロゲが供給する全てのものを、(根本的にはプレイヤーという主体において、という但し書きはどうしても付きますが)、何でも受け取ることが出来る。それはエロゲに求められている「主体」である。あるいは、エロゲをプレイするという時点で、私たちは大抵「プレイヤー」になる=プレイヤーに同一化する(もちろん大抵であって例外はありえます)。

で、それはあくまで前提、スタート地点の話であって、そこからどう深めていくのか――主体化の深度を増していくのか、そういったところにおいて、「選択肢」というのは有効に機能しているのです。というのがここまでのお話でした。

カノン神学/Kanon問題

リンクに貼ったマルセルさんのところで話題になっていたので、ちょっとこのお話をしたいと思います。「えーカノン問題って何?」と思った方は申し訳ないのですがググって下さい。我われはもう、疲れたのです。とはいえわざわざこの話を蒸し返したのは、この話題自体が、選択肢による主体構築によって起こり得るものでもあるとも思うのですが(「俺が選んでしまった」というのを形式上取っているのが重要なのです)、ここでよく出てくる「遡及的過去形成(遡及的過去生成)*10」という言葉もまた選択肢に絡むものだなぁと。この言葉は文字通り、「後から過去が決定される」というものです。意味しているものとしては(=後から過去が決定される状況というのは)主に3つあって、ひとつは「心的現実」。これはエロゲだと……ネタバレになっちゃうので詳細は省きますが、『俺たちに翼はない』や『リトルバスターズ!』は、心的現実において後から過去を決定しているような場面があります。あのときのアレはこういう意味だったんだ、というのを、実際に過去にワープするわけでもなく、そしてもちろん実際にはそういう意味でもなく、だからこそ彼らの脳内で=心の中でだけは、そういうふうに”決定”してしまった。今の時点から、タイムスリップも新事実発見も使うことなく、10年前のあの出来事や、生まれた時のことなんかを、解釈することによって新しいものとして生みなおしたのです。
遡及的過去形成の二つ目は、ドゥルーズベルクソン的な「潜勢的なものの生成」です。そもそも遡及的過去生成という言葉自体があるくらいですから(日本語訳された本における「潜勢的なものの生成」に関する話題で、遡及的過去生成という語句が出てくる)、つか元ネタだとずっと思ってたんですけど。これはたとえば、分かりやすい例としては、ある出来事の意味が後から決定されるとか、そういったものです。よくある例としては、「就職活動に失敗してしまった、第一希望の企業・業界に受からなかった、しかたなく全く別の業界を受けてそこを採用された、しかし働き始めて数年、今やそこで大満足しています、むしろ考えると、僕は今のこの会社に入るために第一希望の企業・業界に受からなかったのではないだろうか」みたいな話。なんかたまにこういうの見るんだけど。ここでは後から過去が屈折しています。当時は、そこに落ちてショックでこの世の終わりみたいな顔してて、興味のない業界に入っちゃって超やる気なかった筈なのに、今は「それこそが重要だった」と答えている。……あれ、なんかこの例、書いてて間違ってるような気がしてきたw まあ多分だいたいこんな感じです。
そして三つ目、これがおそらく最も一般的に使われている遡及的過去形成の「意味」でしょう。選択により過去が決定される。ある種SF的です。たとえば、舞ルート以外のルートに入ると、舞は魔物を狩ってないし幼い頃に祐一と会ってなかったということになります。過去が変わっちゃうわけです。こういった遡及的過去形成を選択肢で実現する(Kanonの場合は強引感も少しありますが、こっちは”マジ”で)ゲームは他にあったります。たとえば『シスターコントラスト』においては、妹に「お兄ちゃんセックスしたことある?」みたいなこと聞かれて、選択肢「したことある」「したことない」が出てきます。ここで、「したことがある」を選ぶと、本当にしたことがあるということになって、「したことがない」を選ぶと、本当にしたことがないということになります。物語の中で。これはライター木之本みけさんの、例の「こだわり」により実装されたものだと思うのですが、結果として、遡及的過去形成が為されている。主人公の過去のH経験の有無が、現在の選択肢によって変化するのです。


さて、Kanon問題そのものに関しては……個人的な見解としては、その問題系自体が持つ最も有効な能力として「罪悪感を愉しむ」が挙げられます。誰々の犠牲の上でこの幸福が成り立っている、”という罪悪感を愉しむことが出来る”。これはもっと単純な話で、誰かの犠牲の上で成り立っているからこそこの幸福は素晴らしいものだ(それが行き過ぎると、”素晴らしいものでなくてはならない”)とか、そういうことも言えるでしょう。たとえばレイプファンタジーという言葉はその視点が決定的に欠けているのが残念だと思うのですが、人は、罪悪感を愉しむことが出来ます。しかもこれは、主人公やヒロイン、つまり物語世界には基本的に殆ど関係ない(犠牲がいる(かもしれない)ことすら彼ら・彼女たちはほぼ知らない*11)以上、この罪悪感は”プレイヤーだけのもの”です。だからこそより愉しめる。我われだけが知っている、我われだけが得ることのできる、(剰余)享楽なのです。
……しかしそもそも、Kanon問題の発想自体がプレイヤー原理・主人公原理とも言えるでしょう。いや、それはプレイヤーにとっては当たり前であり、その当たり前を(こうなってしまうまで)構築できているのだから、Kanonは優れているとも言えるのですが。たとえば、聞いたところによると、本当にうろ覚えで書くので特定個人に宛てたものではなく一般論として聞いて欲しいのですが、「祐一が舞ルートに行かなかったら、舞は夜の学校でひとり魔物と戦い続ける、かわいそう!」「いや、祐一が別ルートに行ったら、舞は魔物と戦わないし、そもそも子供の頃に祐一と会ってないし」みたいな感じのやり取りがあったそうなのですが、しかしこれは、前提からしてプレイヤー中心主義・主人公中心主義的なのです。祐一が現われなかったら舞は夜の学校でひとり魔物と戦い続ける可哀相! ではなくてですね、そもそも、祐一が現れようが現われまいが、夜の学校でひとり魔物と戦っている時点で舞は「可哀相」なんです。あゆの奇跡がなかったら栞は助からないかもしれないから、栞ルートではない別ルートの栞が可哀相、ではなく、そもそもそういう重い病気を患ってる時点で栞は「可哀相」なのです。祐一の存在以前の時点で既に彼女たちは充分「可哀相」なのです。プレイヤーがプレイする前からもう「可哀相」で、プレイヤーはプレイした後ではじめてそれを知るから、その後ばかりがクローズアップされて「可哀相」になってしまうのです。これはある意味当たり前の話ですが(人間は空飛べない、可哀相! とはならないように、キャラクターがそもそも持っているものに対して可哀相とは(話の展開次第だし、その元々持ってるものがどれだけ重いか次第ではあるけど)なりづらい。そういう存在であるという前提の上で登場するのだから)、しかしプレイヤーという主体を構築していてはじめてきちんと当たり前になるのであって、だからこそ優れているでしょう。

選択肢運用の現在

興味深い選択肢の運用をしている作品はたくさんあって、たとえば『赫炎のインガノック』は、「手を伸ばす」という選択肢(あるいはそれに順ずる選択肢)を何回も選ばせてきます。反復されることによって圧倒的な刷り込みが為されている。そもそも「心の声」を聞いていくモードからしても非常に興味深い使い方ですね。ノベルゲームではありませんが『Sugar+Spice!』も、物語と(選択含めた)システムが完全に合一しているという非常に素晴らしいものでした。また(エロゲじゃないけど)かの有名な『Steins;Gate』も恐ろしく優れた選択肢の運用を行なっています。あのゲームにおいては、私たちにとってのフォーントリガーシステムが、岡部倫太郎にとってのDメールシステムとほとんど同じ性質を持っているのです。この相同性が「電話」を介して、私たちと岡部倫太郎を繋げてくる。……この辺の話は、ただでさえ長い文章がさらに長くなっちゃうので、いずれ機会があれば別記事でまた書くとしまして、ここでは、いままでしてきました「選択肢」と主体構築において、現在最も優れているんじゃないかと思う二つの作品のお話をして終わりにしたいと思います。

最初に、『ドラクエ』の例を挙げたようにまたコンシューマゲームの話になりますが、そういった方面において現在最も優れているであろうものの一つとして、『コール・オブーデューティー モダンウォーフェア2』における、あの悪名高き「空港テロミッション」があります。


ムービーでいいじゃんとか話を聞かせるだけでいいじゃんみたいな声をよく聞きますが*12、しかしですね、あれをそういったものではなく、「プレイヤーがプレイするもの」として作ったのが本当もう、天才的に優れているのです。このミッションは、マカロフというテロリストがロシアの空港で民間人をぶっ殺しまくるというミッションです。プレイヤーは、マカロフの元に潜入捜査として入ったアメリカ軍人(CIAの人?)となり、その空港のテロ惨殺現場でマカロフと行動を共にします。空港ですから、たくさん人がいますね。そこにマカロフが、テロリスト仲間連れて5人くらいで乗り込みます。そして無抵抗の普通の一般人をマシンガンで撃ちまくってぶっ殺しまくります。老若男女区別なく、逃げ惑う人々も、泣き叫ぶ人々も、勇敢にも銃を取り立ち向かう警察官(警備員?)も誰も彼も撃ち殺します。これがもう、人によってはトラウマもの、ボクはもうぶっちゃけ二度とプレイしたくない、そもそも世界中で非難続出だったりするシロモノなのですが、しかしこれをプレイシーンにしたのは本当に正しい。
実はこれもまた、『ドラクエ』などと基本原理は同じなのです。「はい」しか選べない。プレイヤーはその場に居て、マカロフの仲間という設定ですから銃を手に持っています。だから当然、マカロフてめえ何やってんだこらと、奴に銃を向けることになると思います。そうしたらゲームオーバーです。マカロフ、あるいは彼の仲間を撃ったらミス判定され、セーブポイントからやり直すこととなる。止めることは出来ないのです。言い換えるならば、マカロフたちの蛮行を許しますか、という問いに対して、「いいえ」が選べない。「いいえ」に相当する銃撃が選べない。手元に銃という選択肢があるにも関わらず、それを選んでしまったらやり直さなくてはならないハメになる、「いいえ」を選んだらその分だけやり直す、無限ループに陥るのです。しかもここでは、積極的な肯定もできません。もうこんなんだからいっそのこと俺もテロリストとして一般人を撃ってやる〜となると、それもゲームオーバーになるのです。一般人を撃ったらそれもまたミス判定され、セーブポイントからやり直すこととなる*13
つまり、見ているしかない。「いいえ」は当然選べないし、かといって積極的な「はい」も選べない。言わば「黙認」しか選べないわけです。私たちは、目の前にいて手段もあるのにただ黙っていることしか出来ないという「無力さ」の中、プレイ時間にして5分ほど、空港で彼らが一般人殺しまくるのをただただ「黙認」し続ける他にない。これが圧倒的に天才な部分ですね。空港テロの後、このプレイヤーキャラはマカロフに殺されて(はじめから米国スパイとバレていたわけです)、それを見たロシア側は「米国のヤローがこの事件の黒幕か!」と怒って、アメリカに軍隊を差し向けてきます。またロシアのみならず、世界中でアメリカがこの事件の黒幕と見做され、ボロクソ言われているといったことも作品中で語られます。
しかしながら我われには、「無力だった」という無念と、「黙認した」という傷が残ります。ある意味では汚点ともいえる。俺たちは空港テロをどうしても許せなかったら、電源切ってディスク取り出して中古屋に売り飛ばすという盤外の抵抗ができたはずなのに、それをしないで、続きが見たいから、もっとゲームを遊びたいからと、空港テロを、ただ黙っていることしかできない「決定的な無力さ」の中で、「黙認してしまった」という無念、傷、汚点。それがあるからこそ、よりマカロフを憎むのです。その点では「マカロフをより憎ませるためにああいう作りにしました」と言った開発のInfinity Ward は正しい。ただムービーで流れてたら、私たちは「悪い奴がいるなーぶっ倒さなきゃ。あ、しかもこいつによってアメリカの所為にされた! ふざんけな」と、ただただ純粋な怒りをぶつけるだけになっただろう。しかしこのように、何も出来ない癖にプレイさせた―――いや、”何も出来ないということを分からせるためにプレイさせた”ことにより、私たちにはより屈折した怒りが生成された。形式の上だけ選択肢にしたことによって、マカロフに何も出来なかったという無力感と、止めることが出来なかったというある種の後ろめたさが強烈に生み出された。たとえばこの作品では、この場所以外にも、プレイヤーキャラクターが殺されたり、大事な仲間や一般人が殺される場面はあります。しかしそこではムービー(プレイ不可能)という形を取っていて、ここで生じるような無力感や後ろめたさは、これほどまで強くは存在しないわけです。だってムービーだったら何も操作できないんだから、シェパードにローチを殺され、ゴーストも殺されても、怒りを覚えはしても無力感も後ろめたさも(ほとんど)覚えない。「しょうがないな」で済む。だって操作できないのだから。しかし空港は違う。マカロフは異なる。実際には操作できないと同じ、事実上は何も選べないのだけれど、しかしあのように操作できる体裁を、選択できる形式を作り上げ、それを私たちにプレイさせた。だからこそ、これほどの無力感と、ある種の後ろめたさという傷・汚点を私たちに残してしまった。そう、だからこそ、マカロフを殺さなくてはならなくなるわけです。あの空港で死んだ人々のため、あそこで死んだ潜入捜査をしていたプレイヤーキャラのため、濡れ衣を着せられた米国のため、それで死んでいった者達のため、そしてなにより、この俺たちの怒り(という名の無念/傷/汚点)のために。


これと似たような、苛烈な無力感と傷痕をプレイヤーにもたらす選択肢として、エロゲでは『WHITE ALBUM2 closing chapter』が挙げられます。ネタバレになるので詳細は避けますが、本作では途中で「コンサートに行く」という選択肢が出てきます。しかしこれが選べないようになっている。「ここに残る」とか「二年参りに行く」といった、別の選択肢しか選ぶことができない。”選択肢が表示されてるのに、選択できない”というのは他のゲームでもたまに見かけますよね。大抵はそこまでの選択肢で何かミスってるとか、誰か他のキャラをクリアしてからじゃないと選択できないとか、そういう場合が多いです。『WA2cc』のこの選択肢もそういうものかと思い、プレイを続けたとしましょう。しかし何人クリアしてもどうやっても一向に「コンサートに行く」という選択肢が選べません。それどころか、終いにはこの選択肢自体が消滅します。つまり、最初から最後まで、結局選べないのです。なぜ選べない選択肢が実装されているのか(あるいは、選べない選択肢が存在するということはどういう効果をもたらすか)、ということはこの記事をここまで読んでくださった方なら想定付いていると思います。これは、何度選んでも「はい」しか選べないよりも、さらに苛烈な、「無力感のなか黙認するしか選べない」に近いです。コンサートに行けばあるヒロインに会える、それによりその子のお話が綴られるだろう、ということがプレイヤーみんな分かっているのに、にも関わらず、プレイヤーみんながその選択肢を選べない。ここでわざわざ選べない選択肢を本当に実装したこと、これもまた天才的ですね。ここで我われは圧倒的な無力感と共に、その子に対する執着とある種の後ろめたさを背負った主体として構築される。「事実上何も選べなくても形式上はまるで選べるかのような体裁を取っている」ことが重要であるとここまで書いてきましたが、その(現在のエロゲにおける)究極の形であろうものがここにあるわけです。

*1:マルセルさんのErogameScapeにおけるサマリーはちょくちょく更新されてログが残らないので、tumblrにリンク

*2:これらのタイトルには、共通ルートで「誰と会うか・誰のところに行くか」といった選択肢は存在しますが、それ以外の選択肢はゲーム中一切存在していません。

*3:記憶で書くので細部違ってるかもしれませんが、主人公が女の子5人と海に行って、「誰と一緒に遊ぶか」という選択肢が出てくるわけです。本作の選択肢はその一回で終わりです。そこで選んだ女の子のシナリオに入ります。

*4:最初に主人公が向かう場所を二つの選択肢から選び、続いて向かう場所もまた二つの選択肢から選ぶ。その組み合わせ(4パターン)から、入るルートが確定します。

*5:もちろん、古くは『サクラ大戦』、最近では『真剣で私に恋しなさい!』シリーズがそうであるように、何も選ばないという選択が出来るゲームもあります(何も選ばないと時間切れになる)。ただしそれも、実質「選択項目の次のn個目の選択肢」でしかなかったりします。

*6:『HoneyComing』のオンリーワンモード(最初に選んだヒロインのお話以外存在”しない”モード。アンインストールしない限り、他の選択肢は選ぶことができない)は、その意味では圧倒的に優れています。一つだけ選べる代わりに、何も選べない、のだけど、そうであるからこそ、一つだけは本当に選べているのです。ある意味では現実の僕らの人生と同じで、選択を本当の一回性のものにしてしまった。

*7:もちろん、「どうでもいい雑談部分の選択肢に「面白い」という意味がある」というゲームは沢山あります。たとえば、主人公がヒロインに「何を言うか」を選択肢で選べるのだけど、そこでのヒロインのリアクションが気になるので、セーブして全部の選択肢を試すとか。また、笑える系などでは特にそういったところで効果を発揮していますよね。選択肢で選べる内容がそれぞれある種の「ボケ」のようになっていて(そしてそれを受けたヒロインやキャラクターたちの反応が「ツッコミ」のようになっている)、だから色々と試したくなるようなゲーム。ボク自身が最近プレイしたゲームだと、『まじこいS』とか、『ラブラブル』とかは、テキストとかギャグが面白くてですね、だからセーブした上で殆ど全ての選択肢を選びました。

*8:もちろん、ボクが言ってることとマルセルさんが言ってることが同じ意味を持つのかは分かりません。

*9:ぶっちゃけ曲解というか、メッツの論旨とはかなり離れています(けどこれで合ってると僕は思うので書いちゃいましたがw)。

*10:形成が正しいのか生成が正しいのかはボクも知りません。ボクの中では一応使い分けしているのですが、しかしそれ以前にこんな読み間違えやすい(漢字一文字の中のたった一字が違うだけで、パッと見では見分けが付かない)語句を使い分けて運用するという発想自体があからさまにナンセンスなので、しょーじきごっちゃにしちゃっていいと思うのですが。

*11:たとえば栞シナリオラストで言及されるように、「なんかそういうの匂わせる夢を見た」程度にしか知らない。このあと、「あゆは今どうしているんだろう」みたいな台詞が続くように、全然知らない(テキストをもうちょっと正しく読むなら「(祐一は)深く考えればあゆのことも想像付くかもしれないけど深く考えない=知らないように気をつけている」)のです。

*12:実際「プレイしない」を選択することは可能ではあります。というかボクはもうプレイしたくない。それだけ酷い。

*13:アメリカ版ではそれが可能なように、その辺の処置は発売されている国によって多少異なります。少なくとも日本版では不可能、ゲームオーバーです。